comme des garcons!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 映画見る。

 ダグラス・サークの『自由の旗風』。サークの作品にあれこれ言うだけ野暮かもしれないけれど、カラーで映された画面では美しさが際立っていた。水をぶっかけるシーンの素早い処理がスマートで好き。てか、俺水ぶつける系の好き。サミュエル・フラー。ご都合主義的、と言うのもあれだけれど、88分の中であれだけ詰め込んでまとめているのはさすがだ。

 フィリップ・ガレルの『内なる傷痕』を見る。本当に、この人は「愛の映画」を撮る監督ということなのだろうか? 男と女が奇妙で美しい風景を行ったり来たりする映画。60分。この短さは良い。映像も美しくて、デレク・ジャーマンの似たようなコンセプトの映画よりも『映画』として優れているような気がした。筋も脈絡もないようで、映画の文法の中で作られているような、感じ。ジャーマンはMTV、ミュージックビデオ的。

 でも、俺はガレルの映画を見てなんだか途方に暮れる。これが「愛の映画」なのだと、そう思い込んでいるから? 「愛の映画」は途方に暮れるのか? 体調が悪くなりそうなのでこの辺で。

 ミヒャエル・ハネケの『隠された記憶』を見る。夫婦の元に不審なビデオが送られてきて……といった内容で、犯人探しが目的ではなく、解消しない対立や不和を描き出す、ハネケお得意の内容。人間をオブジェクト、背景の一部のように撮ったり、逆に正面から大写しにしたり、この人は自由自在にカメラを、構図を操る、構成する。

 のだが、どこかで俺は彼の映画にはまりきれないのだと、見る度にそう思う。例外は『ピアニスト』だけで、彼が社会派監督(と呼ばれているかどうかは知らないけど)だからかもしれない。

 映画は人を変えることはできない。ただ、その手で頬や瞳を撫でるのだ、と感傷的な俺は思う。ハネケは好きだ。けれど、一流職人芸というか、優等生的なものを感じる。それに文句をつけられるわけない。でも、俺の求めている物とは少し違う。でも、暇つぶしを提供してくれるだけで、とてもとても感謝しているんだ。

 乱暴な、気がつくとそればかり考えている。きっと生命の恒常性のコードの上で生活している俺達「人間」は、驚くような多様性に似た凡庸さを発揮して、俺とか、俺以外の人とか、色々な人を喜ばせている。それに疾しさを覚える。出来の悪い機械になんて出来の良い機会になんてなりたくないんだ俺、したら? 布団の中でじっとしながら。

 まともな本が読めるような気がしないと言うか、でも別に映画だって十分優れている、はっとするような、抜け出すものがある。抜け出す。『二十四時間の情事』で「或る日僕は永久から抜け出す」という台詞があったと思うが、抜け出す、というのは、やはり魅力的な言葉だ。コードの中で、生命の中で俺は、餓鬼臭い愛憎を抱く。

 コード。会話のコード。不和。について。乱暴さについて、いつも考える。コム・デ・ギャルソンの洋服を最近買っていない買えるわけがないし、着てすらいない。でも、毎日彼(女)の作った洋服を着るべきだ、そうだろ? 少年のように、少年以外の誰があの服を着るんだ? 

 今は休止しているけれど、小説を書いていると落ち着く。どうにかして自分の考えをまとめなければ(そしてあわよくば見られる、美しい、整った形にしなければ)、己の身体性を取り戻すことは困難だ。寝てばかりいるのは嫌だ。それが誰の人生だ? 乱暴さは? 俺に起こっている痛みや衝動とかいう馬鹿げたものじゃなくて乱暴さは? 探さなくていいのか? それがお前の人生か?

 と意気込んでみた所でまだまだシネマと短い睡眠が続く。続く? 空元気を俺に、と、音楽をかけても苛立ってきて音楽を消す。でもやはりつける。文学のように、なんて嫌だ。音楽のように。俺にも、そう言う瞬間はあるはずだろ?