切り取られた、かのように

月のうちに何度か逃げ出さねばならない衝動に駆られしかしそれを怠惰や惰性が慰めてくれるので俺は、生活を続けている。こんな生活にも性格にもいい加減飽きが来ているのだけれど、それでもあの、根なし草になる瞬間の寒々とした雰囲気は他では得られない特別な体験のような気がする。放り投げられてしまった俺はどうして?

 トータスの最新アルバムを買った。トータスの新しいアルバムを買うたびに驚きがあるのだけれど、去年発売された新作『ビーコンズ・オブ・アンセスターシップ』は本当にすごかった。俺は何かを意識する時に、それが好みであるかまた質が高いか、という判断を瞬時に下してしまうのだけれど(これは品のないことだろうか?)トータスの新作は好みであるし恐ろしく質の高いものだった。あえて例えるなら密度の高いしかし少し色気に乏しいthird『TNT』と俺の大好きなファーストに近いアプローチの4th『スタンダーズ』からいいところどりをしたような荒々しくも新しく、そう、新しい、魅力的なアルバムだった。

 ライナーノーツにギターの「優れたポップ・ミュージックというのは、全ての要素があるべき」というコメントが載っていたのだが、俺もそれには同感であって、しかしそのアプローチを貫徹するのは極めて困難であり、よほどの自信がなければ言えないであろうが、こういったコメントを残したのは彼らが極めて完成度の高い前作『イッツ・オール・アラウンド・ユー』を作り上げたからだろう。しかし、俺は五年前に出た前作を大学のころ聞いて、衝撃とともに、完成度の高さに少し興ざめしたこともはっきりと覚えている。単に俺の好みとは合わなかったのかもしれないが、おそるべきまとまりのよさは知的な構築行為のなれの果てのように、この先を暗示させない代物だった。

 しかし今回のアルバムはどうだ、極めて個人的な感想ではあるが、初めてニューウェイブのアーティストとその周辺例えばノイやカンやトーキングヘッズやバグルスらを耳にした時のような新しさがありつつも、その質は極めて高いまま、保たれていた。ライナーノーツで前作の反動があったとあるが、まさにその通りの、「新しい」けれど新奇を衒ったものではない音楽(彼らの「新しい」ミュージックのルーツの一部がジャズや数十年前のポップ・ソングにあるというように)がそこにはあった。とにかくメンバーが新しいことをしようと、楽しんでいるのが分かる、新しい、素晴らしいアルバムだった。

 前衛ということばを褒め言葉と捉えるか蔑みと捉えるかは人それぞれだと思うが、俺には体の良いだけの褒め言葉のような気がしてならない。圧倒的に優れた作品はいつだって新しい。そしてさまざまな賛辞を許容するだけの立派な器で、人々の歓声を嬌態をどっしりと構え、優美に受け流す。作品の周囲に妥当性を与える詩的な、私的な言葉は時には浅ましいことではある(という自覚があろうが無かろうが)、けれど人はそれを我慢できない。どんなアプローチでも、「新しい」ことは素晴らしいことだ。それらは新しそうなものと峻別される。○○のようなという形容をしながらも形容が決して追いつかないのだということに対する密やかな恐れと有り余る幸福。新しいものは人に恐れと幸福をもたらす。俺の卑近な逃亡劇も、あまりにも個人的な恐れといくばくかの幸福、のような寒さ、とで構成されておりもちろんそこには感動なんて代物は用意されていないのだけれど俺はそれに陥っているのではなく選んでしまったのだ「恍惚と不安」ではなく恐れと寒さとを。指先に血が通っていない青白いものでたどたどしく新しい黒いキーを打ちながら俺は寒いと感じ、悪くはないのだと思う。