かおり、あかし

 買い物が好きだ。人の買い物に付き合うのも結構好きだ。先日友人と家電量販店に行くと、俺には縁の無いipadらしきものが沢山展示されていて、しかしその値段が数千円なのに驚いて「やべえよ!あいぱっどがさんぜんだべ!」とか友人をゆすると、
「それ、箱だから」と言われて最初は展示品の箱だけなのかと思ったら、ケースなんですね。たかがケースで数千円も取るなや!(逆切れ)

 kindleとか、電子書籍を読める機器も気にはなっているのだが、正直俺が欲しい本は電子書籍化されないかされていても本で買って十分だという気がして、あったら便利だろうが、購入には至らない。また、モニターで(ある程度きちんとした)長文を読むと言う習慣があまりないし、というよりもウェブ上で消費されるものはあくまでもテキストウィンドウの中で(読みやすく編集されて)表示される文章であって、長文で読みにくい学術的なものは紙媒体で発表されていくのだと思う。この流れは今後変化するのかもしれないし、若手の社会学者、評論家達はそういったものと双方からアプローチしているように思えるが、正直、若手よりもおっさんの文章の方が、紙の文章の方が好きだ。三十代、もしかしたら四十近くでも若手の世界。恐ろしいかもしれないし、でもきっと面白い。


 人との買い物で面白いなあと思うのは、やはり自分では絶対に行かない買い物の場所に行けることだ。釣具店とか登山用品店とか絶対に自分では行かないのだが、やっぱり行けば楽しい。どうでもいい趣味の話を聞くのが結構好きだ。でも、物を買うって行為の方が、同行だけよりもずっと、興奮する。FPM の超ハッピーなダンスミュージックみたいな気分だ。俺をディスコじゃなくてショッピングに連れてって!! いや、誘われなくても自分から行くから。

http://www.youtube.com/watch?v=yP-5po2rJ20



 店頭で投げ売りされていた横光利一永井荷風の本はとてもボロく、装丁もそっけなく、でもこの位の本も美しい装丁の本のように魅力的で購入する。赤茶けた紙の上に並ぶ旧字体の活字も、ざらつくパラフィン紙の手触りも、わくわくする、中身が早く見たくなる、

 けれど分かってる、家には図書館から借りた十数冊の本と、数えていない本の山があるってことを。

  とか適当をかましつつ積んでいる本の中の一冊、藤巻和夫フォイエルバッハと感性の哲学』を読む、のだがこの本はとても読みやすく、というか単純にフォイエルバッハと考え方が似ているってことに加えて、著者がそれをかみ砕いて提供してくれているってことなのかなと思う。

 著作における「近代の課題は神を現実化し人間化すること―神学を人間学に変え、また解消することであった」「自己否定、自己を捧げることは神の好意をかちえんとする為」とか、無宗教の俺にはとても合理的で分かりやすいのだが、その一方で、俺は(或る)信者の中にあるストイックな部分には、確実に敬意を払っている。

 どこまでが自己実現であるのか、苦行も巡礼も瞑想も聖戦も、誰の為でも無い、自分自身の為だと俺は思うのだが、彼らが思考の中にいるときに、横から「馬鹿じゃねえかこのナルシスト」なんて言うのはお門違いだ。好きなことをやった方がいい、それにどうせやるなら、無駄になることを。

 俺がどうしても自己否定的な見解が多くなってしまうのは、結局俺は、そして生きる、ということは恒常性の内の、恒常性を規範とした思考に厭がおうにも陥ってしまうということだからだ。毒されてしまう生きる意志生きる喜びに。これじゃあ『自由からの逃走』だって出来そうにない。一生生命の囚われ人なんて。


 でも、買い物で多少は気分もどうにかなるし、それに、あの匂い。店の、新品の商品の中古品の日本製の外国製の。

 外国製の本の匂いが独特なのは、紙ではなくインク、よりも糊によるものらしいのだが、日本のよりも明らかに匂いが薬品的で、何だか少しわくわくしてしまう。でも不勉強な俺は外国語がさっぱりなので、洋書に触れる機会は美術系位。

