シャボンはアルコールの調べ

 人からガルシア=マルケスの本をもらって、久しぶりに彼の著作を読む。『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』

 帯にスピーチ嫌いの作家の全講演と書かれているが、とても読みやすく、彼の人柄の良さがうかがえるような内容だった。俺はマルケスは短編をいくつか読んだことしかない。幾ら生活が孤独でも、『百年の孤独』なんてまっぴらだ。

 文章がうまい人は読みやすい文を書く。それは相手に伝えようとしていたり、余計な部分、ナルシシズムやセンスがない文という、贅肉をそぎ落とす作業にたけているからだろう。

 でも一般には悪文と言われる人たちの中にも十分魅力的な人もいる。読み手は泥の中で砂金を探しているような文章になれるのだ。泥も砂金も好き、だとしたらその人は悪文家か、性格がひん曲がっている。

 性格がひん曲がっている、といえば大好きな川端康成の『千羽鶴』と『禽獣』を再読。『千羽鶴』は少しメロドラマが過ぎるような気がしないでもないけれど、『禽獣』は何度読んでも胸糞悪い上質な短編だ。

 ひどいはなし、を読むと案外俺もまだまだ生きていけるような気がしてくるから不思議だ。世界にはいろんな人がいるということ、いろんな不快感や美しさがあることを、俺はしょっちゅう忘れてしまう。

 もしそうだとしたら、生きているのもいないのも似たようなものだ。快、不快無いという生ぬるい地獄。

 腐った繭の中での惰眠。

 外に出たほうがいい、身体を動かしたほうがいい、とは思っていてもできない日々。

 過日、代々木公園にシャボン玉を吹きに行った。いい年したおっさんがシャボンと言うと、たいていの人が軽く引く。友人、知人を無理に誘って道ずれにしたことがあったが、一名の阿呆以外はみんなのってくれなかった。残念。

 だが、公園でipodとちっこいスピーカーでテクノミュージックを流しながらシャボンを吹くと、かなりトリップ効果が高いのだ。楽しいマジ。目の前に球体が幾つも! コムデギャルソン、草間彌生、あめざあざあ。

 ただ周りの人に迷惑をかけたり注目を浴びてしまうことが多いので、なるべく人がいない場所で、心を無にしてひたすらシャボンに集中するのが良い。宗教の勧誘にあったり、無断で写真を撮られても心を乱してはいけない。あ、ちびっこには欲しそうにしていたらあげよう、シャボン。

 数年ぶりにYMOを流していたら、えらくシャボンとあった。


https://www.youtube.com/watch?v=hto-Y9CfsFU


以心電信



https://www.youtube.com/watch?v=2T7TXVtGGFc

Tong Poo




東風のピコピコスカスカシンセとシャボンのキュートで間抜けがマジであっていて、うっとり。

 https://www.youtube.com/watch?v=iTLQofzisLY

ロックマン3 BGM ハードマンステージ


https://www.youtube.com/watch?v=t4pDT3Puwx8

ロックマン3 BGM スネークマンステージ



 ロックマンは何でもいい(個人的な好みだとFCの4までが特にいい)。でも一日にロックマンのBGMを何時間も聞いていると気が狂う。てか、ファミコンのBGMは脳に良すぎて、よくない。アルコールみたいだ。

 しょぼいシャボンの時間は、一時間もしないで終わる。終わるころには、シャボン液で手もびしゃびしゃ。映画館を出る時とは違った虚しさに襲われる。でも、何度も家で目が覚めてしまうよりかはまだましなのだ。

 きれいな死、生、なんてありえないのだから
なんて思いつつもそれがあったらいいのになと思う。つまらない考え。その足しに、今日も摂取するアルコールじみたミュージックとひどいひとのひどいはなし。

赦して、サイコパスオーパーツダーリン

テクノを聞き始めの時ってケンイシイから入ったなあ、と懐かしく思い出した。ガキの頃は電子音のインストを聞いただけで少し大人ぶった気になっていたのだ。

 十代のころは男なら皆、カート・コバーン、女ならアンナ・カリーナ浜崎あゆみ川久保玲になりたいんだってそこそこ真面目に思っていたが、かなり見当違いだと知ることになる。

