冬に逢いましょう

建物の老朽化で原美術館が閉まるそうだ。美術館はどこもそれぞれの良さがあるような気がするが、あの庭つきの、落ち着いているけれど開放的な空間はあそこだけの空間という感があり、何だか寂しくなる。老朽化が原因というのも、今までよく頑張ってくれた、と言いたい建物に。

 

 原美術館で記憶に強く残っているのはサイ・トゥオンブリーの展示で、数年前に見た展示の感想を日記に書いていたので、そのまま張り付けると、

 

最初はあの執拗な、落書きのようにも見えるフリーハンドの素描のような絵画が見たかった。子供の「らくがき」のように見えて、しかし、それはやはり、とても美しいのだ。センスがいいとか、構図が優れているとか、何を言っても不十分だ。とにかく、目の前の引っかき傷のような、ストロークのような、線の画が美しいということ。

 それに加えてペインティングの絵画もとても良かった。無題であったりあまり意味をなさない(であろう)題名の連作等が、とても艶かしく美しく活き活きとしていて、カラヴァッジオレンブラントのような生々しさ、あるいはマティスのような躍動感を感じた。

 抽象画を生き生きとさせるものとはなんだろうか?十年近くまえに目にした、カンディンスキーの言葉が忘れられない。彼が美しい、と思ってしまった自作の画は、逆さまになって陽光に照らされていた自身の画であるという、しょうもない、恐ろしくも微笑ましい発言。モーパッサンの『知られざる傑作』も想起する。

 そう、写真家のラリー・クラークが以前「年老いた俺を、あいつら(若いストリートのワルガキ)は年老いたオカマみたいに見やがるんだ!」と発言していた。その痛々しさ、ゲイではないのにも関わらず、幼き日のヒーロー<ワルガキ>共に魅了さえる不毛な情熱。

 

 あの時の自分はこんな風に感じていたのだ、と思い返すのは結構楽しくも興味深い。みんなもツイッターやインスタや動画配信ではなくもっとブログを書くといいと思う。みんな大切なことをすぐに忘れてしまうから。数年ぶりに、忘れたくないことに出会えることもあるから。

 

 原美術館の閉館を知って、想起したのは川村記念美術館で売却されてしまったバーネット・ニューマンのアンナの光のことだった。俺は大学の時に友人とそれを見た。本当に、すごいと思った。

 

 拾い読みをするように、雑に様々な物に触れていると、自分がその中の一握りの美しさしか解さないことに気づくようになる。そしてその一握りの物ですら、自分の触れた手からすり抜けていくことも。

 

 絵画は印刷されると色味が質感が変わる。当たり前のこと。でも、それでも印刷されたそれで満足できてしまう、いや、むしろ現物よりも本に収まったそれの方が良く見えることもある。

 

 好きなミュージシャンだって、ライブの生演奏を聴いて、修正されていない彼らを見て興が冷めることだってある。

 

 だから、生身の作品に、人に出会って感動できるのは、とても素晴らしいことなのだと思う。

 

 見て、あの空間に行って、もっとアンナの光が好きになった。家に欲しいと、何度もこの作品との時間が欲しいと思った。でも、俺は川村に気軽に行けるわけではない。それに、(売却先が)海外に行ってしまったなら、もうきっと会えない。寂しいし、それでいいと思っている。まるで昔の恋人、昔の片思い? それよりもきっとロマンチックだ、だって、作品は喋らない。貴方のナルシスとセンチメンタルに甘い。でも、セックスはしてくれないけれど。

 

 ずっと美術館に行っていないから、という気のない理由で、bunnkamuraの国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティックロシアの展示に行く。

 

 先日たまたま同年代でコンセプチュアルアートを制作している人と少し話した。

 当たり障りのない話題、「最近何か見ましたか(良いのありましたか)」と尋ねてみたら、相手が少しはにかみ「いやー……あと、入場料高いですよねー」と返してきて、同感だった。

 

 その人もそうだったのだが、制作する人は、その人が有名無名、力のあるなし問わず、驚くほど他人の作品や美術史やら批評に無関心なことが結構ある。自分のことで精いっぱい、というか自分にしかできないことがあるから、そう思い込んでいるから何かを作れるのだと思う。

 

 他人の作るもので満足できないからこそ、何かを作る、とも言える。だって、世界には優れたものが素晴らしいものがあるのに、でも何かを作りたいって、無邪気なのか偏屈なのか。或いはその両方。

 

 でも、外からの刺激がないと何も作れなくなる。でも、刺激には鈍感になっていく。だから、出不精な俺は毎日のように「〇〇に行ってない、見てない、聞いてない、でもお金がないし……」というケチ臭い、しかし本人としては切実な思いに苛まれながら、身を切る思いで千円程度を払う。千円、二千円で身を切る思いがする三十代ってやべーな、と思う。馬鹿らしい。面白い。自嘲ではなく、他人事みたいな間抜けさにおかしさにふと、気が楽になることがある。

 

 要するに身を切ろう。美術館にはたまに行こう、という話。

 

 bunnkamuraザ・ミュージアムのいい所は渋谷にあること(俺の家から近い)。そして展示がいわゆる有名作品を取り扱わないこと(有名な人だって好きだ、でも、とても込むから嫌だ)。我ながらとても消極的な理由で失礼な気すらしてきたが、でも俺が一番行っている展示はここなのだ。気軽に行けるというのは良いことだ。