 でも、中学の頃は結構、外国製のインクの匂いを陶然としながら嗅いでいた。

 アメリカ産の、カードの入ったパックの封を切ると、魅力的なイラストと、そして普段はかいだことの無い匂いがそこにはあった。

 マジックザギャザリング、MTGというアメリカ発、世界の数百の国で遊ばれているカードゲームがあって、中学生の頃友人に誘われて始めたのだが、もう、すごくはまった。全てのカードゲームの基礎になったとか言われるほどの影響力を持った、そしてシンプルにして奥深いゲームシステムも勿論魅力的だが、アメリカを中心とした質の高いイラストと、そしてその世界観に彩りを与えるフレーバーテキストも魅力的だった。

 俺が遊んでいた当時は特に、文学作品からの引用が多く、ぱっと思いだせるだけでも、シェイクスピア、ポオ、ジョン・キーツタゴールアラビアンナイト、中でも一番好きだったのが、

高潔のあかしという、敵を迎撃する際に一時的に強力な力を得るカードの、ホメロスイリアス」第18巻からの引用で、

やがてわたしも、死の前にひざまずくときがくるだろう。だがそれまでは、勝利の栄光を味わわせておくれ。

という台詞だった。


この作品自体のフレーバーテキストもすごくいいのだが、きりが無いので一つだけ(多分実在しない人だと思うのだが)、

 自分の体力をかなり消費して、二体の生物を破壊する「灰は灰に」というカード。

王も乞食も最後は同じ ――― 悪臭と、腐敗と、非難に囲まれて。
――― エイリーン・コララーン「遺産」

  このゲームの最大の欠点はかなりの金がかかること。そして、対戦相手が必要なこと。高校に入ってアルバイトも始めて買いたいものが増えると、そしてその時仲良かった友人と疎遠になると、家の中でカードは好きな物だけを残して売り払ってしまった。だって、当時の俺が買えるような物でも、高額買取のは一枚二千円とかしたんだ。そりゃあ、売っちゃうでしょ、てか、金かかり過ぎるでしょこのげーむ。

 でも、未だに続いているこのカードゲームの新商品が出るとチェックしてイラストが載っているガイドブックを買ったり、安い、絵柄の好きなカードを買ったりしている。ガイドブックだけで三十冊近く持っている。プレイしないのに!!

 プレイしないといえば、mmo,ネットゲームもプレイしないのに沢山本を持っていた。というか、攻略本とか、ていうか、本が大好きなんだ俺。売るけど。

 パソコンでゲームをプレイするという習慣が無いので、それにどこかで敷居が高くって、攻略本を見ながら空想の世界でキャラクターメイキング、という夢見がちな小学生のようなことをしていたのだが、一度だけあるネットゲームをプレイしたことがある。でもすぐに止めた。長時間プレイ、課金が前提というのも分かったが、あそこにいる強い「戦士たち」よりも、本とか書いてたりする人の方がずっと「戦士」度が高いなあと、そんな当たり前のことを感じてしまったから。

 ネットゲームを舞台にした漫画や小説もそこそこ刊行されていて、俺はそれらを読んだ時も、面白いと思った物もあるが、少し落胆した。だってそこにいたのは人間ではなく、アニメ世界のキャラクターが別のアニメ世界に行っただけだったから。戦士の香りのしない、見覚えのある勇ましいキャラクター達。

 ゲーム制作者の人が、ネットゲームはコミュニケーションツールの、スカイプメッセンジャーの延長線上にあるから、コミュニティに属したい自慢したい誰かと話したい人が残っていくしお金も払う、と発言していて、俺も大して詳しいわけではないが、納得してしまった。これなら、一人でゲームでも、俺には十分。

 でも、病的にネットゲームに依存する人には強い興味を覚える。俺は(それに自覚的であって欲しいと思うが)何かに対して大きな代償を支払っている人に強い興味を覚えてしまい、その世界では輝かしい「戦士」である彼らに、どこかで敬意と言うか、仄かではあるが、特別な感情を抱いていることに気づかされる。それはきっと、俺に欠けている信仰心に近いものを彼らが持っているような、そんな気がしているからだろう。

 俺はゲームがとても好きなのに、プレイしながらかなり醒めているから。でも醒めていてもプレイせずにはいられないし、夢中になってしまう瞬間だってあるから。

 とにかく俺も消費せずにはいられないってことで、多少は、彼らの仲間かもしれないし、やがてわたしも、死の前にひざまずくときがくるだろう。だがそれまでは、適当に楽しんでいたいな。