愚かさと雑記

二、三週間まともに動けないというか、半日以上ベッドの上から動けずに、錠剤とアルコールで気分をまぎらせ電気もつけられない状況が続いていたのだが、そんな状況をずっと許すほどの貯蓄があるわけでもないし、色々とどうでもよくなっていたのだが、そんな折に年金の滞納で差し押さえ勧告(でも俺年収が低すぎるから対象外らしいしそんなに生きるつもりもない)と所得税の支払いがあって、そう、来月辺りには保険料の支払いもあるのかなあと思うと気が遠くなってきた。

 でも、そういったこととは別に、小説を書こうというか、数か月ぶりにワードで小説をかけているので、ただ、それだけで俺はなんか生きていく意志というと大げさなのだが、まあ、普通にしなきゃなあ、と思えるようになった、多少は。

 俺はラストが決まらないと書くことができない。それにある程度の精神的とかの余裕がないと文章を書くことはできないので(こんなどうでもいい雑記なら別だが)お金になるとかどうにかなる、というものでなくても、俺の中の思考を上手く整理して編集して物語にしていく作業というのは、とてもスリリングで、楽しい、生きてるって感じだ。生きているっていう人らのことをかけるから、かもしれない。

 なんどか重複するが、既得権益と自己保身にまみれて生きる、というのも一つの選択かもしれない。でも、それだと世界が善人ばかりになってしまう、というか、世界は善人ばかり。 

 だれとても話が通じない、というのは恐怖でしかないし、それならどうでもいい、と思っても、金がなければ生活はできない。金のために嘘をつく。金のために嘘をつく生活。


半グレやチンピラやヤクザが悪者なんて言ってるのではない。彼らの多く、ほとんどは、善人とはいいがたいが、悪人ではない。彼らなりのもうけと騙しという社会生活を送っている、フリーター、サラリーマンというわけだ。

 世界に聖人がいないように、悪人すらもいないのが悲しい。自由ではない、ということだ。自分の人生が命が、本当にそんなに大切か? だから、悪人について書きたいと思うし、俺も、書くことについては、きちんとしなければなあ、と思う。

 見た映画の感想、てか、全部一度見た映画だけど、また見たくて借りた。

 鈴木清順の『夢二』竹久夢二の生涯を清順が描く、といった映画で、これにはいい歳の沢田研二が出ていて、とてもいいキャスティングだと思う。

 昔も書いたが、室生犀星竹久夢二のアンニュイな美人画を「あんなものは春画ではないか」と喝破したのは俺も同意見で、つまり、助平で放埓な沢田研二が女遊びをしながらも、いつしか清順の不可思議な舞台の中に迷い込む、というような内容で、楽しく見ることができた。

 清水宏の『簪(かんざし)』なんと公開は1941年!戦中に放映されたんだーということを頭に入れて見ると(というか、そうしないと意味不明な個所がある)感慨深い

 原作は井伏鱒二で温泉宿のドタバタ劇というのんびりした内容なのだが、温泉に湯治にきたらしい傷痍軍人の足に簪が刺さり、それを取りに来た女性が若き日の田中絹江で、彼女は徐々にけがをさせてしまった軍人にひかれていく。

 彼女は自分が妾で、もう、東京には帰る場所がない、この温泉宿の健康的な生活がいいかなあと女友達に口にする。でも、ここは温泉宿で、みんな、いつかはここから離れる。軍人も歩行の練習を毎日していて、最後、長い石段を登り切ったら、帰る、というシーンで、それが成功したとき、子供が「あれ?おばさん泣いているの?」と子供らしい無神経な指摘をして、それをごまかし思いを秘めたまま、ラスト、きれいな着物を着て、傘をさして軍人が練習していた場所を歩く田中絹江が切なくも、美しい。

 あとデレク・ジャーマンの数年前に見た映画を五本もかりたので、それもかかなくっちゃなあ。