皆でチャーリーズエンジェルスを見ようぜ!

 夏は暑くってやってられない。こんなときは映画館にいって、頭からっぽで楽しめるアクション大作を見るのがいい。大きなスクリーンで、コーラでも飲みながら、騒がしい客なんて気にしないで、ぼんやりとして楽しむ。それが夏の楽しみ方だろう。

 ということで、ドキュメンタリー映画を三本借りてクソ暑い家で見る。『赤軍PFLP・世界戦争宣言』『フロム・イーヴル バチカンを震撼させた悪魔の神父』『NHKスペシャルチベット死者の書

 全共闘、或いは連合赤軍よど号ハイジャックといったことに対して、リアルタイムでは経験しなかった若者の多くは、それに冷めた眼差しを送っている人が多いような気がする。というか、俺もその一人だ。

 革命、という言葉を旗印に掲げ、アノミー的な陶酔と狂熱を体制にぶつけるという様は、すぎさった時代の人間としてはどうにも理解が難しかった。しかもこの映画はパレスチナ側のゲリラの、完全なるプロパガンダ映画であり、プロパガンダであるからには、ヘヴィー・ローテーションで流れる消費の為のタレント広告の展開のように、退屈なものだった。

 制作者である若松孝二足立正夫に関して、俺は数本の映画を見た程度の知識しか持ち合わせていない、けれど、足立正夫が後年のインタヴューで、

「でも若松さんは、自分はパレスチナ問題は知らないし、何しに行くのか、と訊くので、私なりに考えていることを説明した。そうしたら「お前がそういうなら行こう。金は幾らかかる」と気軽に応じ、「これでやれる範囲だぞ」と腹巻に5000ドル入れて出発した」

 と語っているが、このフットワークの軽さは、すごいものだと思う。理屈ではなく、撮りたい物があるから撮る、といった感じだ。映画監督、という感じがする。理屈は語りたいやつに任せてしまえといった風な。単なる歴史上の資料としてではなく、生き様も含めて、この退屈な映画は見られるべきかもしれない。

『フロム・イーヴル』は、キリスト教聖職者による、数十年ものの幼児への性的虐待を扱ったフィルムだ。実際の事件を起こした神父、そして被害者、その親、裁判の様子等が落ち着いた室内で、厳かな教会を背景として、淡々と語られていく。

 キリスト教が根付いてしまっている生活において、カトリックの、教会の権威はとても大きなものなのだろう。だからこそ、被害者は声を上げられず、上げたとしても、新たな苦難が待っている。教会に行かなければ、一生結婚が出来ないなんて!

 個人的には被害者の両親がカメラに語るシーンで、最初こそ抑えたトーンで話しているのだが、父親が「五歳の娘をレイプしたんだぞ」と声を荒らげるシーンはとても痛ましかった。

 そして、この神父もインタヴューに応じているのだが、どう考えてもサイコパスというか、てんで自分の罪を悔いること無く、自分の地位にだけ固執して、教会も彼をかばい続け、事件を隠ぺいした。それも、この神父に限った話ではない。恐ろしい数の被害者がいて、それを黙認する教会。被害者の父は「もう神なんて信じない」と言う。しかし、彼らは神を必要としていたし、もしかしたら今もそうかもしれない。世界中の人々が超越者を、神的存在を、人生に折り合いをつける為に求めているのだから。

 このドキュメンタリー映画と共に見るのをお勧めする(というか、町山智浩が番組で紹介していた一連の作品群なのだが)のが『ジーザスキャンプ』と『アーミッシュ』だ。


 アメリカでは聖書の言うことを(ほぼ)丸ごと信じる福音派が約25%存在しているそうだ。その彼らが子供たちがサマーキャンプで牧師の説教を受ける、という内容なのだが、映画を見ると、信仰心のない俺(日本人)にはきな臭い新興宗教や糞会社の新人研修のような洗脳プログラムが行われているようにしか見えない。自分たちの敵を排撃するように子供たちに檄を飛ばし、現実が、現実に毒されている「貴方達」がいかに汚いかを伝え、恐怖心を植え付け、そして「キリスト」による救いで浄化しようとするのだ。

 牧師の誘導によって、集団で涙を流し続けるティーンエイジャーを見せられると、とても居心地が悪い。仕方がない、ような気がしてきてしまうし、それに、彼らが弾劾する社会が悪ではないように、彼らの行いが「悪い」、と、言えるだろうか? 俺はためらいを覚えてしまう。

 ちなみに牧師の女性はかなりのデブなのだが、この人「信仰心がなくなって近頃の人は断食一つしようとしない」とか言ってんの。お前がしろよって話なんだけど、言っても通じないのは目に見えているというか、そこまで自分自身に盲目的だから、あそこまで他人を攻撃できるのだろう。

 人口の四分の一を占める福音派ブッシュ政権に利用されてさあ大変、なのだが、何故か聖職者である福音派のリーダー達はキリスト教で禁止されている金かセックス・スキャンダルで失脚しているらしい。え? キリストの教えは? 