 見当違いばかりの人生。

 テクノの中でも、ポップソングが好きな俺はハウスミュージックを知ることになるけれど、クラブは特に好きにならなかった。ひどく飽き性だからだろうか。雑踏は好きなのだが、雑踏で立ち尽くしたままだと思うとぞっとする。

 俺が大学生だったころ、ダフトパンクがとても流行っていて、コンビニとかでも「ワンモーターイム!」って流れていたような気がする。

 当時仲が良かった教授に「ダフトパンクは好きだけど、なんかきれいな感じがする」と「きれい」を言葉足らずで、自分としては少し否定的なニュアンスも含めていったのだが、教授に「あんなのただのベタなダンスミュージックじゃないか」と笑われた。

 後日、俺が大学のキャンパスでバグルスを流していた時にその教授が通りかかって、嬉しそうに「何でバグルスを流してるの?」と言われた時に、はっと思った。その時は思っただけで言葉にはできなかったけれど。

 哀しくてチープできれいなのだ。バグルスダフトパンクも(一部の楽曲が)。

 


https://www.youtube.com/watch?v=QOngRDVtEQI

 Daft Punk - Digital Love

https://www.youtube.com/watch?v=N7_HCriSm5U

THE BUGGLES【CLEAN CLEAN】1980



 俺が思うハウスミュージックの条件は、華やかでベタでキュートで虚しい。踊れても踊れなくてもいい。でも、単にこれは定義というよりも俺の好みの話になってしまうのだけれど。

 https://www.youtube.com/watch?v=UdSI8R3nank

 SPANK HAPPY - 拝啓ミス・インターナショナル

 エンジェリックがなかったからこの曲で、というかこの曲も相当好きで相当すごい。

 俺にとっての、誰かにとっての最高のハウスミュージック。チープで虚しくて狂おしい位キュート。ブルースの、歌謡曲のエッセンスとチープな電子音は最高に相性が良い(と思う)。ポップソングはやっぱりキュートじゃなくちゃいけないと思う。
 
 きらきらした音楽が、消えそいりうな音楽が、鬱々としてしまう音楽が、耳を刺すような、ノイズ、ガラージロックみたいなポップソングが好きなんだ。

 けれどもそんな地に足がつかないものばかり好きな俺は、実生活でも地に足がついておらず、投薬と惰眠と求職の日々。多分、本当にハウスミュージックが好きな人は健康的な人だと思う。ハウスミュージックが哀しいから惚れてしまう、なんて思っていると日常生活に支障が出る。

 薬を飲むと、思考に靄がかかる。何もできなくなって落ち着く。何もできないのはヤバイと思ってそれを止めると、そわそわイライラうつうつしてくる。

 様々なことを試して、十代からこの調子なのだ。死にたいとか生きたいとかではなく、安定したいと思う。思考の統合、志向性の編集、なんて想起するとうわーってなる。安定したい。

 それには何かを作るのがいいらしい。建設的な思考、或いは趣味の時間はその人を落ち着かせる、豊かにする。はずだ。

 ということで何か作ろう、と思っても先立つものがないからダメだとか、それより早く就業するべきだなんて思いがちらついてどうもうまくいかない。

 でも、どうでもいいものを作るのって、とても素敵なことだ。まるでハウスミュージックのように、ダサイエレポップのように素敵。

 俺に資金と技術があるなら、宝石を作りたいなと思う。MTGというカードゲームが好きなのだが、アーティファクトという単語を目にするとわくわくする。古代の超技術とか失われた部品とか、そういったイメージを喚起する人工遺物。

 アーティファクト、人造髑髏の宝石を作る、作れるならばなんて素敵なんだろう。万が一職業につくならメシアが素敵だと思う。キリストになって石をパンにして街のおいしいパンやさんになる。メシアのパン。望むならワインもどうぞ。バイトに裏切られそうだけれど。