 

 ロシア芸術、といって頭に浮かぶのがドストエフスキーゴーゴリやらの粘着質もう質的な、寒さに耐える文学、アルコールの熱、ウォトカ。なのだが、この展示は題名がロマンティックロシア、ということで全然そうではない、むしろ印象派の作品に近いような、見やすい、万人に受け入れやすいものが並んでいた。

 

 十代の頃は印象派の作品についてなんでこんな質のいい、毒にも薬にもならないものを、等と心中で毒づいていたものの、二十代半ば位からか、割と素直にそれらを受け入れることができるようになってきたように思う。大好きではないが、好きだと思う。彼らは決して俺を傷つけたりかき乱したりしない、でも丁寧で居心地が良いのだ。

 

 今回行った展示も、風景画が多く並んでいて居心地が良い。風景画なんて退屈しそうな気がしないでもないのだが、当たり前だが、木や花や空を描いても、それぞれの画家の筆致が油絵具の厚さが息遣いが違う。彼らが見る自然に同じものはない、なんていう頭では理解している、さかしい中学生でも分かることが体現されている。

 

 分かっているのに、それをしばしば忘れてしまう。マチエール、マッス、デッサン。それだけでも感動的(なこともある)だということを忘れない、思い出すには、作品に誰かに出会わねばならないということ。

 

 気のせいか、たまたまテーマにそっているからか、その何点かの風景画がどこか物悲しい雰囲気も合わせ持っているように見えて良かった。キャプションによると、ロシアの風景画で冬の雪景色を描いたのはわりと少ないらしい。ロシアといえば寒さや雪を想起してしまうのだが、それに慣れ親しんだ生活者は繁茂した景色に焦がれるということなのだろうか。

 

 大好き、とまではいかないけれど好きなフリードリヒやアンドリュー・ワイエスの作品が頭に浮かぶ。暖かさ寂しさ物悲しさ。部屋の中で寄り添って欲しい絵画たち。

 

 この展示では応援キャラクターにロシアのチェブラーシカが選ばれていた。コマ撮り人形劇というのは何だか寂しい感じがする。野暮ったい、キラキラしていない、可愛いというよりもどこか不気味な感じすらある人形。チェブラーシカは家に人形がある位好きなのだが、その映画はかわいいけれど少し怖い感じもするのだ。作り物の持っているフェイクな感じとかわいらしさがどちらもある。

 

 日本のアニメーションはとても出来が良くてキラキラしていてそれも大きな魅力の一つだと思うが、チェブラーシカらが持っているちょっと不気味なかわいらしさというのが自分にとっては好みのものだ。

 

 また、外に出なくっちゃなあ、仕事探して仕事しなきゃなあと思う。家の中で本を読むだけでもいいけれど、働かなければと思いつつも、家にこもって朝から世界樹の迷宮Xと読書を交互にしていて、それに飽きてする雑記。

 

 雑記を書くのは頭の整理に良い。頭を整理する為にも、楽しい下らないおしゃべり。とりとめのない話のためにも、もう少し活動しなければ、等と思いながら外の寒さに早く春になってくれと思うが、春になったらなったで良い温度だから窓を開けての午睡、といった様子がありありと眼前に浮かぶのだ。

君はよそゆき

 久しぶりにエルメスで映画を見に銀座へ行く。映画を見るような気持ちの余裕がなかったのもあるし、見たい映画がなかったのもある。でも、普段も大して見たくもない映画やら本やらを目にしているのだから、気分が乗らなかったということなのだと思う。

 

 数年前、初めて銀座メゾンエルメス ル・ストゥディオで映画を見た時はそれなりにおしゃれをしていったような気がするが、何度も足を運ぶうちに、会場にいる人達は普段着の(しかしこざっぱり、小奇麗な恰好の)年配の方が多いことに気づく。

 

 今はもうやっていないが、グッチで映画を見た時もそうだった。どうやら顧客と映画を見に行く人は客層が違うらしい。俺はハイブランドを新品で買ったことはないし、これからもそうだろう。でも、タダだから映画は見に行く。多少は、かっこうに気をつけなければとか、服も買わなきゃな、等と考えるのは健康に良いことで、ハイブランドの奉仕精神、文化財の保護という精神に乾杯。

 

 見た映画は二本立て。『チェス狂』1925年ソ連 28分 サイレント

        『トランプ譚(ものがたり)』1936年 フランス 81分 モノクロ

 

 サイレント映画を見るのはいつぶりだろう? もしかしたら数年前に見返した『裁かるるジャンヌ』以来かも。とにかく見ていないことは確かだ。 両作品ともちょっと描写が説明的で(性質上仕方ない)強引ながらもテンポ良く進むから飽きさせないコメディに仕上がっている。

 

 久しぶりに映画を見た感想は、二時間も映画を見るなんてすごく疲れるし途中で(声を出さないで)何度もあくびが出てきたし、こりゃ大変だ。見てない物が沢山あり過ぎるし、見たのに忘れたものもあるし、見なくっちゃな。大変だ。などと。

 

