天の使いも地を這う者も夢を見ない

 数時間ごとに思考がぐずぐずになり振り回される。多動と衝動の躁から無気力と意味を見いだせない鬱へと一日の内、数時間で転々とするのがたまらなく疲れる。もっともこういった状況には昔からなっていて、何をして良くなるかなんて分からない。絶え間ない愚かなダンス或いは溝のようになって逃避睡眠。

 たまたま今日病院に行くので、主治医にそのことを話して、自分の状況を話していくと、やはり、かみ合わない。当然と言えば当然なのだが、治療には医師との相性ということがかなり重要な要素だろう。しかし、こういう状況になっている人間は、単純に患部がどうなっているということを報告するのではない。だから、根本的な治療というのは困難だろう。

 俺はその人の言葉がどうしても受け入れなくて、正直に、話しても言葉が通じないのがもどかしくあなたが不愉快でぶんなぐりたい衝動が強く出てきていて、だからこれ以上自分の内面について喋れない(勿論そんなことはしないから申告するのだが)と言ったら、目の前の人は苦笑いをしながら「ひどい、私は貴方に親切にしているのに」と言われて、酷く困惑した。

 目の前の人はお金を支払って対価を受けているのに?(暴力衝動を向けるのならば、こんな発言をしないで行為に及ぶだろう) お金を支払っていて、対象を観察、治療すべきなのに、なんでこんな言葉を患者に言わせているのだろう? その上で、なんで医師のようにふるまうのだろうか? まあ、免許を持って仕事をしているから、なのだけれど。

 と思ったが、もうこれ以上俺がその人と「なるべく正直な」言葉を話すことは無理だと判断して、俺は患者らしく振る舞うことにした。様々なことを話さねばならない場所で、俺は様々なことについて喋れない。或いは、少し喋って、それで会話が成立しないことに気持ち悪さと怒りで頭がいっぱいになる。それは、相手に告げることは出来ない。だって、相手は俺を不快に思っていて困惑していて、しかも話せば話すほど相手と俺とは遠ざかる。気持ちの悪い徒労。不毛に投げ銭をしなければならない。

 診察を受ける度に心がぐちゃぐちゃになる。自分のことを話すたびに、善意の的外れな言葉に迎合しなければならないことが、虚しさを覚える。自分の人生に疲れる。

 相手を罵倒する、かのようなコミュニケーション。そんなのは好きではないのだけれど、率直な気持ちを口にすると、俺は色んな人を不愉快にしたり困惑させたりする。結果、俺は社会と、人々とコミュニケーションがとれず、「患者のように」「そこそこ健康的な人のように」会話をする。

 嘘ばかりついて会話をする、お金を受け取る意義が、分からなくなる。そんなことを繰り返してまで生きたいということが分からない。分からないけれど、死ぬよりかはマシだ、とも思う。多分、人は生きる方が「望ましい」はずだ。

 個々、それぞれのケースがあるとはいえ、人か自殺する時には短絡的な理由ではない。様々な問題が積み重なって、それに精神が耐えられなかったり、生の意味を見いだせない時に人は自死を選ぶ。その後押しをすることはあるだろうが、一つの失敗で死を選ぶ人よりも、様々な穴が心に出来て、それを埋められないまま、その中に落ちて行く人の方が理解しやすいと思う。絶望、なんてものが厳密にはない、なんて言ったとしても、絶望に酷似した状況は、割とあっさりと訪れる。そこで何を選ぶかなんて、大した違いはないだろう。

 生きていくことが、きっと、望ましい、としても

 本は、多少読むことができていた、とは言っても、その多くが既読の本や読みやすい本を流し読みする程度なのだが。 

 高峰秀子の『瓶の中』という、エッセイの中の文章。

「出来ることなら、ものごとに対して悲観的に考えず、苦しいことは自分のコヤシとして生かし、いつもアッケラカンと明るくありたいと思っている。ということは、ほんとうの私はジメジメと陰気でケチで猜疑心の強いゴーツクバリな女であることを、私自身が誰よりも知っているからである」

