君がけだものだったなら

 「けだものの身体を歯で食いちぎると、中から最高の汁が溢れだすんだぜ……」

 (コアラのマーチおいしいです)

 久しぶりに『地獄のミサワ』読んだら、結構楽しくって、がっかりというか楽しいというか、でもコアラのマーチはマジでおいしいというか、俺、チョコレートならなんでも好きすぎて幾らでも食べられるというか、バラエティパックみたいな大入り袋でもたいていその日のうちに食べてしまう。

 安いのでも高いのでも、口の中がチョコレートばかりになると、頭の中もチョコレートみたいな感じになっていい気分だ。

 詩人、批評家のジャック・デュパンジャコメッティ評が素敵だったので、引用する。つまりそれはボードレールが言うところの
「一枚の絵の最も良い解説は一つのソネット(十四行詩)かエレジー(哀歌)である」

 コクトーは芸術家がいれば批評家はいらない(両者は兼ねるべきだ)といった趣旨の発言をしていたが、デュパンの視線はつまり、詩的で、魅力的だ。

ジャコメッティにとって現実を見るとは、まるで世界が初めて現れてきたかの如くに目を開くことだ」ふと、マルグリット・ユルスナールの素晴らしい、賢明で知的で「あろうとする」エッセイ集『目を見開いて』を想起する。

「現実は常に彼を引きつけ、止め、不意をつくが、捕え難いままだ。現実は逃げ去り、彼は満たされないほど、一層強くそれを望む。彼は現実を追いかけ、アトリエの中に閉じ込める。現実がこれほど強く、これほど欲望されたことはなかった。彼は現実の全体を望むが、それが見える通りの自由で、距離を保ち、攻め難いままであることを望む」

 正直、俺はどんなにすぐれた批評を読んでも不満を感じてしまうことがもっぱらで、つまり批評家は芸術家ではなく本人ですらないのに本人のような顔をして語らねばならない、ということだ。そして芸術家が世界を独自の解釈で「翻訳・編集」して想像したものをさらに「翻訳・編集」しなければならないということで、「二回分の翻訳。編集」はその分本質からは遠ざかるだろう。

 そして、理性的であることはできても、極めて理性的であるというのは偏向偏執固執こそが美の源泉でもあるのだから(何が美しい、というのをさらには美しいというのを論理的に表現はできず、何かの言葉を借りる羽目になる)最初から美(意識)とはいびつであり、いびつなものを現すには詩的領域に親近した言葉が必要になる。哲学者の言葉でさえそうなのに、美術品への捧げ物へは、性格的に恋文に似てしまうということだ。しかし誰も他人の恋文などは大して読みたくないというか、つまらない、本人は幸福でも凡庸なものだ。それが恋人同士なら許されるであろうが、作品に対する評として、中途半端に美しい恋文めいたものだなんてプロの仕事かよ、とがっかりしてしまう。

 しかし、言葉で言うのは簡単でも、それから完全に抜け出すのは極めて困難な戦いだ。

 読む本もない(ほんとは違うけど)、というか、嫌いな物も読まなきゃな、という感じで、中沢新一の本をちょこちょこ読んでいる。評論家・宗教学者としては、別に好き嫌いというか、きちんとした知と体験から生み出されるエッセイの類はロマンチックではあって文句をつけるのも「趣味の問題」だとは思うのだが、俺は高校の頃からこの人はうさんくさいと思っていて、それはオウムを肯定するような言説を言っていたはずなのに、事件が起こるとまともな発言をせずに沈黙を守るということで、かなりげんなりしてしまった。おいしいところだけ取って、肝心の事件が起こると「僕は関係ない」って、何のために宗教・哲学について学んだり、ずっと「口当たりの良い」エッセイを書き続けていたのだろうと訝しく感じる。

 彼が著作でレヴィ=ストロースと対談した際に、彼が「いきいきとした人間のいた」大航海時代に生きたかったという発言を受けて、自分は大航海時代ではなく神秘思想家の弟子になって学びたい、と返していて、何だか暗澹たる気持ちになった。

 レヴィ=ストロースの無邪気な(しかし彼はどうやら本気らしい!)オリエンタリズム、知性的なセンチメンタルえろおっさんの感傷(つまり大学教授的な、色々な椅子取りゲームに参加しながらも反抗的な感性)にげんなりするのだが、中沢の感想もまた、げんなりしてしまって、だったら読むなよ、とも自分に思うのだが、彼らは本気で知的でロマンチックで面白いのだが、自分の手を汚そうとはしないのだ。




 去勢されたけだものを愛玩するなんて けだものになろうとしないなんて


 俺は宗教に興味はあるし、部屋にグリューネヴァルトの『イーゼンハイム祭壇画』やキリストの顔写真とかを貼っているし、密教的な物は仏教の本質から外れる(仏教とではないし、別に詳しくもないが)曼荼羅とかを飾るのも楽しそうだと思う。でも特定の宗教に帰依はできないし、その態度も一種の信仰の態度でもあるような気がする。


 俺は宗教の信者に対し疑問に感じることがあって、キリスト教に顕著だが、彼らは「救われよう」とするのだ。聖歌とかの歌詞で神の許しを請うとかばかりなのは日本語ならうんざりしてしまうだろう。洋楽のラップが内容は酷いもの、あまり頭のよろしくない社会批判みたいなものでも、音になると(のっていると)素晴らしいライムにフロウになるみたいな感じに近いと個人的には思う。

 でも、俺が本当に信者になりたいと願うなら、たとえばキリストを苦しんだままにすることは、釈迦の痛みを自身でも受けねば弟子にはなれないように思う。もちろんそれぞれの理由や契機があり信仰を選択したのだから、信者そのものに個人的な軽蔑や攻撃はないのだが、何だか不信感を持っている。だって、彼らはつまり何かを信じる信仰することで、一番に傷つくのは考えるのは神になってしまうのだから。

 丸っきりこれは神がいない(信仰心のない)人間の発想であるのだが、理性的に考えると(一面において)乗り越えられる、誤謬があるかもしれない(あるはずの)存在であるはずだ。俺だって絶対的な存在が、あるいはもっと軽く、敬意を抱けるような存在がいればいいと思うが、もし本当にその人に跪拝するのならば、頭をあげて、ともに苦しみを痛みを得るのが誠実ではないだろうか。頭がよくないとかその人ほど素晴らしい存在ではないというのはいいわけにしか聞こえない。だって、覚悟があればいいだけなのだ。もし自分が取るに足りないのなら、恥辱を受け続ければいいだけではないか。

 古代ギリシアにおけるパレーシアのように、どんなリスクをしょったとしても金銭を健康を尊厳を失うとしても、自分の意志があるとするならば誠実であるならば、真実を語ることだ。誠実であるならば、さまざまな物を犠牲にしても厭わないというのが「正常」な態度だということだ。

 俺は不健康が好きなわけでも、厳格さを要求しているわけでもないが、大切な物の為に(あるいはどうでもいいことでも)自分を差し出さないなんて、貧乏臭くて嫌になる。既得権益を確保したうえで、自分が傷つかないようなお膳立ての上での遊び、信仰だなんて。

 俺の尊敬する人は、ジャコメッティユルスナールはしかるべき犠牲を支払い続けたということだ。最高善、最後美、なんてなくても、人は自分がなりたい形に、自分の(不断の)意志で美しくなることがなれるということを彼らは作品で言葉で示してくれる。

 だから好きでも嫌いでも、本を読むことは楽しい。誰かの意志が詰まっているから。これかラもそうでありたいと思う。