 エルメスを出て大通りを歩きながらipodを再生すると、夏木マリの『ローマを見てから、死ね』が流れてきて、冬の冷たい温度の中賑わう、昼の銀座にすごく合っていた。

 

夏木 マリ / ローマを見てから、死ね。 - YouTube

 

 この曲が入ったアルバムの発売年を見て、俺が高校生の頃に発売されて、当時既に解散していたピチカートが本当に大好きだったので小西康陽プロデュースだったから買って、物凄く好きなアルバムだった記憶も蘇ってきた。

 

 歩きながら音楽を聴くというのは、とても健康にいい。そう思うんだ。

 

 数年前から、12月に銀座へ行く用があると鳩居堂で来年の干支の土鈴を買って、実家の母に渡すのが習慣になっていた。鳩居堂で何かを買うと「ご進物ですか?」と聞かれることがあり、ご進物なんて大層なものではないのだけれど、と毎回思いながらも、そういう言い回しが似合うこのお店が好きだ。

 

 デパートの一角の小さなフロアではなく、銀座の鳩居堂に入ると、ふわりと和紙の香りがするのが好きだ。紙のにおい。好きな匂い。なんだか懐かしいような、そんな気持ちがする匂い。

 

 中学生のころ、マジックザギャザリングというアメリカで生まれたカードゲームに夢中だったのだが、そのパックをあけるとインクだかの匂いがするのも好きだった。これは「どうやらインクらしい」ケミカルで良い匂いとはいいがたいものだったが、それでも魔法使いの呪文書を開くと妙な匂いがする、というシチュエーションはなんだかどきどきするものだった。後年発売されているものはきつい匂いがしなくなったような気がする。少し寂しい。

 

 

 渡邊木版画郎で銀座百点をもらいに行こうと思ったのだが、閉まっていた。仕方がないから、あけぼのでお願いをしたついでに最中を買う(これじゃあ逆だ)。

 

 銀座百点は母が好きで、俺が銀座に行く用事があるときは大抵もらっていくことにしている。なんで定価が書いているのに、どこでもただでもらえるのだろうと毎回思ってしまう。一応、銀座なら無料ということらしいのだが……。

 

 昔銀座で働いていた母に比べて、俺にとっての銀座は何だかよそよそしい街で、たまに用があるとしても、たいてい背の高すぎる、行儀よく整列したビルの中に入るというのが何だかなれないのだ。

 

 渋谷や新宿や原宿や表参道なら混在しているので、雑踏という感じで好きなのだが、銀座はいつ行っても慣れない。でも、好きだ。人や物が多いというだけで十分に素晴らしすぎる。

 

 久しぶりに資生堂ギャラリーに行く。

 

 資生堂ギャラリー100周年記念 それを超えて美に参与する 福原信三の美学 

 

 とのことだが、俺が銀座に、資生堂に縁がないせいか(デザイン、パーラーは好きだが)それとも単に展示が合わなかったせいか目を引くと感じたものは少ない、のだが、古い香水瓶を展示してあったのはとても良かった。

 

 古いデザインの香水瓶の無骨なデザインがとても良い。当時の美意識だけではなく硝子のカッティング技術のせいかもしれないが、香水というのはひどくロマンチックな物であるから、かえって愛想がない方が良いように思うのだけれど。シャネルみたく。丸いけれど甘すぎないのでチャンスも好きだ。

 

 ふと、成瀬巳喜男監督、高峰秀子仲代達矢が出演している『女が階段を上る時』を想起する。高峰秀子が銀座の高級バーの雇われマダム役なのだ。しかし、そこに華やかさはなく、まどいと倦怠の中での女の生きざまと言った感のある作品に仕上がっている。

 

 細部に記憶違いはあるかもしれないが、そこで高峰秀子が客から黒水仙という名前の、上等な香水を客からプレゼントされるシーンがあって、しかもその客も高峰にいい顔をしている嘘つきで、上等な香水まで色あせてしまうという展開が好みだったのだが、俺はそれを昔の資生堂の出した香水なのだと勘違いしていて、でもこれは勘違いでもいいのかもしれなかったと、ふと、そう思った。

 

 黒水仙という名前の四角い黒い、形は愛想のない香水を、昔の資生堂が出していたら、それは何だか素敵なことのように、その時代にぴたりと合っているように思えたのだ。

 

 銀座で用を済ませると、同じ日比谷線で近いから、という気のない理由で秋葉原に行く。今はオタクの秋葉原離れというか、まあ、ネットが便利になり過ぎたというのがたまに目にする意見で、俺も秋葉原に特に用事はないのだけれども、それでもやはり雑踏というのは、人や物が多いというのはいいことだ。

 

 適当に数件ひやかして、結局買ったのはブックオフで花の本二冊だけ。

 

 ガラスケースの中でお行儀よく、或いは詰め込まれた、値札のついた無用の上等品も好きなのだが、彼らは手に入らないからこそより一層輝いて見える、ような気がする。

 

 実家が日比谷線沿いなので、銀座百点と干支の土鈴を渡す為に実家に寄ろうと思い地下鉄に入る。何か渡すものがある、というのはいいことだと思う。

 

