世界の合言葉が恒常性ならば俺は哀しい

 友人とメールをしていて、モヤモヤしていたことを言葉にした。いや、前々からずっと思っていたこと。変わらないこと。色々なSNSやらネットでつながることが増えてはいた。それ自体はとてもいいことだ。でも、物凄く感じるのは、何かを作る人達、(サービス、情報を)販売する人達は自分のそれを発信する、人目に突かせるのに夢中で、「作品」について感動する、という言葉がとても少ないように感じられたことだ。

 ただの感想、でもいい。作品を作るということは、必然的に新しい物や過去の作品に心を傷つけられる/ひと時の愛撫を受けるような、「言葉にしたい体験」を受けるものではないだろうか?

 それよりもずっと、愛の言葉よりもずっと、このネットの世界では自分が生きるための、或いは「実用性」が求められている。それが、哀しい。単に俺の価値観とは違うって言うだけの問題だけれど、そういうものばかり目にしていると、皆感動してないのかな、傷ついてないのかなと勘違いさえしてしまいそうになる。

 その愛の言葉、さしせまった言葉は、決して、「つぶやき」ではないと思う(ツイッター批判ではないので、念のため)自分はどうでもいいという立場に立脚したところからの言葉。それがあまりにも少ないような気がして、俺はいつも途方に暮れるのだ。

 ディオールオムと亀井徹がコラボをしている。ロックなスピリットに、亀井のヴァニタス、とのなんと相性のいいことか。ヴァニタスとは「人生の空しさの寓意」を表す静物画。亀井の画には骸骨や花々がほぼ描かれている。お金や砂時計やシャボン玉やら、虚しくも消え失せるものというモチーフ。それらはとても美しい。そして、役にたたない。

 これこそがポイントだ。歌舞伎のもと、傾く。という精神。日常生活には適さない、馬鹿げている服のなんと美しくも虚しいことか! しかもこれらを着られるものは体系的にも限られるし、すぐに中古のセールでアホみたいな値段になったりする。だって、「普通は着られない」服だから。でも、その洋服が美しいのは紛れもない事実なのだ。

 繋がること成功すること前向きになること時代に合わせること自分をアピールすること、らは大切だ。でも、俺はそれよりもずっと、愛の言葉めいた、馬鹿げた信仰心めいた吐露の方がずっと好みだ。

 自分の作品であったとしても、自分なんてどうでもいいということ。喜捨や蕩尽は俺の中で同義で、生きること、よりもカッコつけること、届かぬ片思いというオブセッションにとりつかれることが、物を作る人間、という気がしてしまう。

 これらは俺の意見。ただの俺の意見。だけれども、周りを見てもこういう話をしても「ぽかーん」とされるのが、俺は哀しい。そして、それがこの世では「正しいのだ」から、俺は時折「ぼんやりと」死にたくなるけれど、傷つけられたことを思い出すと、俺に刺すような痛みを教えてくれたあれやこれやの人、作品を思い出すと、もう少し俺も頑張れるかなと、空元気がわいてくるのだ。

 自分よりも大切な物が多い方がきっと人生は豊かだと俺は信じる。