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 あまり好きではない平野啓一郎の初期エッセイの中で、少し気になる箇所があった。彼は普段漫画を読まないと最初に断った上で、その理由の一端に触れる。それは漫画が「だから」「なのに」に守られているということだ。漫画は凄ければ漫画「なのに」という形容をされ、変な点(ここで引かれるのは、ブラック・ジャックが復讐のためにダーツを習うという流れだ、確かに普通に考えたら滑稽だ)は漫画「だから」ということで不問に付される。

 少し、共感したのは、「ある、能力の高い」漫画家は他の分野に比べると、表立っては貶されにくい、ということだ。「漫画の評価はまだまだ「だから」や「なのに」に守られているような気がする」と平野は語る。漫画を批評的に語る文法は他の分野に比べると進んでいないだろう。それは漫画が批評的に論じにくいもので「あった、ある」のに加えて、それを求めている人が少ないからだとも感じる。


 商業誌に漫画を描くときに、普通は描くページ数が決められ、その中に物語が、展開が押し込められる。平野はおそらく冬野さほ高野文子といった、「つっこみにくい」漫画家の作品を読んでいないはずだ。つっこみにくい漫画家の作品は批評に向いているし、破綻を感じさせないものだったりする。俺は二人の本が好きだが、彼女達の作品を「だから」としては楽しみにくいものが多い。勿論この点は二人の評価を少しも損ねることはない。ここでは平野が嫌悪する(と思う)「だから」漫画について考えてみたい。

 漫画は読者を説得させる説明を要すると、余計なコマ(文章)が生まれ、流れを殺すのだ。漫画の服や街や人物をリアルに描く必要なんてないし、漫画は自分の物語を恣意的に語らせるものに向いているのだ。「だから」を勝手に脳内補完したり、気に留めない技術を、漫画好きは体得している。

 気に留めない技術、とは、感情移入である。これは批判性の欠如とか思考停止と言ってもいいものだろうが、何より、そのことによって、読者は楽しむことができるのだ。アイドルの歌が喋りが下手だからって、真面目に批判する人は「ファン」ではないし、単にそれを楽しめない人だ。漫画がアイドルの歌と一緒かよ、という点については、好きな人物のストーリーを追体験する、という点において、幾らかの漫画には当てはまる物だと思う。ただ、好きなものを楽しもう、としているのだ。

 平野は漫画は芸術じゃないじゃん、ということを言いたいのではないかと俺は思う。というか、俺はそう思う。芸術と言う堅牢な秩序を選択するのならば、漫画の形態にこだわる意味が無い(作者は四角の紙に画を描く必要は無い、ページ数を読者をモノクロかカラーかを自分で選択するのだ)。当然ながら、人によって芸術という言葉の用法は異なる。芸術という言葉は褒め言葉ではない。確かにそれは堅牢さ、ある一定以上の水準を表すものだろうが、芸術、ということに感動するものなんて、その人にとっては下らないものだ。正に芸術的、何て褒め言葉のものなんて、交換可能なアトラクションの一つだ。楽しめたらラッキー!愛せない突っ込みどころがあっても、作品(によって)は愛せる!

 てか、本当はよしながふみについて書くつもりだったんですけど、次の機会にします。

 だらだら思い付きを書くのって、後で見返したら怖いけど、楽しかった。