 いらない物を買うのも見たくもない映画を見るのもいいことだきっと。

免罪符が花弁のように舞い落ちるとしても

 ずっとトラブルが続いていた。そのことで心がずっと酷いことになっていた。

 今はそれなりに気持ちに区切りがついた。でも、この雑記も後で消す気がする。

 ただ、本当に辛かった。そのことを自分で認めて、そして諦めてもいいんだと思えるようになった。だから自分の気持ちを整理するために書く。

 

 それをフェイクを入れながら雑に言うと、

 

 ある理由で働けない友人がいる。彼は仕事も家も失った。だから俺は彼に生活保護の申請をする手助けをしたのだ。友人として、本当に路頭に迷う人を見過ごせなかったのだ。

 

 とはいえ、俺はその期間も無職だったし、貯えだってほとんどない。メンタルの問題もある。友人には最初にそれを伝えていた。数日ならいいけれど、それ以上家に泊めたり手助けするのは無理だと。

 

 でも、結果的に俺は一か月その友人を家に泊めることになったし、当たり前だが色んな支払いやら手助けやらもすることになった。最初こそよかったが、それが長期間になり、俺の必死の手助けが、友人にとって当たり前になってくると、何度も喧嘩をすることになった。

 

 大げんかをして、喧嘩別れをした。でも、彼に新しい家ができて、お金も支給されて、それでもう終わりかと思った。もうこれでいいのかなと思った、

 

 でも、彼にはあるトラブルがあって、喧嘩別れをした後も、毎月お金を借りてきた。

 本当に嫌だったし、怒りと心配で心は乱れた。その時は数千円なら、貸す。という気持ちで貸していた。

 

 それは彼がある理由でどうしても働けないからだった。それがなければ、お金を貸すことなんて、一、二回が限度だ。

 

 なんて思っていたのだが、結論から言うと、俺は彼に十回近くお金を貸していて、貸した金額だけで6万、そのほかの理由で、俺が現時点で払わねばならない金は十万以上になってしまった。

 

 それで、ようやく気付いたというか、ああ、ダメだと思ったし、そのお金を払う覚悟ができたのだ。

 

 俺は親に困った人は助けること、と教えられて育った。実際、親は俺が困ったときは助けてくれた。親とはうまくいったり、いかなかったりしている。次に会う時は葬式の時だ、と思ったり、どんなに真剣に話しても分かり合えないし、そもそも関わらない方がいい、と思ったこともある。

 

 でも、やはり俺は両親に感謝している。それに、どうしても困った人にきつく当たることができない。いや、しているのだが、きつく当たりながらも、そんな自分に強い罪悪感を抱いていた。

 

 友人の恋愛の相談を受けることがあった。他人が聞いたら、そりゃないだろっていう恋人の行動を許し続けて悩み続ける友人。

 

 それにスパっと切り捨てて次に行くしかない。なんて言うのは、多分正論すぎるし、相談にのっていることにはならないのかもしれない。でも、聞いている他人(当事者ではない人間)としては、そう思ってしまうものだ。

 

 恋人や友人や同僚や家族やらから、こんなにひどい目にあって、こんなに不誠実なことをされて……

 

 友人からそんな相談を受けたら、普通に「別れろ」「距離をおけ」みたに言うのが割とある反応だと思う。でも、それができないから辛いし悩んでいるわけで、友人として何を言えばいいのか、悩む。

 

 黙ってずっと話を聞いているのが寄り添い方の一つだと思う。でも、それだけではダメな時もあると思うのだ。矛盾するようだが、ゆっくりと沼に沈んでいる人を隣で見続けるというのは、どうしてもできないこともある。

 

 俺は普段自分の悩みを友人に相談することはあまりないのだが、今回のことは数人の友人に相談してしまった。 昔は仲が良くて、今は険悪になった友人(彼には俺しかたよるひとがいないのだ)にお金を貸し続けることも辛かったのだが、その友人に、ずっと罵られるづけるというのが、本当にこたえた。

 

 お金を貸しているのに、俺の過去の行動や発言、ちょっとした反応全てを批判して、人格を否定する。相手をすれば無限にメールがくる。友人がトラブルで人格が変わってしまったのも、どうにかして更生してほしいと思う自分の傲慢さも嫌だった。

 

 本当にここ数ヶ月は体調も気分も最悪だった。俺も、悪い所はある。というか、誰にでも悪いことはあるし、人間関係において完璧、なんて無理な話だ。でも、ずっと批判されて否定されるというのはとにかく意味が分からないし、辛かった。

 

 悪口を言われ続けながら、困っている人にお金をかす。共依存とかデートDVとか、単語としては理解していても、自分に置き換えるのは難しい。だって、俺はお金を貸さねば路頭に迷う人に、数千円を貸していただけなのだが……

 

 でも、さすがに自分のメンタルと経済状況がとても悪くなって、ようやく気付いた。

 

 俺は彼を救えない。

 

 それでいいんだって思えた。自分がとても傷ついていることに、ようやく気づくことができた。

 

 俺はほんとうに神経質で短気で、でも、何人もの人と喧嘩別れをしてきた。でも、少しでもいい思い出がある人とはどんなにひどい別れになったとしても、その人を恨んだりはできなかった。

 

 人を恨むのは、難しいことだ。

 

 ただ、このままじゃいけないことにも気づいた。他人を助けるのも大事だが、俺は自分のことを助けなければならないのだ。

 