 将来はオーパーツ職人になるのもいいな。オーパーツ。解明されていても、記事を読んだって、解明されていないことにしている(自分の中で)。

 なんて阿呆なことを書くのが、リハビリテーションにはいいのかもしれない。ひどいはなし。阿保の人生。しかし俺の人生。

 最近はクラウドファンディングというのが流行っているそうで、とてもいいことだと思う。俺の知らない人や俺が一方的に知っている有名な方々まで多くの人が活用している。
 
 
 今俺が作れるならなんだろう、と考えて「免罪符」が欲しいと思った。俺は神も生まれ変わりも信じていない。でも、免罪符って、本当にゲスでロマンティックでキュートだと思う。お金を払って罪なんか消えるか! バカ! クズ! お前が犯した記録は記憶は永遠に残るんだ!! お前が忘れても俺がお前の罪の汚泥の記録を覚えていてやる糞野郎! 人型の泥人形め!

 なんて思いを胸に免罪符を作成するとしたら、今流行りのたべものエッセイみたいで、ほっこりしますね。しますね。

 免罪符が売っていたら欲しい。罪を許してほしいんじゃなくて、その存在があまりにも阿保らしいから。ジッドの『偽金つくり』も学生の頃読んだなあ、内容忘れちゃったなあ、『偽金』をつくるのも中々キュートだと思うが、一般市民(俺)が免罪符を作るのもキュート、つまり相当馬鹿げていると思う。

 叶うならクラウドファンディングで免罪符を作りたい。俺が手書きで作るよ。紙切れが数万円になる。これを俺ではなく著名人がしたなら、悪趣味な人に多少、需要がありそうな気がする。ただ、アートとしての免罪符作りではなく、ゴミ(金銭的価値がついて流通しない)としての免罪符が、俺が求める免罪符の在り方だ。

 俺のような信仰心なき一般人が「免罪符」を売りつけるというのは、突っ込みどころが多くて、本当にバカげていて、「まるで気狂いみたい」で中々キュートだと思う。

 欲しいな、免罪符。行ったことがないのだが、コミケコミティアに行けば売っているのだろうか? 聖人が作ったのはいらないです、一般市民が心をこめないで作ったのが欲しいんだ。心をこめて免罪符を作る? 君大丈夫? 病院に行ったほうがいいかもよ?

 数量限定! 今話題の「免罪符」の委託販売を開始しました! 

 
  今日は自分にごほうびとして、ラデュレのイスパハンとクソザコナメクジパンピーの免罪符を買いました(インスタ映え、パチー)

 
 とか、自分でタイプしていて、頭がくらくらしてくる。バカだ。好きだ。

 まるで、質の悪いアルコール、或いはハウスミュージック。キュート。つまり現実逃避。でも、何が現実なのか分からない。ギュスターヴ・モロー大先生のありがたいお言葉、


「私は自分の目にみえないものしか信じない。自分の内的感情以外に、私にとって永遠確実と思われるものはない」



 ああ、すてき。なんだかねむくなってきた。ながくねむれるように、おくすりでものんでねることにします。そうだんしようそうしよう。せきしてもひとり。

「塵は塵に、灰は灰に」

渋谷の山下書店が四月に閉店した。

学生の頃山下書店で、田村マリオの『社会不適合者の穴』を買って読んで、わくわくした。漫画のわくわくした記憶と、本屋の棚で本と出合った記憶はリンクしている。高校のころから、たまにではあるけれども利用していた書店が閉まるのは寂しいことだ。

 青山ブックセンターの六本木店も、来月閉まる。結構利用していた、というか立ち読みばかりだけれど、一度復活して、その後再び閉店してしまうというのは、満身創痍という感もあり、妙な感慨深さに襲われた。

 本は、本当に売れないのだなあと、分かり切ったことを実感する。本を読まなくなった、と言われて久しい。その分別のメディア、コンテンツで文章を消費する頻度は増えたのかもしれないが、そういったものは「消費される」ことを念頭において作られている為、文章ではあっても本とは性格が違うように思える。