 そう、彼女と俺とは様々なことが違うのだが、この部分は重なる思いがする。そして、俺との決定的な違いは、彼女は夫を愛していて、さらに本業の女優業でも、

「私は、はじめから、女優という職業を好きでも嫌いでもなく、ただ生活のために与えられた天職と思い、自分を『キャメラの前で泣いたり笑ったりする職人』なのだ、と割り切っていたが、同じ仕事でも、やりがいのあるよい作品に出演するほうがしあわせに決まっている。私のような怠けものが、木下(恵介)、成瀬(巳喜男)、という優れた監督にめぐり会えた、ということは女優としての私には最大のしあわせだった、と今でも感謝をしている」

 と言った、率直でありながらも、プライドと意志を持ってやり遂げたという点が、とても輝かしく美しく感じられた。

 愛情が無ければ、作品を生み出すことは、誰かと手を取り合うことは出来ない。感情の表出では、ただの自己満足だろう。まあ、それであっても、自分の人生が豊かになるのならばいいのかもしれないが。

 どちらにしろ、俺は愛場をどこに置き忘れていたのだろうか? 俺の身体を俺が操作しているのが、不思議だ、俺の頭の中で弾ける衝動と鬱が波のように繰り返されることばかりに神経が囚われていること。何より、自分の人生よりも、神の不在が肝要だとしたら、そんな人間に愛なんて感情が抱けるのだろうか?
 
 神からの愛なんて必要ではないのに、神の存在を求めている、ということが「一般的」であってほしい。面倒な自分の紹介、みたいなことはしたくない。アナキズムがない、創造性がない、多様性がない、或いはそれを「生活」の為に阻害されていることについて疑問が抱かれていないということが、たまらなく理解できない。

 それぞれが命題を抱き、それが存在よりも重要だと考えることがなんで一般的ではないのだろう? 一般的ではなくてもいい、けれど、なんでこういう説明をするのは面倒くさく理解されにくくこんなことを回りくどい言葉で口にすることになるのだろう? 愛の言葉は生活に、いや、恒常性を基盤としていて、人間活動から外れることをこんなにも恐れるのだろう?

 己の人生よりも大切なことがある。それが、俺は、愛に似ていると思うのだけれども

 勿論こういったことに自己犠牲という言葉は似合わない。好きでやっているのだ。犠牲なんかにはなっていない。人生が人格が性格がボロボロになっているとして、そんなことはどうでもいいことではないだろうか?

 愛を吐き出すことが出来ない。或いは俺には愛の残り香か愛らしき幻影しか持っていない、という疑惑。愛なんてものがあるにせよないにせよ、それについて疑問を抱くことというのは、多分、不幸だ。他者に作品に愛を注げないのも、自己愛を築けないことも。

 俺に愛はないのかもしれない、けれど、作品を作りたいという感情が俺を生き延びさせてくれている。何かを作り出す、作り出したモノ、が俺にとって輝かしいもの、というわけでもない。ただ、俺は自分の為に、コミュニケーションの為にリハビリの為に、ひまつぶしの為に、それを必要としていた。

 ただ、俺はゆっくりと自殺していくのだろう。衝動が湧きおこって、それに身を任せる時があったとして、それがどういった結果になるかは分からない。幸い、なのか、俺は死んではいない。ラッキー。

 緩慢な自殺は愛も欲望もない。だとしたら、それは虚しいような気がする。造り物の偽りのイミテーションの愛情を欲望を、多分俺は抱くべきだ、素直に、なるべきだ俺がそれを美しいと感じているとしたら。

 俺は夢を見ない。それが仕方がないこと、だとして、模造宝石のようなきらめきをたまゆら、俺が生み出せるとしたならば、俺は死ぬまでに愚かな夢を見て行きたいのだと、そう思う。