灰になるまで

田中慎弥『孤独論 逃げよ、生きよ』を読む。田中といったら、芥川賞の発言で一時期話題になったが、その生活スタイルも当時とても奇異なものとして色々な所で目にしたのだ。

 彼は高校卒業後、ずっと家にひきこもっていて、幼くして父を亡くしたので母と祖母と三人暮らし。33歳で文学賞を取るまで、十年以上働かず引きこもりをしていたということだ。母やらの環境が許していたにしても、十数年も引きこもりをするというのは「普通」の人にはできないだろう。そんな人の人生論の一片。

アマゾンの説明文によると

仕事、人間関係、因習などにより、多くの現代人は「奴隷」になってしまっている。「奴隷」とは有形無形の外圧によって思考停止に立たされた人のこと。あなたも奴隷になっていないだろうか。自分の人生を失ってはいないだろうか。奴隷状態から抜け出す方法はひとつ。それはいまいる場所からとにかく逃げること。逃げて、孤独の中に身をおくことが、自分を取り戻す唯一の手段であり、成功の最短ルートだ。孤高の芥川賞作家による、窮地からの人生論。

 とのことだが、これは編集部が作ったであろう煽り文で、中身はかなりマイルドな語り口。しかも口述筆記でのもので目新しい物はあまりないだろう。

ただ、彼は未だに文章は手書きで、パソコンもスマホも持っていないという。ネット中毒の俺には情報過多に毒されて「しなければならない」という強迫観念に襲われている俺にとっては耳の痛い話もあった。そう、無意味に、「つながる」必要なんてないというか、それをする人は立ち止まり考える必要があるだろう。

しかし、それ以外の内容では、やはり自身が傾倒した文学について語っている。



冒頭に限らず、『雪国』に書かれているのは徹頭徹尾、なんの役にも立たないことです。

私はそんな無駄の極致というべきもの、社会的利益になんら結びつかないものに若い時に触れた挙句、自分でも小説を書くようになった。

 この部分はとても共感したし、いい部分だなあと思った。そして、田中はニートながら、毎日文章を書くこと、を自らにかしてしたらしい。

 文章を書くこと。それは簡単にできるものではない。簡単にできる者はきっと、文章というよりも事務処理や伝達や感情の発露、といったものだろう。

 文章をかくこと、何かを作ること。それと働くことは折り合いが悪い。でも、それをしている人がいる。何でそれが折り合いが悪いのか、と考えると、単純な時間拘束ということ以上に、自分に嘘をついて、その積み重ねと制作に向き合うことの切り替えが、俺にはどうもうまくいかなかった。

 彼はどうだろう。他の人はどうだろう。自分はあと何年、情熱を燃やすことが出来るだろうか? そう、書くことはできるかもしれないし、書くことが俺の大きな精神安定となつているのだが、仕事をして嘘をついてまでお金が欲しくないぞ、とまた悪い癖が出てしまう。

 普通のことができない。働いてお金を稼いで、そして自分の好きな事をする。それをどうにかこうにか「逃げ」て、情けなくも時折燃えて、生き抜いてきた。

 俺ももっと強くなろう、と思ったが、それはできない問題というか、別問題だと気づいた。俺は、生きるのに向いていない。でも、この世界の様々な物が、時折とても愛おしくて痛々しくて輝かしくてたまらないのだ。

 覚悟。二十代後半からか、あと数年頑張るぞと、思いやりすごしていた。それもそろそろぎりぎりな気がしてくる。でも、パソコンで文章を書くならば、ホームレスにはなれない。こういった雑文だけでもいい、いや、きちんと、文章を、作品を書くこと。それで俺は自由になれる。

 ただ、俺の書きたいことのストックというか、構想に対しての刺激や取材めいたことが必要で、そんな金銭の余裕はない。でも、俺は俺を刺して、何かを掴まねばならない。

 俺はどうなるのか分からない。それは皆同じだ。皆同じ。最後は灰になりおしまい。それを思うと気が楽になる。灰になるまで、俺は何ができるだろう。あと少し、あと少しと騙し騙し、強迫観念から自分の意志から、俺は溝川の中で硝子の欠片を探すのだ。