 本は、実用書的なものではないとしたら、大げさな言い方ではあるが、作者の信念に虚妄に付き合う羽目になる。他者との対話、或いは独白を聞くというのは結構なエネルギーがいるものだ。それが作り出す側でなくて、受け手であっても。

 でも、その面倒くささが、物語の、信念の、小宇宙の、小箱の快楽というものが確かにあって、それは本という媒体に対するフェティッシュにも通じる感がある。

 本はゲームに出てくる「魔導書」のような物だ。現実世界ではただの人間が、思想にアクセスできるなんて! まるで魔法みたいだ! 今となってはスマホ、PCの魔法がみんなのお気に入りなのだろうけれど、本の持つ魔力というのはネット上の文章とは違った宝石のようなものだ。

 そういった原石、宝石が展示されている場所が書店、図書館であって、アレクサンドリア図書館やバベルの図書館のごとき酩酊を、割と簡単に現代人は味わうことが出来る。
 
 人によってはそれがPCなのかもしれないが、俺にとっての情報の展示場は、書店であり図書館だった。様々な、読み切れない本が無数にあるということは、時には俺をうんざりさせ、また、わくわくさせてくれた。

 俺の狭い家は本が山積みになっていて、時折雪崩を起こしてしまう。

 でも、これでも随分減らした。本を読む人は皆、余程のお金持ちでない限りその置き場所に困ってしまうだろう。好きなものに囲まれる生活、といえば聞こえはいいが、二度とは読まないかもしれない本に執着したまま過ごすのは難しいことに気づかされる。

 ボロボロの、愛着のある衣服を着続ける生活をしていると、ある時ふと、目が覚めてしまう。あんなに楽しませてもらったものだとしても、ずっと手元に置いておくわけにはいかない。

 だからこそ書店は、図書館は自分にとってのもう一つの書斎、書架という側面もあった。新しいものに、慣れた言葉に出会える予感。言葉を手にできる喜び。

 書店が町から消えるということは、自分の中の記憶や執着から切り離される体験に似ている。単純に、見知った街の景色が変わるということは、何らかの感慨を覚えたりするけれども、書店には沢山の本があって、それに触れた記憶がなくなった書店とも結びついているのだ。

 記憶や執着とはつまり、その人の生命に通じていて、自分でも少しびっくりしたが、十数年前から利用していた場所の閉店で、俺は喪失感に襲われていた。

 お店の代わりはある。正直、買った本より立ち読みで利用した方が多い罰当たりな(普通の?)客でしかない。それなのに哀しい。申し訳ないような諦念のような、感情を感傷を持て余している。

 俺にとって書店とはロマンチックな場所だということだ。簡単に誰かの何かのロマンスにアクセスできる場所だということだ。

 そういった自分への慰めが、インターネットでの「雑記」の「タイピング」というのは皮肉な気もするのだが、これはこれで丁度いいようにも思える。

 「塵は塵に、灰は灰に」

 生きるには多くの場合お金とロマンスが必要だ。お金は無いが、ロマンスは未だ欲しいと思う。

メランコリーの天才

 気分はいつもの通り。いつも最低で安定。そんな時に男の作ったテクノミュージックなんて聞いたら死にたくなるから聞かないほうがいい。そうそう、
Serph - Pen on Staplerとかいいよね
https://www.youtube.com/watch?v=L0Wz2jLNdeU


skyrimの方が好きだが動画で無かった)

MELANCHOLY 「Twilight Gloom」

https://www.youtube.com/watch?v=0-Nq8v4yyHM

メランコリーってなんのこと? 俺幼稚園児のころからこんな感じ。

 なのだけれども、死にたいなんて思っちゃいけないきっと。死にたいなんて、死にたいなんて思っちゃだめだ、そう、スパンクハッピーが活動再開するんだし!

曲名は『夏の天才』

 だってよ!

