書くこと、考えること、そして、カッコつけること。

過去のクソみたいな出来事やこれからの展望のなさに、どうしても鬱々としてしまっているのだが、そればかりではいけないというか、そんな下らないことばかりの人生を自分自身で選んでいる、というのはやっぱり最高にダサい。

 ダサい時があるのはしょうがない、でも、やっぱ、カッコいい方がいいカッコ悪くても、カッコつけていた方がいい。その方が絶対にいい。

 ただ、この世の中の多くの人がどこかの組織(広義の)に属して、それなりに前向きに生きていて、しかも自分自身を肯定している(これはナルシシズムとは少し違う)というのは俺にとっては驚くべきことだ。

 極論を言えば、神様も、悪魔さえいない世界で生きるなんて、しかも、俺は「美しくない」ままゆっくりと自死を迎えることを定められているなんて。おぼろげながらも、小学生の時からずっと、この考えに囚われて生きている。

 これを愚かだと言える人は健康な人だし、そもそも俺のこの雑文なんて読まないだろう。俺は、哲学には行かなかった。あくまで自分にとっては、そこには答えは無い、と思ったから。(好きなのはフォイエルバッハだし)

 それよりも自分には文章が、言葉が、思考が、音楽のような物語が必要だったのだ。

 ナショナルジオグラフィックの「生と死、境界を科学する」という号が、大体知っていることながらも、やはり興味深かった。

 昔の人は色んな方法で不老不死の夢を見た。昔の人が夢見ていた未来、魔法、化学、それらはこの現代で大分叶ってきたのではないだろうか。だからこそ、今の時代サイバーパンク系の漫画やゲームやらが流行らないのが寂しい。でも、今はパソコンやスマホを持っているだけで、もう、「未来人」めいてきているんだもの。

 でも、俺としては荒廃した世界でのテクノロジーや古代の詩、物語という構造に惹かれる。それは、もしかしたらその中では神様、のような物も生きられるような気がするからかもしれない。それか、神様をもっと雑に扱えるかもしれない。

 ナショナルジオグラフィックのその号の驚いたのは、インドネシアのトラジャ(族)の風習だ。今この現代であっても、彼らはベッドに遺体を寝かせて、一年以上(!)共に暮らすのだ。

 勿論普通に服を着させられた、ミイラ、或いは白骨。そしてその葬儀には殺されるために育てられた大量の水牛が殺させる。勿論、値段はかなりの額になる。裕福者ではその葬儀の費用(水牛の費用)だけで5000万にもなるという。勿論、普通の家庭でそれは無理な話しだし、色んな家族や親せきから送金してもらい賄っているという。


 彼らは死をどのように処理しているのだろうか。トラジャは死を、いや、自分たちを巨大な織物のうちの一つで、死はその織物に刺す一本の糸だと言う。

 彼らは死と、そして祖先と家族と共に生きて、生き続けている。死を忌避する多くの人間たちとは違って。

 でも、当然日本で生まれ育った俺には彼らのような生き方も考え方も出来ない。だが、様々な人がそれぞれの物語を作っていることには感銘を受ける。

 そしてきっと、俺も、いや、きっと皆、自分の物語を作らねばならないということ。死を恐れるため? 詩を口にするため? 神様に傷つけられたい為? 悪魔に愛を囁きたい為? それは、その人が決めることだ。そして、俺には未だ借家もパソコンもある。やるべきこと、書くこと、考えること、そして、カッコつけること。