short trip

 西村賢太の『暗渠の宿』と『どうで死ぬ身の一踊り』を運よく古本屋で見つけて購入した、笑った。小説を読んでにやにやすることはたまにあるのだが、思わず声が出てしまったのは久しぶりだった。

 破天荒な男の私小説、と言えば聞こえがいいのだが、中身はソープ嬢に金をだまし取られた恨みやら楽しそうに談笑する他人を蹴り殺したいとか女の両親から金を借りて土下座までしたくせにその女に暴力を振るうとか、そういった類のもので、身投げする勢いで藤澤清造という作家の本を自費出版しようとしていることを加味しても、普通の感覚を持った、特に女性は腹立たしくて読みとおせないのではと思うような本だった。

 でも面白かった。女と中睦まじく会話している数秒後に「このサゲマン」と罵るったり癇癪をおこして女に暴力を振るった後で、女が骨折していることが分かり救急車を呼ぼうとするのを「自分には前科があるから転んだってことにして」と懇願するシーンは福光しげゆきの『僕の小規模な失敗』の一人悶々とバイクに乗りながら突然「×××を舐めたい(伏字なし)」と大ゴマで決めたり、ストーカーまがいのことをしてまとわりついている女とのファーストフード店での食事の後で、彼女が使用したストローとかを持ち帰ったりするシーンを思い出させた。下品なのが面白みを生んでいるだけではなかった。そこに愚直さが出ているのがおかしさを生んでいたのだ。

 しかし、福光は生活が安定してからはぱっとしない漫画を描き続けている。貧乏やら孤独やら不幸やらルサンチマンを売りにしてデビューを果たし、その後で「ネタ切れ」に見えてしまうのは痛々しい。特に私小説に限ると、そうそうネタになるようなことなんて転がっているわけはなく、評価が続いていくと(あるいは金を手にすると)作者が自己愛の隘路に迷い込んでしまい、そこで居直ってしまう(ように見える)例が多いように思う。西村の著作は二冊しか目を通していないけれど、彼が藤澤清造の全集を自費出版するその余技としての小説だから、ここまで愚直になれているのだろうか?彼が私小説の作家を目指していないからこその作品なのだろうか?愚直さは失われるものなのだろうか?

 また、私小説というと必ずのように色恋や生の苦しみといったものが主題にあがるのは何故だろう。恒常性に跪拝することばかりを目の当たりにすると、それに悪罵をかけねばならぬ衝動がむらむらと起こる。らぶあんどぴーすと芸術を混同している有名人に誰も糞を塗らないのならば自分がその間抜けな役割を引き受けなければならないのではとさえ思う。

 信仰に値するものを一時のものだと考えるのは、他者の中にだけ見出すのは、生まれつき老いている証拠だ。しかし恒常性に牙をむく俺こそが生に執着しておりその矛盾に羞恥する。破滅をもいとわないことが何の証明にもならないことを知っていながら、どこかの安定の上での言説に蔑みを感じる。浅田彰というよりもジュネや川端康成のような絶え間ない逃走の姿を思うと、放っておいても死んでしまう、どうせ死んでしまう、と思うと気分がいくらか楽になり、明日の生活を続ける分の恒常性も生まれはする。これからも自己矛盾を許しながら生活を続けるのかと思う肋骨の上には肉が乗っているのだと心の臓は絶え間なく血を吐き続けているのだとしばし思いを巡らせとにかく黴臭い布団に頭を突っ込めばいいのだと思う。とにかく逃げださねばならないのだが行き先なんて見つかったことがないのだからその場所に対する意志もあっさりと霧散しなんとか魅惑的に映るように説得をして向かう先は既にぼやけてい入るのだがまだまだにげださねばならないし恒常性にまつわる様々なことも呪わしく麗しいのかもしれないと思う。