正直俺は岩澤瞳のボーカルがほんとに好きなので、期待と不安と共に聞いてみたら、
新しいスパンクハッピーは、アヴァンでアンニュイでポップで、最高! 新しいボーカルのODさんもいい感じのアンニュイさにほのかなキュートさがあっていい感じですね。

https://www.youtube.com/watch?v=McJ2Bd1Mma4


 スパンクハッピーの曲を聴くと、菊地が好きだと言っていた、フェリーニの『甘い生活』のことを想起する。豪奢で絢爛で退屈で虚しくて居場所がない映画。素敵な夢に迷い込んで、追い出されてしまう映画。映画の魔力、なんてものがあるとして、それを余すことなく体現している、かのような映画。

 ポップソングはすべて甘く虚しく哀しくて最高。代わりがきくのに、初恋じみた、百円で買えるチョコレートのような狂気をくれるのがポップソング。勿論、『夏の天才』も

 お茶のことをたまに自分の小説で書くことがある。しかし素人が書けない、書くべきではないことは沢山ある。例えば、映画で舞踏をテーマにしたものがたまにあるが、それらは失敗しているように思える(俺が成功例を目にしていない)。

 それは編集できる映画で他のジャンルを表現しようとすることが極めて困難であることを示しているということだろう。あきらめをもってあるいは省略や愚直をもってそれに当たらねばならない。

勅使河原宏の『利休』や市川崑の『東京オリンピック』のような姿勢。

 にしても、素人の俺でもお茶をたてていただいた経験位はある
 幼児の肌のような分厚い茶器の口縁に口づけた時の感覚は今も覚えている。グラスは口当たりが薄いのが高級品なんて言うけれど、濃茶、冬向きの厚手の茶碗は土の肌、といった感があるぬくもり。礼儀作法なんて知らなくても、唇の舌の官能は感じることができる。

 よくおもてなしと言うけれども、裏を返せばサディスティックでオブセッションの達人が茶道には向いているはずで、とかいう思想が出る時点でお茶を習うにも仕事に出るにも不向きなのだと自分でも感じるのだが、ほら、さあ、

 釜肌がごつごつしていて、まるでルブタンの靴みたいな釜肌のことを霰肌っていうんだって。本にそう書いてあった。素敵な名前だ。ルブタンの靴でシャンパンを飲むスノッブよりも、霰肌で火傷を負って、その傷痕を恐る恐る撫でるほうが素敵じゃないか(個人の感想です)なんて着想が生まれるなんて、茶道ってポップソングみたいに素敵ですね。

 意地汚いのかオブセッションが頭の中に住んでいるのか世界への親和性が低いからか、しょっちゅう過剰なことを求めてしまう俺、例えば、過食。何かを口にしているときに、次の何かを求めてしまうはしたなさ、恐怖。

 こういった時には小さくて高いお菓子がいいと識者は言うけれど、そうそううまいことはいかない。だって、少なからず気分が悪くなりたいんだものきっと俺たちその時は。その時はね。

 でも、不幸が好きなんてわけでもない。不幸が好きでも美しいのは、(美形の)ティーンネイジャーだけだから。お酒が飲めるようになったら、不幸ともほどよいお付き合いを心掛けるべきだ。

 インスタントな依存先を大人はそれなりに知っているはずだから。

 チョコレートを食べすぎるのは、砂糖を食べるのがよくないのは、血糖値の急激な上昇と低下らしいのだけれど、和菓子、干菓子、和三盆糖の干菓子ならそれを抑えることができる。

 季節を模す干菓子は舌の上でじんわりと甘く広がる。ガツガツ食べるものではないし、見た目がとてもかわいいというのがいい。正直、味は洋菓子の方が好きなのだが、見た目は和菓子が好きだ。家に何冊和菓子の本があるのだろう?

