ねぼけたままの

 雑務をこなしながら、眠りも浅く、ストレスハイな感じで、上野あたりをふらふらしていた。アメ横を歩きながら、お菓子問屋でチョコレートを買い、ふと、目の前にある小さなお寺から声が聞こえて、向かってみる。

 どういう理由かは知らないが、本堂からお経の声が聞こえて、声に誘われて線香を焚いた香も久しぶりに嗅いだ。線香の匂いは、お寺でかぐのに限って、なぜだかとても惹かれる。あの熱っぽい温度と共にくゆる香は、身体の芯から暖かくなるような心持になる。

 小さな椅子に座って、ぼんやりとすると、一月ではあるが思いのほか暖かく、少し心がほぐれる。ゆったりするのが苦手な俺だけれど、何も考えずにぼーっとするのはとても大切で、飽きるまでぼーっとしたら、きっとまた動きだせるような気がするのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=UUV_MnOSGFY&feature=player_detailpage#t=19

 Saint Etienne - Sylvie


 この曲、というかこのアルバム好きで、結構聞いていたなーと思う。ほんのり前向きというか、いい気分になる。ほんのりと前向き、みたいな気温で気分で。


 久しぶりにコーラを飲む。小さい頃はジャンクフードや炭酸も禁止だったからか、炭酸はあまり自分で買ったりしない。年に数回、といった程度だ。その上俺は胃腸が弱いのか、炭酸を飲むとげっぷが出てしまい、人前では飲めない。あー久しぶりにクリームソーダとか飲みたい…半分コーラを飲むと、げっぷが三回も出た。コーラは炭酸が抜けた砂糖水みたいなのが好きだ。

 川端康成の『乙女の港』を読む。挿絵は中原淳一で、女学生の「エス」、シスタアについての少女小説で、弟子が書いたのに朱を入れたらしいが、やはり川端の作に仕上がっていると思うし、中原の挿絵も素晴らしく、『ジュニアそれいゆ』の世界、みたいな
感じが。

 お姉さまのクリスマスプレゼントが子供たちと一緒にクリスマスをすごし、その意味を考えること、それに妹が感動、みたいなのは今の時代には書けないもののような気がするが、ちょっとぐっときてしまった。

 手塚治虫の漫画、は割と読み散らしたのだが、当然読んでいないのも沢山あって、適当に買った漫画のついでに水木しげるの自伝、南伸坊の表紙が可愛らしい『ねぼけ人生』を読む。元々小さいころに鬼太郎とかテレビで見ていたし、好きではあったのだが、とても面白いエッセイで、彼の他の本も読む。

 いつでもユーモアを忘れない水木のエッセイはとても面白い。自伝でも片手を失うとか妻と結婚するとか、そういう部分がかなりあっさり書かれているのに少し驚いた。でも、彼の「ぐうたら」を大切にする生活態度は、せっかちではあるが同じ阿呆の俺にも気持ちがいいものだった。

 勿論それだけではなく、エッセイの中でユーモア以外にも素敵だと思うところもちらほらあって、



「漫画の登場人物が純粋なニンゲンではなく妖怪が多かったのも、それが、いわば「自然の一つの現れ」だったからだともいえる」


 売れ線の正義の主人公漫画は書けない、ということについてゲーテの「人間は悲しみのあまり、最後は笑ってしまう存在だ」というようなことを引き、フランスのコメディは「人間劇」を意味するという「また聞き」を手掛かりに、
「正義の御旗を振る貸し本漫画の主人公は、そのあたりの悲劇と喜劇を骨の髄まで理解しているとは思えなかった。突き詰めれば、主人公だけが偉いのだ」

 戦争に行ってその悲惨さを体験してきた人のこういう発言には、やはり重みがあると思う。誰かだけが偉いだなんて、それこそ「滑稽譚」ではないだろうか、という気分になるし、実際そうだと思う。水木の場合は自然に対する畏敬から妖怪を感じて、自然の前では人間なんて大したことがないだろう、という感じの印象も受ける。大したことがなくても、好きに遊べばいいのだ。


 俺は神様や妖怪を信じているのではないし、そういうことを口にする人に警戒してしまう。それは、そういう超越的な、スピリチュアル的なものを口にする人は、「本当は」そういうものが好きではなくて、単に自分の世界像強化としてそういう神様とか悪魔とかを利用しているように思えるからだ。共生しているような感じがしないというか、俗世間に染まってその恩恵を受けまくっているくせに、都合良く超越者を自分の為に利用するというか。


 水木しげるが好きなのは、彼自身が世界を楽しんでいるのが十分に伝わるからで、目に見えないものについても感応しよう、という位の感じが、信仰心のない俺にもちょうどいいのだ。


 マレーシアでシャーマンの儀式を見に行ったときに「具合が悪くて本当の儀式はできない」と言われて、なら「遊びの儀式(それならば撮影は可能だという)」をしてくれ、と頼む下りで、

「儀式と言っても、日本人の私がヒョイとマレーシアの田舎に来ただけで、その深い意味が簡単に分かるわけがない。だが、音楽や踊りといった「音」と「カタチ」は、われわれにも感じることが出来る。感じることで、儀式の内奥に迫れる。それが大切なのだ」


 妖怪を信じていてわざわざ外国のそういう風習を身にきながら、やみくもにそういう
ものを神格化したり信じたりしないというのは、とても賢明であり、そういった儀式に対して敬意を払っているようで、すごくいいなあと思った。本当にこの人は見た物について、まっさらな心で感じようとしているのが、自然で、素敵だなと思った。

 動物を中心に撮影するカメラマン、岩合光昭、その夫妻の共著、『海ちゃん』を読む。この人の本、写真はとても有名な人だし、親が好きだった(子供に読ませても平気な感じで)からか、沢山目にしていたのだが、久しぶりに目にしても、安定の楽しさ。

 でも、猫の一生に焦点を当てているのだから、猫を飼っていた俺は思わず泣いてしまって、というか、町田康金井美恵子武田百合子も、エッセイの中で愛猫の死を描写していて、必ず泣いてしまう。内田百輭や生野頼子や夏目漱石も猫をテーマにしていたなあ、と思う。(俺が好きな)日本の作家は猫が好きなひとが多いような

 何だか、春にすることでも考えると、気持ちも少し上向きというか、好みの、性格の悪い人のことばかりではなくて、好みの阿呆のことを考える時間も、必要だってことで。