 俺は色んな意味で仕事ができなくて、マジで自分が今生きているのも不思議なくらいだ。今年の年収は、数十万だ。今年が、ではなく。「今年も」だ。マジで、何で生きのびていられているのか分からない。

 

 そんな人間にとって、数万(年収の数分の一のお金)はとても大きいものだ。お金を貸す時は、あげたと思わねばならないっていう、わりと一般的に共有されている言葉があると思うが、俺はそれができなかったのだ。だって、いつ入るか分からないお金だもの。稼ぐ能力がない人間にとっての数万円だもの。

 

 でも、こんなに苦しいなら働く方がマシだって思えた(笑)

 

 仕事中に気分が悪くなって涙が出たり吐きそうになったり足が震えたり、頓服の薬を飲みながら「大丈夫大丈夫大丈夫」と頭の中で唱える方がマシ。

 

 そして、お金に執着するのも、助けられない自分に執着するのもやめようと思った。

そうしたら、気持ちが軽くなった。

 

 数千円、数百円の値段で諦めていたことが山ほどあった。買い物も好きだし、好きな物も沢山ある。でも、俺は図書館とパソコン(音楽)があれば人生に必要な物の多くは満たされてしまうような人間で、労働の対価としてのそれをずっと諦めていた。

 

だから、とてもお金に執着してしまった。数千、数万あげるよって言って終わりにすればよかったのだ。

 

 でも、数万以上となると、さすがに「あげる」のはとても難しい。収入が少なすぎる人間にとって、お金を失うのは大きな恐怖になる。でも、お金のことを考え続ける自分なんて、とてもカッコ悪い。それが切実なのは分かる。でも、低収入を選んだのはそうだが、お金のことばかり考える人生を選択したわけではない。

 

 ただ、その覚悟はできたのだ。彼を救えないのもお金を失うのも「仕方がないこと」だと受け入れることが、ようやくできた。

 

 楽しく生きようとする努力が、人生に対する欲望が、俺には足りない。それでも、好きな物は好きだと言った方がいいし、そういう人の方が好きだし、そういう時間が多い方がいいと思う。

 

 やっぱ、お金は無駄遣いをしてなんぼ。さすがに俺に無駄遣いをするような余裕がないのは分かるけど(笑)

 

 でも、これでもどうにか生き延びていて、これから先どうにかなってしまうにしても、明日何かをする予定を立てる方が、きっといい人生なのかなと思う。

 

 新宿で浮浪者を見ると、それが自分や彼に重なって見えることがあった。それを選んだのは、きっと自分だ。やむを得ない事情があるとして、それを助けるのはとても困難なのだ。俺は憎まれながらも助けを求める人を何か月も助けてきたつもりだ。でも、半年近くそれを続けてきて、それも終わりにしなければならないこを知った。

 

 俺は俺の人生を豊かにしなければならない。 〇〇せねばならない、という言い方はよくないらしいのだが、どうしてもそれはやめられない。 俺は色んなことを忘れてさぼっている。だから、好きなことをしなければって思うのだ。

 

 人生は一度、死んだら終わり。だから、好きなように生きたいし、なるべくそういう時間が多い方がいい。

 

 俺は友人を助けたかった。できたにしてもできなかったにしても、したかったんだからしょうがない。それに、俺は自分の人生を生きねばならない。

 

 明日は映画を見にいってきます。それでは。

繰り返す日々

 色々と小さな変化が起きている。こういう時こそ、あまりふわふわした気持ちにならないように自戒したいと思う。

 

 読んだ本の感想というか、自分の為のメモを。

 

 回りの悪い頭でようやくジュネの『薔薇の奇跡』を読み終わる。

 

小説は博愛主義的な報告をするものではない。それどころか残酷なことにみちていて、それなしに美は存在しない。このことを讃えよう。監獄の中で犯罪者に関する規則は厳格で精密である。美に奉仕する特別な正義の掟に従えば、規則がそんなふうであるのは正しいことだ。(387P)

 

 傲慢で美しい彼の文章が俺は好きだ。そして、そういう人間が生きてきたという事実が俺に光を与えてくれる。

 

 最近読んだ本では、内澤旬子『世界屠畜紀行』と高野秀行・清水克行『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』が面白かった。内澤、高野両氏の本は割りと読んでいて、興味深い内容が多いし、楽しい。

 

 感想を長々と書くというよりも、単純に『読書合戦』の中の気になる場所だけ、自分の為に引用したい(本当はもっと引用したい楽しい場所が多いのだが、きりがないので)

 

イスラム神秘主義スーフィー 清貧を良しとし、修行や思索によって神に近づき、最終的には無我と恍惚の境地において神と一体化することを目指す人々。名称は修行者が羊毛(スーフ)の衣をまとっていたことに由来すると言われているが、諸説ある。

 

彼らの修行場(ザーウィア) 旅人や巡礼者は無料でこの施設に寝泊まりし、食事も与えられた。多くの場合、これらの修行場は土地の有力者の寄付により運営されていた。

 