 和菓子の本を読むと四季の、暦の勉強にもなる。俺の好きな『花筏』だって和菓子になっている。散った花びら(桜)が集まって、川の上をすべっていく。

 美しくも哀しい、どうでもいい。砂糖をあっという間に消費してしまった後の様。

 虚しいのは、メランコリーはパッシブスキル或いは標準搭載だとしても、やはり気持ちいのが、ポップソングみたいな瞬間が好きだ。

 いつでも哀しいなら、チョコレートを、エビリファイを、それでも効かないなら人間を土を、獣を。それでもだめならばきっとあなたは小説を書くほうがいい。

指先には飴玉

銀座のエルメスで映画を見る。

『短編セレクション ― 気ままなオブジェたち』という、五つの映画のオムニバス。あまりオムニバスの映画を見る機会がないから、こういうのはとてもありがたいなと思う。好きでもない映画であっても、十分とかで終わってくれるし。

 ただ、こういう短編映画でしばしば感じてしまうのが、コンセプチュアルアートのように、説明文が実際の映画を見た時の驚き、感慨に満たないと言う問題だ。キャプションでどうにか自立する作品なんてちっとも俺は好きではない。

 例えばこの短編集の中にも、新品のトランプのジョーカーだけを抜き取って、全てジョーカーのトランプを作り上げて、それを丁寧に封をして売り場に戻す。なんてものがあって、この説明文以上の何かを受け取るのは難しいように思える。

 こういったモノに何だかんだと理由付けをするのは野暮ったいという気がする。俺が批評家と呼ばれる人達に警戒心を抱いているのは、畢竟、それがラブレターじみているという場合があるからだ。ラブレターを公開するのは、出来はどうであれ、恥ずかしい物だ。恥ずかしい、という自覚があるのならば、作品に依拠しているという自覚があるのならば別なのだが、自信満々な方々が多いように思うのは気のせいだろうか。

 俺はしょっちゅうお金がないから、お金のことを考える羽目になる。馬鹿馬鹿しいこと。その上生活力もないのだから、そのこともついて回る。馬鹿らしいこと。しかしうんざりする、本当にうんざりすることだ。

 貧乏はまあ、いいかもしれない。でも貧乏くさいのは、やはりみっともない。貧乏だと、貧乏くさくなる。代わる何かがあれば別だが、ないのならば仕方がない。

 数百円とか数千円の出費で思考が止まる。みっともない。でも、それが俺の生活なのだ。お金を惜しむと、欲望が消え失せてくる。自然と選択肢が狭まってくる。

 何かから逃げ出してこのような酷い生活をおくっているのに、それを貧しくしているのが自分自身だと思うとやりきれない。

 年に何度か、お茶、茶道の本を読む。茶道についてもっと深く知りたいなあと思うが、それには結構なお金が必要だ。いや、茶道に限らず、何かを学ぼうとするとそれ相応の出費がある。当然だ。

 最近クラウドファンディングがとても流行っている。いいことだと思う。俺が昔大好きだったゲーム関係の人も、会社ではなく資金を集めてゲームを作っているのをちらほら目にする。

 本当に自分には金を生み出す力がないなあと思うと感じる。俺がクラウドファンディングをしたとして、リターンがあるのか? そもそも客がいない。純文学とかいう死語、そういう読みにくい小説や詩をわざわざ公開してもどうなるというのだろう?
でも、俺が出来るのはそれくらいしかないのだ。

 お金にならない、でも好きな事があるというのは、多分幸福だ。げんなりする幸福。

 先日、知人の誕生日に絵本を買った。絵本を買うなんて何年ぶりだろうか? 美術が好きな人間のいやらしい思考で、絵本を買うなら画集や写真集を買った方がいいじゃん、なんて思いがよぎるのだが、あくまでプレゼントならば、大人向けの絵本というのも素敵なものだと思う。

店頭で目にした『あおのじかん 』という、フランスの画家、イラストレーターが描いた絵本。ページをめくって、久しぶりに絵本で感銘を受けた。世界の様々な動植物、昆虫、風景等が青色で描かれている。エッチングのような技法で描かれたそれらはとても美しく、見ていて飽きないものだった。楽しいなあと思える時間。様々な青色がページを彩っている。表紙よりもずっと、濃密な青の時間。ページをめくる快楽。

