彼彼女達、さえも

 中村珍の連載打ち切り問題、が少し前にネットで取り上げられていて、最近ちらほら目にする「うわぁ」としか言えない編集者、出版社に対する正当な怒りは読む人の胸を打つものだったその、彼女の初期短編集を読んでみたのだが正直、まあ次が見たいかな、といった程度だったのだが、彼女の『羣青』の上巻は、次がとても読みたい漫画だった。

 父親からのDVを受けて育った黒髪の凛とした女性。その後結婚して夫からもDVを受ける彼女は、学生時代に「好きだ」と言ってくれた、しかしそれを受け入れてはいない、微妙な関係のお嬢様に殺人を依頼し、実行され、二人は共犯者になる。

 多分、この雑な説明で魅力を感じた人ならば、読んで損はしない漫画だと思う。高浜寛のように、女性だが写実的な、しかし柔らかい線で魅力的なキャラクターを描く漫画家だ。そう、魅力的な、血肉を感じる登場人物を描くのだ。話が突飛だったりご都合主義的だったりしても、登場人物が読者を説得する。高橋ツトムの『鉄腕ガール』に登場するような、力強い人々。とはいえ、『鉄腕ガール』のように読んで元気をもらえる作品とは、少し違うのだけれど。

 中村珍の告発の中でも、特に胸が痛んだ部分があった。それはその漫画を執筆する際のコストが、収入を上回っているということだった。これは彼女のホームページに明記されていた。人気を取り、期待をされていたのに、制作をするたびに赤字が出て、それが最終的には百万以上に膨れ上がる。けれど、書く。

 最近コミックスタジオとか、パソコンを使用して描く漫画家がちらほら、見られる。初期費用が必要とはいえ、パソコンを使えば多くの経費が削減できるのだ。しかし、それを効果的に活用しているか、といったら疑問を抱く。線が死んでいるのだ。あ、パソコンの線だ、と否定的に感じてしまう頼りない或いは太すぎる線。ゆるーい(読み捨てを許容、いや懇願する、かのような)コミックエッセイでならばふさわしいような弛緩した線。

 漫画において精密な書き込みをして、その水準を守るのにはコストがかかるのだ。俺はコミックスタジオでも背景だけフォトショ加工でも、スカスカでも、それが作品として成り立っていれば全然いいと思っているしむしろ、漫画家の負担が減るほうがいいと思う、けれど、漫画家が従来通りのやり方で「表現したい」のならば、誰がそれを止められるのだろうか。

 以前ゲーム製作者がアマゾンのエロゲーのレヴュー(その人が制作に関わっていない)を見て「圧倒された」と言った記事を書いたが、それを思い出す。

 そのレヴューでは「ゲームはゲームでしかできないことを追求しろよ(その対象はエロゲーだったので、つまり肝心な『エロ』の部分でライター文章垂れ流しじゃなくて「エロとゲーム」、美少女への介入を模索しろよ)」と言っていたのだ。しかしそんなのはほぼ、無理な話だろう。様々な愛撫の反応とその連鎖反応を数値化、描写するなんて!

 俺はゲームを消費するだけなのだけれど、制作に数カ月から数年の期間と、その間の費用を求められること位分かる。つまり、失敗ができないのだ。ゲーム好きにはちょこっと有名な会社だって、一度や二度の失敗で会社が回らなくなってしまうのだ。納期に合わせて、バグや不完全な部分があっても出荷せねばならないのだ。それが後々の会社の首を絞めることになったとしても(恐ろしいことに、開発がどこで誰が『戦犯』か、あっという間に「悪い」情報はインターネットに広がる、ことを承知でも)。俺は消費するだけだから、あまりにもひどいのは嫌だ、けれど、でも仕方ない、というか、バグゲークソゲーがそこそこ、好きだ。素敵な予定調和の中で酷い仕打ちを受けることが出来るから。いや、バグではなく仕様ですとか、止めた方がいいと思うけど(一応)。

 十人、数十人の生活がかかっているのに、冒険できるのか? その冒険とやらの意義は何だ? そういうところで働いていないので、めっちゃ主観なのだが、「エロゲーのゲーム性」なんてものに価値を置く上司なんて存在しない、存在してはいけないと思っている。彼らは仕事をこなし、生活を守る。でなければ会社に所属して勤労していない。新機種が登場しているのに市場は減少し続け、高騰していくゲーム開発費。その中で安価で制作出来るのは「電脳紙芝居」こと「エロゲー」なのだ(パズルゲームも他のジャンルよりは安価で作れるらしいが、「新しい」パズルを作るのは現実的ではないだろう)。安価で出来るはずのゲームで、ゲーム性の、見たこともないゲームの為に開発費を無駄に計上するディレクターがいるのか? 会社に所属しておきながら、他人の(自分の)生活を投げられるのか?

 これとはまた違う人で、ゲーム製作者は「作品への愛とその愛を捨てる覚悟が必要」と語っている人がいた。とてもまっとうな判断だと思うし、多くの人が程度の差はあれど、それを実行してきたからこそ、会社が、経済が回り、「ゲーム」が形になっていったのだろう。

 何にせよ、集団で何かを作れる人達に俺は敬意を抱くいや、嘘。敬意ではない。「すごいなあ」とか、そんな感情だ。単に、食いぶちを恵んでもらうための労働だってそうだ、それを受け入れる、それが大人ってことだ。大人。かっこいい大人だったら、憧れたっていいかな、とそのくらいの「常識(!)」は持っているのだけれど。でも、彼女達のような闘い方だけではない。正しい人はいないが、かっこいい人と、どうでもいい人は確実に存在する。同人的なことが正しい、かっこいい、わくわく度が高いとは思わない。一長一短だ。俺はみんなでがんばれない、からこんな日記を書いている。それでいいと思う。それでいいと思えるならば、いいでしょ。彼らとは違ってもいいのか。