さようならの流儀

体調不良が酷い。一日に何度寝て起きているのか分からない。ちらつく希死念慮と吐き気。単純に働けないので貯金の終わりが俺の終わりの始まり。

思えば、無計画でよくこの年まで生きてこれたもんだと多少は自分を褒めてもいいような気もしてくる。ただ、(自分の身体も含め)色々な人に迷惑をかけた結果、生き延びているのだけれども。

 まともに働けている人が、本当に不思議だ。そして自己実現の為に他人に手を伸ばしたり友達になろうというフリをしてくる人間にうんざりする。なんで皆そんなに自分が幸福になることが、小銭稼ぎが安全が自己保身がたいせつなのだろう。

 それはきっと、俺みたいになりたくないからかもしれない。薬がないと自我が保てない、時もある。というか長年常用しているのだから自分の意志が何で制御されているのか、分からなくなってしまうことがある。こんなざまで生きている意味があるのか、世界の意味が剥がれてくる。

 one driveの調子が悪いから思い切ってアンインストールしたら、小説のメモに使っていた、メモ帳の内容も全て削除されてしまっていた。他のは大丈夫なのに、なぜかメモ帳だけ被害を受けた。

 それは面倒だがどうにかなることだけれど、気づかずにごっそりと抜け落ちてしまう感覚は、俺にまた小さな無気力感を与えてくる。生きる気も死ぬ気もないのだけれど、とりあえず眠ったり最低限の小銭拾いができないのは精神をガリガリ削っていく。

 しょうせつを書く、ということはまともな精神状態やそれなりの余裕がなければ難しい物だと思う。思っていた。でも、それなりの余裕、が無くてもまあ、大丈夫かもしれないと思うようになったのは怠け者の俺があと何作かけるかなとか、あと何年頑張れるかなと前向きに考えられるようになったからかもしれない。

 自分では満身創痍のつもりでも、底の底はまだまだある。苦しみの底はどこまでも続く。自分が今どこにいるのかは分からない。

 愛しなさい 忘れなさい 与えなさい  と思えば、俺は気が楽になった。それに加えていつでもさようならと言ってもいいのだと自分に許してあげれば、まあ、初めて某錠剤を口に入れた時のように、原罪なんて信じてない俺は自罰からたまゆら解放されるのだろうか。