 それを誰かにあげて、喜んでもらえたらなと思える機会。それはきっと幸福なことだ。

 同じものを見て美しいとか美味しいとかかわいいとかかっこいいとか楽しいとか感じられるというのは、とても素敵なことだ。俺の場合、それがどうにもうまくいかなくって、おかしな独り言なんて言わないようにしようと閉じこもってしまうことがしばしば。

 しかし、腐るような睡眠よりも、美しいと言える方が、誰かに何かをあげられる機会の方が、素敵なことだろう。問題は、俺は友人とか知人がとても少なく長続きしないし、自由になるお金もないということだ。

 たまに、自分のしたことで相手がよろこんでいるらしい時には、何だか他人事のような気持になるというか、不思議な気持ちになる。嬉しいとか悲しいではなく、不思議。

 なんとでも説明できてしまうだろう。それは簡単に「治る(なおるものだとして)」ものでもないだろう。

 ただ、自分が自分の為に何かできるとしたらやはり、ずっと怠けていた小説を書くことに他ならない。文章を書く。それは俺の意識を整理し、つなぎ留める手段だ。文字が生まれて行く快楽。何かを生み出す、生産的な行為は、きっと誰かが生きるのには必要不可欠なのだろう。たとえそれが俺以外に必要とされなくても。


 

ロマンティックが君の故郷

 愛とか欲望とかを忘れてしまったのか、元から微細だったのか、腑抜けの日々。回らない頭と減る残高。自分の「生活」が続いているのが不思議な心持になる。まるで他人の人生。

 他人の人生、等といつまでも嘯いてはいられない。情けない。しかし頭が回らないのは、何も生み出せないのは、金も生み出せないのは事実だから仕方がない。ゆったりと腐る。鏡なんて俺なんて見たくはない、のだけれど、思ったよりも自分が「終わってない」ことにも気づく。

 底があるとして、それにはまだまだ。沼に浸した足が生ぬるくも心地良い、ような錯覚があって、しかしそればかりが好きではない、ように思う。

 銀座百点、という小冊子がある。その名の通り、銀座をテーマにしたエッセイ集のような物で、裏に200円程度の定価が書いてあるのにも関わらず、銀座の店でただで手に入る。バックナンバーも揃えている店もある位だ。定価って何だ?

 これを母に頼まれて、年に何度か取りに行くことがある。母は若い頃銀座で働いていたので、銀座の街には人一倍の愛着があるらしい。

 ところでこの冊子は50年以上の歴史があるらしく、昔の作家達の書いたものも何冊かアンソロジーになっていて、アマゾンで簡単に手に入る。

 今書いている作家と比べてみると、当たり前なのだが、明らかに時代の文体という物があって、面白い。俺としては昔の古臭い文章の方が断然好みだ(とはいえ、その時代に生まれていたとしても適応できていたかは疑問だが)。

 このエッセイに目を落とすと気がかりなことがあり、それは「銀座」という街に怯えている、媚びている、或いはそれをステイタスとしている文章によくぶち当たる、ということで、銀座をテーマにしているのだからそうなってくるのも当然なのかもしれないが、そういう田舎根性がどうにも気に喰わない。

 等と母にこぼすと、苦笑いの彼女が「貴方は都会っ子だから」と口にする。

 俺は都心に生まれてはいるが、特に裕福な暮らしを送ったわけでもなかった。だから、繁華街を好んではいても、その場所に対する感慨という物にかけていた。

 ただ、上京して若く、苦労して都会にしがみついた両親の、他の人々の苦労を俺は知らない。好きな街、は一応あるけれど、憧憬やら欲望やらが希薄な俺。

 好きな物があればいいのにな、と思う。欲望があればいいのにな。気が多いくせに、飽き性で、生きる力に欠けている。

 神様、がいたとしたら、俺はもっとクソ真面目になるだろう。唾を吐きかけたい跪拝したい悪罵をぶつけたい信仰が欲しい、なんて思うのは俺が幼稚だからだろうか。それができていないのは、俺が救われたくないからかもしれない。

