やがて消える火

電車賃が惜しいとかみみっちいことを思いながら銀座のエルメスで『ポー川のひかり』を見る。

 ヨーロッパ最古とされる、イタリアのボローニャ大学。夏季休暇に入ったばかりの図書館で、大量の古文書が太い釘で床に打ち付けられるという衝撃的な事件が起きる。容疑者として浮かび上がったのは、忽然と姿を消した若き気鋭の哲学教授。将来を嘱望されていたこの若い男は、車も財布もすべてを投げ捨てて、辿り着いたポー川のほとりの廃屋で新しい生活を始める。時代に絶望した男だったが、素朴な村人たちとの交流を通して、生の息吹を蘇らせ、真実を見出してゆく……。


 とのことで、画面は実相寺昭雄を想起させる、ある一点をアップさせたり、仰々しい音楽の演出(こちらは嫌いだが)、テーマも画面も好み。クリスチャンである監督の言葉も

「教会が人間よりも教義を重んじるかぎり、わたしは教会のあらゆる形態に反対します」

 と言っていて、かなり期待度は上がっていた、のだけれども、

 冒頭から一人で何もかも投げ捨てた若き新鋭が、街で「偶然」話した男と女に気に入られて「翌日」にはもう、片方はあばら家を一緒に直してくれる友人、もう片方はパンを勝手に届けてもらうとか、なんかご都合主義的な展開。野宿の辛さなんてこれっぽっちも無さ過ぎる、村人ともあっという間に仲良くなるし。
 
 と思うと、名前は最後まで明かされない主人公はその風貌からも「キリストさん」と呼ばれる。でも、彼は特に何か奇跡を起こせるわけでもなく、古文書を駄目にした罪で警察に捕まってしまう。

 でも、その後の展開がかなりモヤモヤして、だって、そのキリストさんはただ「犯行して、反抗する」だけなんだよね。かなり自分勝手な理屈をぶつけるだけ。これを寓話として見ても、主人公の魅力や説得力に欠けるなあと。まあ、わびしいラストシーンは好きなのだけれど……

 信仰や意志があるのならば、他人のそれを侵害するのはおかしいなあと感じた。何だかブルジョアジー自爆テロごっこみたいな。

 あと、半年以上前に完結していた『軍鶏』という漫画の最終巻を読んだ。

 アマゾンレビューで、最終巻。50以上のレビューの30以上が☆一つというフルボッコ状態。ラストのネタバレも書いてありまくっていた。それでも、読んでみた。

 俺はこの軍鶏という漫画が大好きだった。初めて読んだのは高校生位だったと思う。両親を殺してしまった「軟弱な優等生」。彼は「自分が殺されない」ために、親を切れてナイフで殺傷する。そして事件になり、少年院へ。

 少年院での壮絶ないじめ。そして、男に無理やり犯される。看守にもゴミ扱い。そんな彼は人間の性は悪だ、と、ここから逃げ出すために、フェラを強制された相手のペニスを噛みちぎる。

 そして、彼は空手の授業で、師匠となる人物に出会う。そして、空手だけが自分を守る術だとして、それに一心不乱にのめり込む。弱い奴は殺される世界。

 そして出所した彼はいっぱしのチンピラになっていた。犯罪なら人殺し以外なんでもする、薬も強姦もケンカも男娼も暴力も、構成員ではないがほぼヤクザのような主人公。

 そんな彼は(当時)大人気だった格闘技イベントを目にして思う。あんな華やかな舞台にいる菅原(ライバル)。彼は空手をしていた。でも、あまりにも自分とは違う。そのことにやりばのない、自分勝手な怒りを感じる。

 ライバルは自分とは違い元々空手をしていた、主人公とは違い体格も良く、清貧の中で空手で生き抜いてきた真面目過ぎる好青年。

 そこには大きな収益があった。格闘技イベントの(執筆当時)最盛期。悪い、主人公は「元少年A、親殺し」として、体格もレベルも違うその舞台に色んな悪い大人、ダメな大人の手を使って参加をすることになる。ライバルの恋人の人気タレントを犯したり、空手の清いイメージを使うけれどその実興行主の数字と金が欲しいライバルの師匠を金で参加をちらつかせる。そして修行、無理なステロイド、恐怖と興奮。ライバルのような猛々しい猛禽の鷹に、「軍鶏」が挑む。

 という前半は本当に面白かったし、何度も繰り返し読んだ。殺されないためにする「空手」しかし、主人公は様々な「普通の青年」のような感情を持ちながらも、様々な罪を重ねて、人々の悪罵を受け続けて生きていく。どうやっても拭えない罪の数々。

 この漫画は途中で原作者と漫画家がケンカして、原作者が下りてしまう。そのライバルとの戦いで、後はほんと「普通の」アクション漫画になってしまった。惰性で読んでいたし、単純につまらなかった。

 ただ、この主人公が最後はみじめに野垂れ死ぬ(ポエムありまくりだが……)なのは、良かった。この漫画の冒頭であった、セミが最後にもモチーフとして出てきているのも。

 ただ、娯楽品として、この色んな伏線ぶっちぎって、だらだら連載して、主人公は突然死にました。に、十数年読んできたファンが激怒した気持ちもすごく良く分かる。

 でも、主人公の生きざまはこれしかなかったような気がする。好き勝手に生きて、どんな情熱や苦しみがあっても、結局は野垂れ死ぬ。罪を重ねた物には幸せは許されない、のではなく、戦いの途中で、道の途中でそれが途切れる、というのはカタルシスには乏しいかもしれないが、俺は高校の頃夢中でこの本を読んだ読者の一人として、評価一、みたいにしながらも熱心な感想を書く人みたく、この結末を評価しながら、虚しくて寂しくて、それがいいなあと思う。

 『ポー川のひかり』の最後も、主人公が村の皆に待ってもらっているのに、それから誰も彼を見る者は無かった、というラストで、そこは好きだ。

 人生は不条理にできているのだから、不条理に終わる。それのどこが変なのだろうか。娯楽作品だから最低限のことをしろ、という気持ちは分かるけれど、でも、それでも旅の途中で失ってしまうということは、胸に来た。

 俺はどうなるのだろう。何にせよ、情熱は大切だ、どうせ燃え尽きてしまうのだから。