 現実逃避に昔クリアしたゲームをまたプレイ。あくまで俺の話しだけれど、読書って再読すると何らかの発見があったりするのだが、ゲームは少ないような気がする。それはゲームには楽しさがあるからのような気がする。とても雑に言うと読書は格闘や侵入。ゲームは遊び。その違いがある。もちろん、どっちも大好きだし、どちらかだけだと辛い。

 

 PSVITAを買ったので、そのゲームを遊び散らしていた。でも、クリアしたゲームの方が少ない。最近のゲーム(数年前に発売されたのだけど!)が悪いのではなく、俺の集中力がさらに悪くなったのだ。

 

 DSのDQ5とVITAのP4Gをプレイしている。どちらも(P4はプレステ2で)何回もクリアしているから、目新しさはないのだが、でも面白く、退屈だ。それでも、ある瞬間には物語の世界の人々の言葉にぐっときているのだから(さっき書いたのと矛盾するようだが)、やはりいいゲームだなあと思う。

 

 最近細かい出費やら散財が増えてしまっている。そのことにげんなりしてしまいつつ、その程度の無駄遣いは当然のことだ、と思っている。生きるためにちゃんとお金稼がなきゃなとバカガキのような思いが浮かぶ。お金がないと、お金のことを考える時間が増えてとても不毛だ。俺は一生金と芸術に振り回されるのだ。それを選んだんだ。多分。

 

 生活に色々と変化があるのは当然で、心はざわつくけれど、もう少し気持ちを落ち着けて、向き合えたらいいな。

 

 

薔薇の死体の中へようこそ

気分は上がったり下がったり。沼の上を踊る枯葉の様だ。少しでも安定させるには、雑文を描かねば、等と。

 

 

www.youtube.com

スイミィスイミィ「SECRET EYES」

 

RAM RIDER×田村ゆかり とかほんと好き。ただこれが会場限定のCDなのが本当にいやだ。欲しいのに!

 

欲しいのに手に入らないと言えば、

https://www.youtube.com/watch?v=rWTiJCR4m_8&list=RDqDa8Q3hUDIY&index=9

F.F.C./ アイラミツキ (short ver.)

 

これ、「LIGHTSAVER」のCDのカップリング限定なのに、そのCDが売り切れでこの曲のフルバージョンが聞けない……つらい…

 

 テクノポップを聞いていると、やっぱ元気出る。電子音はいつも俺に優しい。

 

 優しい映画、『ブエノスアイレス』のドキュメンタリー版『ブエノスアイレス 摂氏零度』を見る。

 

 特に新しい発見があるわけでもなく、でも楽しい時間を過ごす。気恥ずかしくも楽しい恋、恋人たち。

 

 ダグラス・サークの『心のともしび』を見る。

 

あらすじは 

 

大金持ちの道楽息子・ボブ(ロック・ハドソン)は湖でモーターボートの事故を起こすが、近所のフィリップス医師の自宅から借りた人工呼吸器のおかげで九死に一生を得る。しかし、人工呼吸器を貸し出したためにフィリップス医師は持病の発作で亡くなってしまう。 入院先の病院から抜け出したボブは偶然フィリップス医師の妻ヘレン(ジェーン・ワイマン)と出会い、 フィリップス医師の死が自分のせいであることを知る。 自責の念にかられたボブは何とか和解したいとヘレンに迫るが、そのためにヘレンは事故に遭い、失明してしまう。

 

 とかだが、こんなのは読まなくていいし、どうでもいい。本当に、この人位にメロドラマをうまく撮れる人っているのだろうか? とか思うくらい、ひどい脚本、凡庸でご都合主義な展開がほとんど気にならないで、最後まで見通してしまう!

 

 人間の情感を撮るのがとてもうまい。その上、衣装やセットがとても美しい。カメラワークや、構図もばっちり。文句を言う部分がない! 愚かな恋をしてしまう人々がこんなにも美しいなんて! 人間が美しいなんて思ってしまうなんて!

 ハリウッド映画万歳アメリカ万歳!ってな気分になる。

 

 新しい刺激を欲しながら、でも見知ったものに甘える、或いは、もう、自分が好きなのは過去の人々の中ばかりなのだろうか。まさか、そんなわけはないのに。草生した地下墓地を、棺の中で眠る聖者を、まだ俺は愛そうと、俺は虚しい陶酔に身を投げようとする。それらはかぐわしく、そしてすぐに霧散する。

 

 ジャン・ジュネの『薔薇の奇跡』を再読。ジュネの文章はつまり恋文であり詩であるから、いつでも楽しいし、ぞくぞくする。喉元に性器に口づけするように刃を押し付ける盗人、悪漢。ひどいことをされたい、ひどいことをしてやりたい好きな人にはきっと。美しい物には賛美を頌歌を。美しいと言えないとしたら、もう、口がないのと同じ。

 

 500ページを越える分量なのでまだ半分しか読めてないのだが、特に好きな個所を抜粋する。

 

 

 相手に苦痛を与える為に戦うのはこっけいなことに思えた。相手を辱めればこちらの気は済んだかもしれないが、たとえ相手を支配することになっても、相手はちっとも恥に思わなかっただろう。というのも、勝利者はほとんど栄光など手にしないのだ。ただ戦うという行為が尊いのだ。 (123P)

 

