そんなことはおいておいて

 色々と思わしくなく、ついで、とっては何だけれど、最近気になったことをちらほら。


 現在PS3で出た、「ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル」のレヴューが酷いことになっている。ゲームの新作が出て、出来の悪さにファンががっかり、といってしまえばそれまでなのだけれど、色々とこれに言及している人たちの真摯な意見や、ゲーム業界のことを考えると、俺は部外者であって、書くのもどうかと思ったが、(ジョジョのファンではないし、このゲームを購入していない)何だか色々と書きたくなってしまった。

 まずびっくりしたのが、このゲームがフルプライス、定価8000円もするゲーム、しかも「オールスター」が「バトル」するキャラゲーなのに、ダウンロードコンテンツで追加キャラ一人600円かかるそうだ。当然原作のファンで「オールスター」で遊びたい人に数十人分のダウンロードを、金を払えということ。しかも、格闘ゲーム自体は、無限コンボが発覚する様なお粗末っぷりらしい。その上、キャンペーンモード、キャラの台詞とかが手に入るモードは完璧なソーシャルゲーム的な作り、必ず待機時間があるよ!「時間が惜しかったら短縮するから課金してね!」恐ろしい。フルプライスで購入して「普通に」遊ぶには、倍以上の金がかかるなんて!
 
 キャラデザとかモーションは一級品らしい。でも、それだって、販促用のPVを見せ付けて売り逃げする為なのかと邪推してしまう。

 なのに、これを開発した某会社のトップは、インタヴューで「このゲームを作るために生まれてきた」「世界一ジョジョを愛している」「何度遊んでも飽きないように作りこまれてる。“覚悟はいいか?俺はできてる。”」
ゲームデザインを原作者以上に考え抜くべき」「クソゲーキャラゲー作ったヤツをぶっ殺す」

 とか発言していた。さっぱり、意味が分からない。しかも、ファミ通のレヴューで、全員10点満点の四十点を叩き出している。

 別に今更ファミ通のレヴューなんて、ってすれたゲーマーは思うだろうが、ファミコン雑誌で一番の発行部数のある雑誌で、購買層の多くはライトユーザーにこんな売り方をしていたら、ゆくゆくは自分の首を絞める事になるって、気づいていたとしても、別の思惑が優先される。でも、これはさすがに酷いと思った。

 ゲーム製作と販売は、当然部署が、思惑が違う。それにしても、わずか十日足らずで、数十万本も売れてしまったこのゲームの買取価格が500円以下になっていたのは、寒々しい気がした。ユーザーの怒りが悲しみが現れている。今このゲームは、新品で2000円台で購入できる。

 ただ、ジョジョファンでゲーム製作者のブログで、開発費が高騰していく中で、(この騒動に関しては心を痛めながらも)もはやダウンロードコンテンツを入れないと現場はやっていけない、みたいなコメントがあって、俺は金払いの悪い消費者に過ぎないけれど、この先、ケータイデンワのアプリではない、ゲームはどうなっていくのだろうかと、不安でも期待でもないような、変な気分になった。


 同時期に伊勢崎賢治の著作を読み直していて、これもやはり、前回考えさせられた部分で手が止まった。俺の雑な要約も多いのだが、

任期は短く出来ることにも限りがあるから魚をとるやり方を教えるなんて傲慢だ。先ずは腹を満たしてから、彼らの自主性に任せるしかない。

 国際NGOに求められる人材はリストラが出来る人

「今まで被援助者と位置づけられてた人々を対等なビジネスパートナーと見据えた「金儲け」。そして、新しい商品を作り続ける。アイデアが尽きたら、そこでおしまい。解散。これでいいのです」

 ルワンダの内紛で百日で百万の人が亡くなった。でも常任理事国が介入を渋ったのは、ルワンダには地下資源がない、メリットがないから。一方9.11が起こると、アメリカの犠牲は三千三百人で、多国籍軍によるアフガニスタン攻撃(報復だけど)が始まった。

 俺が彼の著作を読んで感心してしまうのは、彼だって感傷的なことを少しは書くこともあるけれど、徹底してビジネスライクになることで、守れるものが、変えられるものがあるということで、目的の為には色々な手段を講じていることだった。きれいごとで解決することなんて、本当に少ない。自分自身の身勝手なナルシシズムに引きこもるだけだ。それでも個人の自由ではあるけれど、人を相手にする人間が、給料を貰ってそれをしていると思うと、ブチギレそうになってしまうこともしばしば。

 以前も書いたが「大東京トイボックス」というゲーム製作漫画がある。


この漫画は主人公が大会社で問題をおこして辞め、新しいゲーム会社を立ち上げるが、古巣の大会社で勤務を続け上りつめてそれなりの地位にいる親友兼ライバルとの縁が再び生まれ、彼との共闘と戦い、みたいなのが主軸にあるのだが、大人数で行動をしてしかも金を稼がなくちゃいけないというのは本当に大変だなあと思う。だからこそドラマが生まれるのだけれど。

 エゴがなければいいものは生まれない、しかしエゴが強すぎると誰もついてきてくれないし、売れなくて皆の生活が壊れてしまったらもともこもない、次回作も作れない。

 回想シーンで、かつて同じ会社でゲームを作っていた二人は土壇場の状況になって、主人公は「魂が違っているもんを 世に出すわけには いかねえ」と言うがエリートのライバルは「給料もらっといて アーティスト気取ってんじゃねえ」と返す。

 俺は自己中な方なので(だから大人数でどうこうとか考えないのだが)「給料もらっといて アーティスト気取ってんじゃねえ」の台詞は胸にきた。マジ、これはそうだと思う。でもエゴなくしていいものなんて生まれるわけがない、と思う(実際のところは誰にもわからないし)。


 信念があるならば、何らかの対話が出来る、かもしれない。でも、それが大人数で長期間にわたって行われるプロジェクトで最終決定権が製作者にないとしたら、誰が責任を取れるのだろうか? 「魂」とか「エゴ」とか言っていられるのだろうか? 

 ただ、分かるのは、人は他人にしてあげられることは、多くの人に出来ることは、案外小さなものだってことだし、 その小さなことでも、十分なことは沢山ある。会社の問題も、民族同士の争いも、だれか一人の力ではどうにもならない。でも、何か、出来ることは、あるかもしれないし、俺はやっぱり、自分の頭で考えて、行動をしている人が好きだし、自分もそうありたいなと思う。

 色々とどんよりとしてしまうけれど、未だ、大丈夫だって、ことにして。涼しくなってきたから、映画と音楽と本とゲームで少し、考え事を。