悪夢に宝石を散りばめて

 前の週、銀座のグッチでフェリーニの『甘い生活』を見て数日後にエルメスでトラン・アン・ユンの『青いパパイヤの香り』を見る、

 とか書くと余裕のある金持ちみたいな錯覚を(俺自身も)してしまうのだが、実情は真逆なので、問題はない(は?) でも、まあ、浮草生活で、優雅なシネマを見るというのもいいものなのかもしれない。

 どちらの映画も学生の頃に見たきり、十年以上ぶりに再見するのだが、割りと覚えているシーンはある。

 『甘い生活』は華やかで虚しいイメージが強く残っていたのだが、再見すると、主人公と恋人のような女性との、うんざりするような愛憎関係や父親を接待するときのキマリの悪さ、といった生々しい面倒臭さも胸に来た。

 勿論、愛を囁かねばならないのに、その愛をすぐにゴミクズにしてしまう星々のようなきらびやかな女性やスマートな男性、という虚美や花影のフルコースは、とても虚しく、また、少し、心地いいものだ。

 でも、このプライベートシネマ、当日十数人しかいなかったのに、なんと上映中に3人も退席していた! さすが、というべき、だろうか?

 映画の美しさ、虚しさ、バカバカしさ、のつまっているとても素敵な映画だなと思う。また、数年後に映画館で見たいなあと思った。

 一方『青いパパイヤの香り』の方は、台詞を排して音楽や(ちょい)長回しの、人物の行動で見せる、映像がとても美しい映画、なのだが、再見すると、何だか単純に説明不足な点があるような気がしてきて、特にラスト付近とか、展開もそうだが、どうだろうなあ、とか思った。

 あと、音楽で魅せるのもいいのだが、後半の音楽家が演奏する以外の部分はやや蛇足でいっそ音楽も自然の音以外いらないような気もしてきた。

 まあ、好きな映画には変わりがないのだけれど、ちょいちょい気になる点もあったなあと思った。

 買い物をしたくって困るというか、精神安定のために、金額はいいから、とにかくほとんど毎日買い物をしていて、とはいえ金があるわけでもないのだから、チマチマ買っている、つもりなのだが、ちりもつもればで、月末のカードの支払で死ぬ。

 まあ、いつものことですけれど、ね。てか、明るく考えたほうがいい、ということにして、ギュスターヴ・モローの小さな画集を買ったのだが(多分家にある)その中で彼が、


「私は自分の目にみえないものしか信じない。自分の内的感情以外に、私にとって永遠確実と思われるものはない」

 とても美しく、また、なんて困難な言葉であろうか。だからこそ、この言葉は重く、素敵なものだ。自分自身の美意識を信じる、それを顕現させるという困難を成し遂げること。

 バカバカしい、貧しい逃避や無駄遣いのゴミのような集積で俺はできていて、その間に見る、まどろみのようなオブセッションのような夢を悪夢を、見ることができたら、形にすることができたら。

 あ、ユニコーン欲しいです。セボンスターの買いました。ぬいぐるみが欲しい。ユニコーン