 僕は鷲、軍艦、軍艦の碇、蛇、スミレ、星、月、太陽を刺青した男たちを見た。その種の紋章を首まで、いやもっと上までいっぱいに刻んでいるのもいたこうした図柄が新たな騎士道にしたがって彼らの上体を飾った。(281P)

 

 いつ読んでも、ジュネの言葉は馬鹿らしく愚かで美しくぞくぞくする。彼が本気で美を理解して(つまり彼は自分の美意識を持っているということだ)それを愛しているからなのだと思う。本気で何かを愛するなんて、こっけいで常人には務まらないだろう。でも、彼はそれをしてしまうのだ愚かにも輝かしくも。

 

 ただ、いつでも、『私の美の世界』に『甘い蜜の部屋』にいられるわけではない。俺は金持ちのホテル暮らしなんじゃない。ルームサーヴィスなんて頼める身分じゃない。支払いは時間は待ってくれない。

 

それでも、酔えますように。安酒でよっぱらって、いろんなことがどうでもよくなって、ジャンクフードと携帯ゲーム機が友人だとしても、それでも美しいと言える日は多いにこしたほうがいいきっと。

 

 

ナイトメアサバイバル或いは僕はくたばりたくない

小説を書き上げて、腑抜けになる。この雑記でもそうなのだが、俺は本当に誤字脱字やらが多い。普段はほぼ推敲や読み直しをしない。自分の書いたものを何度も見返すのは多少面白いが、苦痛。でもそれから解放されると、変な気分になる。俺に何か能力があるとするならば文章を書くこと位で、しかしそれで俺の生活が変わるわけでもない。でも、書かずにはいられない。俺の感情の、日々を彩った残骸たち。墓標。

 

 花屋の花束にわれもこうが並んでいて、あの赤茶色の細長いのを見るとなぜだか秋を思う。ボルドー色に近い=秋、とかいう単純な想起だろうか? 個人的には黄色のミモザも秋ってイメージがあるが。

 

 図書館で鉱石の本をたくさん借りて読んでいる。鉱石、たのしいな、欲しいな。ついでに澁澤龍彦の『犬狼都市』を借りて再読する。シンプルな小品、といった作だが、澁澤の小説の中では一番好きかもしれない。

 

 

 

「婚約指輪が送られてきたというのに、お前は手に取ってみようともしないで、今までどこを歩きまわっていたのだね」と父親が咎めるように言うのを聞き流して、麗子は、肩からさっさと重い二連銃をはずし、革のジャンパーをぬぐと、射ちおとしてきた五六羽の小鳥の、まだなまあたたかい骸を、ひとかたまりにして、テーブルの上にどさりと投げ出した。マニキュアの紅の上に死んだ小鳥の血が点々と凝(こご)って、蛍光灯の明かりの下に、娘の爪はむしろ黒かった。

 

 

 冒頭の一段落を引用してみたが、薫り高く、わくわくする書き出しだと思う。幻想文学とか、こういうディレッタントというか、かっこつけ文学が流行らなくなって久しい、というか、そもそもそんなものはごく一部の金持ちや貧民の趣味人の楽しみでしかなかったからかもしれない。

 

 でも、俺が一等好きなのは、そういう金持ちや持たざる者の傲岸で間抜けなエレガンスなんだ。

 

 ふと、俺も大人の為の童話……豪奢で優雅で本として所有したい鉱物のような小品。奢灞都館みたいなのを自分の手で監修して出版してみたいなあ、と思うが資金面で確実に頓挫する未来しか見えない。

 

 そういうのは働き者に許された権利なのだ、残念なことに。

 

 俺はゲーム実況が好きで、家ではよく垂れ流しているのだが、童話や詩の朗読チャンネルみたいなのがあればなあとたまに感じていた。いや、探せばきっとあるだろう。でもその人の声が自分の好みかはまた別の問題だ。

 

 無いなら作ればいい、と暇人は思ったが、それより働き口を見つけねばならない……一生涯休職中、求職中。酷い有様だ。俺はノマドでも『綱渡り芸人』でもない。屍人のごとき遊民。

 

 頭のことは常に別のことばかり。

 

 だから気分転換に現実逃避に死の朗読を あ、詩の朗読でもしたり童話を朗読の配信をしてみようかなと思いがわいて、でもこんな無駄な雑記を書いたうえでそれもするなんて、ほんと金持ちの道楽レベルだ。

 

 でも、何かしら新しいことはしたいなと思っている。

 

 もう一つ頭にあるのは、アイドルポップスの作詞をすること。勿論アイドルをプロデュースする能力もなければ楽譜も読めない。何をしたいのかと言えばつまり、スパンクハッピーピチカートファイヴの真似事をしたい、というようなことで、でもそれには俺がエレガント、或いはゴージャスな「ふり」をしなければならない。「ふり」だけならば金で解決できることだが、俺には金がない。でも、歌詞だけなら、短い詩だけなら大丈夫かもしれない。誤魔化せるかもしれない(才があるならば)。

 

 エレガントについて、断片的な歌詞を頭の中で弄ぶことがある。頭の中に物語の場面が浮かび上がることがある。短編小説というよりもむしろ、ハウスミュージックに合わせたい詩、言葉が。使い捨てられたいキュートで豪華なエレガンスが。

 