 でもこのスキャンダルのおかげ、というのは不謹慎かもしれないが、こういった身も蓋も無さが暴露され続けているおかげで、アメリカが狂う一歩手前で留っていられる、といえるかもしれない。本当の聖職者が、カリスマがいたのならば、もっとアメリカの軍事介入が進んでしまっていたのかもしれない。

 もう一本の『アーミッシュ〜禁欲教徒が快楽を試す時〜』は残念ながらレンタルできなかったので未見なのだが、個人的には対談を読んだだけのこちらの作品の方が考えさせられた。

 アーミッシュ教会というキリスト教の一派は、車もテレビもない、俗世と断絶した生活を送っている。そしてそのコミュニティの中だけで育った彼らは、16歳から始まる期間に、洗礼を受けるか俗世に入るかの決断を迫られる。彼らはいきなり俗世の快楽を浴びる権利を獲得するのだ。

 寂れた田舎に突然おとずれる、性交乱交、良識的な(!)大人が眉をひそめる音楽に薬物まで、俗世のテーマパークを彼らは味わう。にもかかわらず多くの人が俗世ではなく、洗礼を受ける方を選ぶという。一度破門されたら信者の親にも会えない、という厳しい戒律もそうだが、16でいきなりほっぽら出されても、やがて快楽が倦怠を連れてきてしまうのだろう。倦怠を飼いならすのには時間が必要だ。

 

 でも、この映画の公開後、テレビ局が彼らを田舎の娯楽ではなく大都会に連れて行くという企画をすると、なんと多くの子供たちは俗世に行く選択をしたそうなのだ。それを町山は「彼らが求めたのは快楽ではなく仕事、将来の可能性」と説明する。大都会には、キリスト以外の神様「みたいなもの」に触れる機会がたくさんあったのだろう。

 俺が最初に触れた『ジーザスキャンプ』で覚えた違和感は、子供たちの判断力を狭めていることにあった。神様が正しいからお前を救うから信じろ、ではない。神様は間違っているかもしれないけれど、こんなにかっこよくてセクシーなんだ、だから君にも伝えたいっていうのが筋じゃないのか、と俺は思う。正しい人だから信じるって、背信行為だと、信仰心とか色んなことが無い俺は感じる。キリストが正しいから救ってくれるから好きなんだったら、別のもんでもいいだろ。そんなん信仰と言えるのだろうか。

 しかし「死」というものは誰にでも恐ろしい物で、そんなことばかり考えているとまともな生活が出来なくなってしまうだろう。宗教における罰、禁止の措定と救済というセットはもう、御約束になっている。それが、俺には不純だと感じる。自分にとってとても都合の良い他人の言葉で救われて、どうするんだよ、って思ってしまう。神様っているとしたならさ、もっと、残酷でクールなんじゃないのか? その方がかっこいいじゃんか。

仏教に明るいわけではないが今わの際に仏陀が弟子に「わたしが亡くなった後は サンガ(僧団)における細かな戒律は廃止して欲しい」

 と告げても戒律の解釈をめぐり組織は分裂し、結果新たな戒律が増える、新たな「伝説」「神的」装置は生まれてしまう。

 『チベット仏教』に関して、興味深くはあるものの、多少懐疑的な視線を抱かずにはいられなかった。「死者の書」と呼ばれる「山や洞窟に隠れていた経典が必要な時代が来ると発見される」ものだって、神秘的な救済でしかない。オリエンタリズム的必死な戯れだ、と言うのはあまりに品が無いだろうか?

 しかしダライ・ラマのあの他の宗教家のトップに比べてはるかにアグレッシブで地に足たった行動は、立派な思索者であるように思える。彼のように、知ろうとすること、民衆と考えようとすることこそ、隠匿による神秘性の保持なんかよりずっと、トップに求められることではないだろうか。

 またその「死者の書」が、死者を葬る文化に乏しい(当時の)西洋において「ダイイングプロジェクト(余命わずかなエイズやがん患者にたいするボランティアとの対話)」として、そしてホスピスとして安息を与えていることは、良いこと、のように思えるのだ。

 ニーチェが『道徳の系譜』で喝破してしまっていても、彼だって結局「超人」を求めてしまった。哲学の宗教の実利性というものは、いやがおうにも、やはり大きなウェイトを占めてしまう。救われない為に陶酔から遠ざかる為に聡明で賢明である為に帰依するということは、本当に困難なのだと思う。

 でも、五体投地マニ車回して苦行を行って祈りをして、それで救われるなんて、神への愛が足りないような気がしてしまう。それは信仰ではなく、生活なんだもの。でも、いやおうなしに生活は人間につきまとう。生活をおろそかにはできない。革命戦士ぶって、狂熱の中で周りに迷惑をかけるとか、それは、厭だ。
 
 だって、革命が必要な人って神様のことばかり考えている人って、要するに社会瀬克からつまはじきにされているからじゃあないか。世界変革は、個人的世界変革からしか出発しないという、身も蓋もない残酷な現実。

 ただ、それでいいと思う。哲学者だって心理学者だって、絶えず襲いかかる吐き気のような自分の病理を解決するために立ち向かうのだ。

 とか書いているととても気分が悪いので、50円で買ったビデオ「プーさんとにんじんおばけ」でも見ようと思います。神様は宗教は革命は俺のつれない思い人だけど、プーさんに出てくるティガーは、超かわいいしクールだから。虎買いたいな、それか俺、半分くらい虎になりたいがるるるる。