君は肌に恋文縫い付けて 男の吐息盗むんだ

 何かを口にする時に躊躇うのは、自分の言葉がコミュニケーションに適していないと気づいているからかもしれない。気狂いのようなモノローグを繰り返すことに少し疲れただけなのかもしれない。欲望。それは素敵な事だと思う。対象が何にしても。

 薬や他のことで頭をどうにかする、というのにも飽きてきた、というか疲れ切っていて、しかし疲れたって、本当に疲れ切っているならば、俺は自殺するのだと思う。俺の日々、緩慢な自死。体臭が染みついた毛布のように、疎ましく居心地がまだ、ましな、それに包まって、蛹のまま腐っていくかのようだ。

 薬を飲むのを少し止めてみた。調子は不安定になるし、色々な症状が、些細な事、の集積、が出てきたのが分かるが、ああ、これは投薬を止めた時の自分が戻ってきたのかなあと思うこともある。だが、投薬を止めていた時の俺だって病的、なのだけれども。或いは俺以外の人狂人ばかり。踊る踊る踊る人ら、または俺だけが多動でオートマチックオペレーション。

 俺は壊れる、しかし機械だって壊れる。大丈夫、だというような気になって来る。機械のように愛らしい俺ら。

 歩きながらipodの音楽と一緒に歌う、軽く口ずさむという癖が、一年以上ぶりに復活している。自分が歌える歌と好きな歌はまた別だ。あと、当たり前だがインストやテクノは歌えないわけで、何だかんだで決まったポップソング、使い捨てのポップスターの歌を口ずさむことが多い。

 数年ぶり! にジャズトロニックの七色を聞いて歌う。J−POPの中のハウス風味、クラブミュージック風味の曲は大抵好きになる。ノリが良ければそれでオッケー。MAKAIやjazzin'park とかモンドグロッソとかエムフロウとかダイシダンスとか。少し古いダンスミュージック。それか、アヴァンポップ、というのにふさわしい、キリンジやパリスマッチやピチカート・ファイヴ。十数年前は本当にピチカートばかり聞きすぎていて、反動でここ何年もそこまで聞いていない。でも、久しぶりに聞くとどれもこれも素晴らしいと思えるのが幸せだ。

 

 口に出して何かを歌うのは、とても健康にいいことだと思う。とてもいいことだ。素敵な事。どうでもいい幸せ、を噛みしめているというのは、それだけそういうことから遠ざかっている証でもある。まあ、無いよりあった方がいいのは確かだ。

 日本のロックだと、KEYTAKやgo! go! vanillas やキノコホテルや女王蜂を歩きながら歌ってることが多い(歌いやすい)。気持ちがいい。

 やりたいこと、したいことがないと感じてからどの位たっているのだろう。それでも、一応俺は小説を書いたり、映画を見たり音楽を聞いたり本を読んだりしている。しかし虚しい。上辺のコミュニケーションは、その場しのぎのやっつけ仕事ならばそれなりに得意だ というか今、生きているということは誰だってやっつけ仕事上手になっているということだ浅ましくも悩ましくも、その羞恥を飲み込んで知らぬふりをしているということだ。

 労働が嫌いなのは、金の為に不毛の為のコミュニケーションを強いられているという事実。しかし仕事をしているとお金について考えなくてすむ。俺が貧乏性だったり優柔不断ということもあるが、人生でいちいちお金について考えなくてすむ時間は少ない方がずっといい。

 自分の身体が厳密な意味で自分のものではないにせよ、一応の所有権は己にあり、それを動かしているのだ。ふと、自分が自我を持っていて一人の生命を操縦していることに新鮮な驚きや戸惑いを覚えることがある。それは新しい知覚、のような不思議な感覚。俺は、メイドインジャパンの三十過ぎのロボット。幸福も不幸も他人事、しかし俺はこの肉体と繋がっている。 どうにかしたい、と思うことがある。

 どうせ死ぬのだから、という思いが非常に怠け者の俺を動かしている。どうせ腐るのだ死ぬのだ だったらその前に出来ることはしておいた方がいいと思う。きっと。『ぼくはくたばりたくない』よりもむしろ、ぼくは、という主体を取り戻すリハビリテーションの続きのような気がする俺。

 だけれども、薬を飲むのを止めていると、あ、俺ってヤバイかもとまるで「ふつうのひと」のように感じられて、そういったことで俺はよくない逸脱をしてしまうような気がしながらも、何かを美しいと錯覚できるのは、きっとそういう恐ろしさの中に孤独の中に身を置くことから生まれるのだと思う。

 それがノイズ混じりの繰り言だとしても、それは俺が選んだ美しさなのだとしたら、それなりに大切にしなければならないだろう。こんにちはクールベさん 『出会い、こんにちはクールベさん / La rencontre, ou "Bonjour Monsieur Courbet"』 という絵画が頭に浮かぶ。彼が傲慢であったとして、しかし写実主義と評される彼だけれど、彼は他の人には見えないものを見ていた。そういうものが美意識なのだと思う。

 錯覚をめまいを手繰り寄せて、編集し形作ることは、なんと健康にいいことだろうか。ハウスミュージックのように健康的で哀しい。それを素敵だと、俺は嘯くような、そんな方がきっとマシだと思って。それは愚かなこと、だけれども愚かさなしの弱虫のままよりはきっとマシなのだと。