 家で寝すぎている位なら、現実へのリハビリテーションとして作詞か詩の朗読はいいかもしれない。というか、数年前俺がかなりやばかった時、身体を動かさねばという目的で、公民館の前でラジオ体操の後でボリス・ヴィアンの『ぼくはくたばりたくない』を朗読するという健康法を行っていたことを思い出した。

 

 とにかく、声を出すのは身体にいいらしい。

 

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ALI PROJECT - 薔薇色翠星歌劇団 (Bara-iro Suisei Kageki-dan)

 

アリプロジェクトの中でもとても好きな曲。

 

わたしはPoete 祈りのペンで  ひとりぼっちで 詩う

 

 これを聞いていると、自分の都合のよい解釈で、一人きりでする詩の朗読って素敵なことのような錯覚をしてしまう。

 

 でも、意味のないことを馬鹿らしいことを愛のことをエレガンスのことを愛さねば、きっと退屈で死んでしまう。少し、健康になりたいと思う。

 

魔法使いはいつ夢から覚めちゃうの?

気分が落ち込んで仕方がないというか、体調も悪くって、しかし家の中で腐っていても仕方がない。新宿のNEWoMANでやっていたマジックザギャザリング25th展に行ってきた。

 

 正直、このマジック展に行ってみたのyoutube動画を二本も見ていたのだ。内容はだいたい分かるのだ。しかも、当たり前だが、展示はカードを並べている感じだし。カードはカードショップでみられるし。

 

 ところで、このマジックというゲームは、俺が小学生の頃にめちゃくちゃはまって、当時はウルザブロック、というのが最新のエキスパッションで、だからそのあたりのカードは今見ても本当にわくわくする。

 

 というか、引退して何年もたつのに(途中一度復活した)まだいろんな人の動画やショップページを見たりしているという……そして最近数年ぶりにパックを十個くらいかったが、全て爆死した! これ、ほんと金持ちの遊びなんだよね。カードは高いし、内容も少し難しいし(すぐ慣れるけど)カード屋さんもプレイヤーは平均年齢2.30代って言ってたし。

 

 本当は大好きなゲームなんだ。でも、遊ぶには仲が良い友達(同じくらいの腕前と言うか、同じフォーマットのデッキを持った人)というエベレスト級の問題がそびえたっている。当然俺は一人でカードを眺めるだけー みんなどうやって友達ゲットしてるんだろうか……ポケモンGOとかでつかまえてるのだろうか……

 

 そんでもって、とにかく家にいるのが嫌だったので、MTG展に行った。したら、整理券をもらって、一時間後に再入場と言うことになった。中は大分込んでいて、正直いつもの俺だとそれだけでサヨナラしたくなるレベルだったが、なんとかこらえた。

 

 中でオタクが小声で熱く語っている声がそこかしこで聞こえた。ちょっとうらやましかったし、発言の細かい間違いは訂正したくなってしまった(友達がいないオタクあるあるー。って、そんなことをするくらい無粋ではない)。あーやっぱ友達とわいわいきたかったなー

 

でもなーみんなカードゲームって、ガキのあそびって思ってるもん。別に間違いじゃないけどさ。スマホゲーはみんながしているからオッケー。でも、ガチで何万、何十万、それ以上もカードゲームにつぎ込むのは「キモイ」って思われるんだよね。趣味は平等なのにね、寂しいことです。

 

 でも、マジックは本当にすごいんだよね。(他のカードゲームを貶める意図はない)絵柄もシステムも、フレーヴァーテキストも本当に質が高い。そして原画も展示されていて、有名な

等の原画を見る機会があって、やはり生の油彩、水彩画は筆致が印刷とは別の迫力がありとても素敵だ。

 

特に大好きなレベッカとニールセンの原画は家に欲しいレベルだった。あーこんな時に俺がお金持ちだったら、なんて思ってしまう。でも、見るだけでも十分楽しめるんだけどね。

 

後、マジックのアニメーションも見ることが出来た。森本晃司らが二作品のアニメを発表していて、時間が数分間で、長いマジックの歴史を考えるとどうしても映画の予告編みたいな内容になってしまっているのだが、それでも結構見どころがあり面白かった。マジックのウェザーライトサーガか兄弟戦争のアニメ見たいなー

 

 それで、来場者にはセラの天使のプロモをもらえて、入場料500円。マジでいい展示だったー。久しぶりに行った展示だったし、行って良かったなー

 

 帰宅して、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』を読む。読む前から泣くかもしれないと思ったら、やはり泣いてしまった。本当に胸が痛くなる。『フランダースの犬』とか『ロミオの青い空』とか、『人魚姫』とか、こういう童話にほんと弱いんだ。

 

 こういう主人公がひたむきなファンタジーを目にすると、少し、自分の中にも硝子片のような輝きがあるような気がしてくるのだ。

 

 マジックザギャザリングと言うゲームは、自分がとても力のある魔導士になって、カードを操り相手と戦うゲームだ。小学生の俺は、大切なカードを操って、まるで魔導士みたいだった。

 

 いつ、みんな魔法から醒めてしまうのだろう?

 

 それが死であるならばいいのにな。

 

 魔法の為に、この酷い体にファンタジーを流し込んでいく。自分の身体が幻想とチョコレートで駆動している、と考えると、まあ、悪くはないのかもしれない。