君は誰の夢?

 最近アニメーター志望の女の子が主人公の漫画を試し読みして、かなりおもしろかった。数年前に見たアニメ、SHIROBAKOも、見た目は可愛い女の子たちがそれぞれの夢(アニメの制作現場)に向けて頑張るお仕事アニメで、入口(見た目)は可愛い女の子がパッケージを飾ってはいるが、実際は仕事をひたすらする、アニメが一本のさくひんになるまでというのを丁寧におっていて、かなり面白かった。

 最近見たアニメーター志望の漫画も女の子が主人公だが、作者が漫画ではなくアニメーターとしてもずっと働いていたそうで、(俺は詳しく知らないが)リアリティがいい感じに入っていて好きだ。

 そういえば、数年前に完結した『大東京トイボックス』というゲーム制作漫画もすごく好きで全巻持っている。エゴの強い主人公が自分の好きなゲームを作ろうとする、けれどゲームは色んな人と作るもので、しかも仕事だから「収入」「黒字」を出さねばならない、という当たり前のことと戦いながらも、自分の作りたいものとの折り合いをつけねばならないのが、読んでいて引き込まれた。

 エゴがなければいいものは生まれない、しかしエゴが強すぎると誰もついてきてくれないし、売れなくて皆の生活が壊れてしまったらもともこもない、次回作も作れない。

 回想シーンで、かつて同じ会社でゲームを作っていた二人の男は土壇場の状況になって、主人公は「魂が違っているもんを 世に出すわけには いかねえ」と言うがエリートのライバルは「給料もらっといて アーティスト気取ってんじゃねえ」と返す。

 俺は自己中な方なので(だから大人数でどうこうとか考えないのだが)「給料もらっといて アーティスト気取ってんじゃねえ」の台詞は胸にきた。マジ、これはそうだと思う。でもエゴなくしていいものなんて生まれるわけがない、と思う(実際のところは誰にもわからないし)。

 皆で一つの物を作り上げる、それは俺には出来ないことだからか、どこかあこがれがある。アニメでも、ゲームでも、映画でも、演劇でも。

 そして、最初に言ったアニメの漫画でも、このトイボックスでも、憧れの対象に救われて、自分の夢が誰かの夢に繋がる、という体験で業界への扉を叩く。これはいくらありきたりであっても、素敵な、好きな展開だ。誰かへの、作品への尊敬や愛無くして、物づくりとは成り立たない物だと思うから。

 でも、それは綺麗ごとで、誰かと作る、ということは自分が歯車になるということだ。労働条件だって良くない方が圧倒的に多いはずだ。一部を除いて、いつまでも苦しい、不安定な生活を強いられることになる。

 ただ、そこには仲間、のようなものがあって、それがエゴイストというか、集団行動ができない(だからこそ、文学が好きな)俺には羨ましく映ることがある。

 そう、小説(純文学)や詩といった物は、突き詰めればつめるほど、それを読みたい人が「必要な」人が少なくなる。(何が上だ下だという話をしているのではない。念のため)読むのにめんどくさい、或いは前知識が必要な(特に哲学とかっ前衛的な物とか)物とかは、幾ら輝いていても、ひっそりと消え去る。

中谷美紀の「天国よりも野蛮」という曲の歌詞みたく

 誰からも 気づかれず そっと輝く
 哀し気な宝石さ 君は 泥の中の

 
 だから、パッと見るだけで分かりやすい、エネルギーを与えてくれる、(好きか嫌いか判断される。純文学やらはそういった選別にすら入らない)漫画やアニメやゲームはすごい、し、いいなあと思うことがある。

 誰かが誰かの力になる。夢を与える仕事。きっと、その反対のエゴイズムの極みが、芸術作品ということになるのかなと思う。

 最近また調子が悪く、過眠が多く、このまま金も減って、眠るような希死念慮に囚われていたが、でも、まだやれるはずだ、という気も、一日のうちに数十分はある時もある。それに、その方がいい。世界がきれいだってこと、まだまだしらないこともつくれてないこともあるのだから。

 元気になんてなれないしなれなくてもいいけれど、俺も、「誰か」みたく、輝くことへのあこがれをわすれてはいけないのだなと。