はい、俺じゃないです、本当です、はい。

視界にいれないように、と思ってはいるが、キモイ名前がちらちらと目に入る。何年か前のベストセラー、脳内革命だかなんだか、数百万部売って、だれか脳内が革命した人はいるのか?

 何か新しい概念を提唱して、人目を惹き、世に出る。それに意味は無くても、新概念にはコマーシャル的な強さがある。別にそれが悪いとはいえない。資本主義の日本において、煽りが悪いはずがない。

 それにしてもあのキモイのは酷いのだ。自らの顔面偏差値の低い顔を自著の表紙にでかでかと出したり、ゲームにもテレビ番組にも出る。つまらない一発屋の芸人が、たまたまヒットして、そのまま芸も無くテレビに居座るのと同じような嫌悪。中沢新一がまだましに見える、というか、この二人は対談をしていたりして、本当におぞましい地獄絵図だ。学問とは詐欺の為にあるんですね。こういう存在を許しているなんて、無根拠な自身ばかり抱いて、騙しのテクニックだけを上達させる人がさらに増えるだろう。でも、結局の所、あのキモイの「みたいなもの」を求めているひとは大勢いるってことだ。

 古くて陰気な本ばかり読んできたので、最近の人のを読もう、としているのだが、まいった。俺には大人の為の童話なんてちっとも興味が無いのだ。ある人たちが好きな「崖から落ちそうな少年を助ける仕事」とかなんとかを、俺には

 「風俗嬢のヒモになり、病気移すんじゃねーよと職場の愚痴を漏らす彼女をなだめ、軟膏を塗ってあげる仕事」と似たような物に思える(「落ちそうな人」を助ける仕事って、かなり遠慮したいものでしょ?)。人の好みはそれぞれだけれど、趣味が悪いなと思う。

 何で大人の為の童話が好きになれないのか、はっきり言うと、体調の悪い日には吐き気さえ覚えるのか。俺は自分の幼稚さに振り回され、疲弊しているのだ。彼らのように、自らの少年性を美化し、苦笑とともに誇らしく眺めるなんて容認するなんてことは出来ない。少年が可能性だとして、それには圧倒的な無力や中絶が内包されているのだ。可能性ばかりを、或いは引き立て役としての望まれた少しの絶望と可能性とを描写されても、それは大人の為の童話でしかない。少年性とは、内にうごめく気まぐれで恐ろしい保護者、それに頼らなければ生きていけない、信頼したいが信じきれない近親者のような存在なのだ。

 少年の心を持った大人、は、いけ好かないが面はあるが、いい人ではあると思う。いいひと、深く関わらないのであれば、それはとても素敵な美点だ。人は自らの常識を、しばしば相手に無言で共用させようとするのだから。

 少年のまま老けてしまった人間に俺は興味や、共感がある、が、彼らは厄介だ。馬鹿だし、面倒くさいし、見え透いた行為をするし、必死だし。愚かな人間が傍にいる、ということは大変だ、俺は身をもってそれを学んだ。

 ニルヴァーナのリチウムの歌詞に
「I'm so happy because today I've found my friends
They're in my head」

 とあるが、その友人が、俺に体験させてくれたのだ。彼のおかげで、俺は今もたびたび大変な目にあう。友人のせいで、俺は大人の童話を読めなくなってしまった。しかし彼は俺の頭の中にいるので、出て行ってくれない、厄介だ。俺がキモイ人を罵倒するのも友人のせいだ、俺が大人の童話を憎むのも友人のせいだ、俺が吐き気を感じるのも友人のせいだ、俺の頭の中でイントロのエレキが流れるとI'm so happyだと錯覚できるのも、友人のせいだ。