ピストルとピストルズ

そつなくこなしたりぎこちない仕草に対する猛烈な嫌悪も惰性と恒常性が手を取り合ってどうにかしてくれることを信じながらも、帰路の途中で自慰のごとき涙をぼてぼてこぼす、がすれ違う人がそれに気づかないことも気づいていても気にとめないことは知っているから流れるならば任せておけばいい、だけでその内に疲れて、どうでもよくなってくるのだ。

 友人の労働に関する、社会的な喜ばしい報告を聞いて、「おめでとう」と思いそう告げる半面、腹に抱く思いはそれだけではない、のだけれどそう告げるしかない。その人が俺の本心を喜ばしいものだと思わないのは容易に察しがつき、傷がつくのは俺の品性。俺は、目を赤くして、品性に謝罪すべきだと考える。(取りあたっての)謝罪すべき相手が見つかったならば、俺の不自然な適当ななすべき、動作の数々への厭嫌は和らぐ。謝罪をするように俺は「おめでとうクズ野郎」と告げるべきだったのだ、けれどそんな言葉は機能しないので自分に向け再度、「おめでとうクズ野郎」

 帰路の途中でほぼ毎回古本屋に寄り、適当な漫画を立ち読みする。それも、同じ漫画を読む。三回目でとうとう観念して、購入して家で読む少女漫画のような少年の漫画を読んでいるうちに「お前、愛が無いのを自慢するなよ」というその漫画を読む俺自身に向けた言葉が降ってきてしかし、その言葉が正鵠を射るわけではなく、散漫な俺に降る矢の一つ、ではあるのだけれど、その言葉に囚われ本を瞳を閉じる。

 若い、とは言っても数歳年下の制作者の作品に触れて、作品への敬意、というよりもその若さに頼もしさを覚えることがあり、しかし、俺に付きまとう疾しさはその若さが当然内包している熱情や健康さについても反応をして、「お前、愛が無いのを自慢するなよ」

 ラリー・クラークという写真家がいる。自身もドラッグ、セックス、バイオレンスに溺れ、そういったストリートの若者を撮り続けている写真家だ。彼の最初の写真集には画に描いたような、アメリカン・ファミリーの食事風景が収められている。自身の家族のポートレイトだ。その家族は彼が十代の時にあっさりと壊れ、彼は、画に描いたような世界に身を投じる。下品でセクシーな、愛らしい少年少女達のその健康的な生活。

 しかし普通の人間がいつまでも健康的でいられるわけがない。彼は刑務所に服役することになり、出所した時にはもう、30代後半にさしかかっている。その年になってもストリートの少年少女を撮る彼は「子供達は俺を年老いホモセクシャルのように見る」と語ったという。彼のそれまでの詳しい心境の変化は知らないし、明記するほどのことではないだろう。もしも、この先が、少年少女に自己投影するだけの人生だとしたら?その問いは疾しさからしか生まれないだろう。日々の夾雑物を容認してきた自身への言い訳と弁解と諦念。

 その写真集の題名は『Teanage Lust 』。ベルナール・フォコンの写す、アラン・レネのような甘い痛みや内省ではなく、ラリー・クラークの写真にあるのは、熱情と疾しさではないか、というのは我田引水に過ぎるだろうか。彼を紹介する際に「永遠の不良少年」なんてコピーを何度か目にした記憶があるが、永遠の不良少年なんて、年老いた(勿論年齢の問題ではない)見方で吐き気がする。かっこいいよ糞ジジイ、で十分だ。謝罪や疾しさに関する暇乞い、のような振る舞いが出来るならば、出来ると信じるならば、嘘ばかりついていても品性も許してくれるだろうきっと。