I see the morning in your eyes

 思考が乱れて、行動ができない。展望もない。といったいつもの日々。激昂と無気力の間を瞬間的に移動するからそれだけでも消耗する。

 ふと、死んだら全て終わりになることを再び噛みしめると、気分がニュートラルに近づく。そう、俺の全てはどうでもよくなる。死んでいることも生きていることも。死を意識することが抱擁に似た恩寵であることが、不幸なのか幸福なのかは分からない。ただ、怒り狂うよりも屍人のように何もかもを停止するよりもましなのは分かる。

 死にかけの身体は思考は、ファンタジー

 アナ・バラッドの写真集にある、浅田彰の序文がとても的確で好きだ。彼女の撮る、アメリカの風景。どこにでもあるはずの風景が、SFの世界のような未来を見せる。デジャ・ヴュとしての未来。

 白昼夢めいた過去のハイテックの残像、デジャ・ヴュとしての未来。こうしてフリーズドライされたテクノロジーの夢が亜熱帯の自然と共存している―これがプラトー(高原)状態に入ったアメリカン・ドリームの一つの極としてのフロリダの光景なのである。

 未来のように見える、かのような風景。フェイクのようであっても、それは確かに実在する。それは幻覚のような、魔法のようなものだ。

 『世界の不思議な音』という本で見ること、についてデイヴィッド・ホックニーが語った文章があって(彼の作品は特に好みではないが) それは幻覚への姿勢を改めて見直すきっかけになる。 俺は俺らは、積極的に酔わなければ生きていけないのだから。


 われわれが何かを見る時、使うのは目だけではない。心と感情も使うのだ(略)実際に見るという経験、絶えず全体を見渡して焦点を切り替えながら風景を体験するという経験との違いだ。これは受動的な傍観者と能動的な参加者との違いであい彼が私達に求めるのは参加者になることだ。参加者は対象をただ幾何学的対象として見るのではなく、心理的対象としても見る。

 この言葉は割と好き、なのだが、それと同時に距離をも感じる。抽象画で言うと、ジャクソン・ポロックは好きだが、マーク・ロスコはあまり好みではない。それはポロックの絵画には求心性と遠心性があるから。抽象画でありながらも、工業製品のように美しく、感情移入を許さない、のにも関わらずそれは美術品として美しいから。

 美しいだけ。何のキャプションも物語もなく自立する絵画。絵画であると言うそれだけで価値がある。

 写真で言うと、俺はウジェーヌ・アジェの写真が一番好きだ。その場に物があるだけ、を撮ると言う誰も出来ないことが唯一出来る写真家、と俺が思っている彼の展示を見に行った。

 恵比寿の写真美術館で行われている、アジェのインスピレーション ひきつがれる精神 という展示。恵比寿駅から動く歩道ガーデンプレイスに向かう、その道が好きだ。動く歩道を使うとかなりすいすい進むことができるし(東京駅のとかは長すぎる)、混みあっていないし、楽しい。

 ガーデンプレイスに行くと、デートの記憶、なんてものではなく、実家から歩いていける距離なので、学生の頃学校をさぼって、たまに向かった記憶が蘇る。金は無いが時間はある俺の暇つぶし、って今も大して変わらないのだが。

 展示されているアジェの写真は見たことがあるようなものが多い。はっきりと、記憶の中にあるものもある。けれど、好きな物だから見ると身がひきしまる。パリの風景を顕現する、いや、レンズを通して俺は「あのころ」のパリを見る。写真は写った物を撮る、ということを最も忠実に出来る魔術師。それが彼だ、と思う。

 おそらく俺と似たようなことを感じていたはずの、俺が世界で一番好きな写真家その二、中平卓馬。彼も写真が対象を撮るということ、ただそれだけを痛々しいほどロマンチックに愚直に求め続けていた。彼の写真は(雑な分類だが)作風の違う前期も事故後のもどちらも好きだ。ただ、景色があること。それだけで感動的なのは、なんて心を動かすのだろう。

 展示ではアジェの作品はあまりなく、彼にインスピレーションを与えた、とされる作家が並ぶ。ベレニス・アボットマン・レイやウォーカー・エヴァンスはまあ分かるのだが、日本の森山、荒木、深瀬昌久らというラインナップはどうかなあと思った。

 てか、俺の贔屓目ではなく、自著でもアジェについて熱く語ってた中平の作品がないのは何でだ? 

 何かしらの対象に感情移入すること、はきっと健康に良い。けれど、俺はそれが下手なのだと思う。過剰に感情移入するかそれが分からないか。でも俺はサイボーグではない、ただの人間。そろそろ耐久年数が近い。

 ただ、才能がある人の物に触れることは、俺に新しい幻想を与えてくれる。それがキッチュでまがい物の、シンナーのような夢、ガラクタのサイエンスフィクションであったとしても。

 健康的に、生活基盤を築きながら、夢を見れる人がいるとして、それは俺とはあまり関係が無い話だ。お薬でもアルコールでも人間でも、夢が見られるならそれはきっと素敵な事。でも俺が夢を見られるのは、現実を掴めないと言う一点に収斂するとしたらそれは、げんなりすると共に、それなりに刺激的だ。がっかりだ、でも、俺にはそれしか無いのだきっと。