覚書

アントナン・アルトーの著作集を読み返している。思えば演劇というものに以前はあまり興味が湧かなかった。それは演劇が編集できないからだ。芸術とは志向性を導き、要素が互いに作用しあう堅牢な秩序が必要で、なおかつそれは簡単に幾度でも再現(現前)可能である。そういう風に考えている俺にとって、演劇は不確定要素が多いもので、芸術的であるといってもいいかもしれないが、やはり芸術とは少し距離を置くものとして認識していた。ただ、俺は芸術至上主義、芸術という権力万歳、というわけではなく、定義はどうであれ「当然」「好きなものが好き」であり、堅牢というものはそれだけで惹かれるものであるということなのだ。

 また、演劇に関わるには出費が求められる。毎回役者やら場所やらが必要となり、形態が違うのだから費用を求められるのは分かるのだが、それならもっと費用対効果がいい方がいいや、と思ってしまっていた。また、演劇は演じる側が気持がよくて観客は置き去りにされているような偏見が消えず、他人のカタルシスに長時間付き合わされるのは、という短気な意見も抱いていた。

 それでも、例えばベケットやジュネの戯曲本で読むと実際に目にしたいなあ、位は思うし、『欲望という名の電車』は映画版も好きだし、どうにか演劇を好きになれないのものか、という思いは前々から燻っていた。しかし弱い炎だった。当然、戯曲はやはり本ではなく実際に見て楽しむものだ。けれど、と書こうとして飽きもせず同じ主張を続ける自分の幼さに苦笑とともに自重、

 することにして、久しぶりに読んだアルトーの本には魅力的な部分がかなりあった。一部ではあるが引用する。

「演劇は形象と典型的形象の概念を再発見し、その形象や象徴は、いきなり眠りから覚まされた我々の頭の中に、休止符として、延長記号として、血液の循環を止めるような、体液への呼びかけのような、イメージも燃え上がる圧力として働きかける。演劇は我々の眠っているすべての葛藤にその力を返し、それらの力に名を与える。それらの名を象徴として崇めるのである。そしてそこで、我々の目の前で、象徴の間の戦いがはじまる。組んずほぐれつのとんでもないつぶしあいである。なぜなら演劇は不可能なことが現実に始まらない限り、また舞台で起きる詩が現実化した象徴に養分を与えそれを加熱しない限り存在しないからである」

「私が提案するのは、陶酔を引き起こすイメージあ方法の物理的認識という考え方に、演劇によって戻ることである」

「したがって、演劇にとって問題は、言葉と動作と表現の形而上学を創造することであり、それによって現在の心理的人間的次元での足踏み状態から脱却することである(略)もちろんそれは、舞台上に直接的に形而上学的諸観念を導きいれることではなく、これらの観念を巡って数々の誘惑と呼びかけの空気を醸し出すことである。そしてこれらの観念の誘惑を方向づける方法について最初の概念を与えてくれるのは、ユーモアが持つ無軌道と、詩が持つ象徴性とイメージである」

「一言でいえば、演劇とは具体性と抽象性の深遠な同一性にとっての実験的証明の一種となるべきなのです。なぜなら、語による文化と並んで動作による文化があるからです」

 アルトーの言葉はニーチェバタイユの言葉のように、「細かい話はいいよでも元気になるだろ?」といった類のもので、その力強い文章の与える陶酔に浸ってばかりもいられないにせよ、元気をくれた。演劇に対する素養(便利な言葉)がない俺に、思考の時間をくれる文章だった。また、アルトーマルクス兄弟についても割と好意的に言及していて、サミュエル・フラーダグラス・サークやJLGについて彼が見ていたとして、その感想を聞いてみたいな、とも思った。

 しかし個人的には、彼のこれらの言葉を「思いだした」り「初めてであった」ことに情けなく感じた。俺に限った話ではないが、特別なこと以外、人は簡単に、特別だと思い込んでいることでも、細部を忘れる。細部どころか輪郭しか覚えていないことも多々ある。忘却に救われている面が多いと俺は感じることもあるにせよ。

 恥と好奇心が俺に生活への気力を与えてくれる。知らないことがあまりにも多く、仕事をしたり自棄になっていたりしている場合じゃないだろ、そうだろ?