 帰依する者が救いを求めるのが理解できない。かといって労働に社会に適合することも出来ない俺は日々の錯覚を慰めを。酷い有様。ロマンティックな中年なんかになりたくなかった、けれども俺は正にそれ。馬鹿馬鹿しい。これが俺の人生ではなくて、例えばツイッターとかブログの人間、たまに「観察」する人物ならばいいのに。

 楽しくはないけれども、それなりの社会生活を送っているのに、などと悪態をついても仕方がない。俺のロマンティックは故郷にも社会にもないらしい。残念。

 銀座のエルメスで映画を見る。

『天使の入江』 La Baie des Anges

 ジャック・ドゥミ監督、ルグラン音楽、ジャンヌ・モロー主演というなんとも豪華な映画。

手堅い銀行員ジャンは、同僚の誘いで訪れたカジノで大当たり。大金を手にする。瞬く間にギャンブルの虜となったジャンは、ニースの安宿に泊まりながらカジノ通いの日々を過ごし始める。そんなある日、ブロンドの美女・ジャッキーと出会い、二人は行動を共にするようになる。

勘とゲームの刹那の世界にのめり込む男と、彼を魅了する女の駆け引き。ニースの海岸の街を舞台に、ギャンブルに魅せられた男女の、エレガントでデカダントな夏の逃避行を描く愛のドラマ。ルグランの甘美なスコアが作品を彩る。



 という紹介文そのままの、単純でひたすらにロマンティックな映画。下らなくて豪奢な映画。つまり素晴らしい。

 映画を観終わって、銀座の街に投げ出されて賭けに負け続けた俺は迷子。

 適応できず無い上に博才もない上に欲望もないんじゃあ、どうしようもない。天使に、昔は少し夢中になったこともあるけれど、今はそれもぼやけてしまった。

 ただ、単純な刺激、例えばアルコールや錠剤や性交、に似た自慰の惰眠の刺激或いはうすら寒さから覚めると、ふと、未だロマンティックなことがすきなのかもしれないと思い出すことがある。

 自分自身の為の私的なロマンティック。妄言めいた慰め。色々な物に目を背けて没頭したそれしかないとしたら、それが俺の天使だとしたら、悪あがきは続く残念なことに幸福なことに。

つまらない話

 ツタヤの借り放題プランが終わりそうなので、色々映画を見続けていた。普段見ないような映画をとにかく借りて垂れ流していた。だけど、胸を打たれるのは、所謂昔の巨匠とか鬼才とか言われるような監督のばかり。俺の感性がもう、昔のばかりしか受け付けないものだったら仕方ない

 ただ、映画に関しては今生きている監督でもすごいなあと感じる人にちらほら出会える気がする。自分が消化できる本数も感性を共有できるものもたかがしれている。文句や不満は出たとしても、作る人が一番すごいしかっこいいと俺は思う。それは、その人がリスクを背負って、何かしら作り出そうとしているからかもしれない。(単純にすごいと思えたなら、作りて、なんてこだわらなくて何でもいいのだけれど)

 bis のファンではないのだけれど、今更bisの解散コンサートドキュメンタリー映画を見た。

 『bisキャノンボール2014』

 詳しく確認しないで借りたのだが、内容が結構すごかった。解散ライブをするメンバーにそれぞれAV監督が一人つき、ハメ撮りを撮るのが目標、という企画で、メンバーにはそれは内緒にされてあくまで密着ドキュメンタリーという体をとっている。

 実際にはキス、ハグ、番号交換等で監督にポイントが入るというもので、勿論もっとエグイことをすればポイントが入る。そのポイントをとって勝者を決めるのだ。一応ハメ撮りをすれば100点が入り、勝てることになっている。だから監督たちもそういう方面に持って行こうとする。

 初めはビスって過激なこと色々してるし、こういうのもやっていたんだなあという感じで見ていたが、途中からげんなりした気分になってきた。

 まず、俺はフェミニストを公言するような人が苦手だ。女の子を食い物にして! みたいな視点で彼女たちを見ているのでは、ない。

 映画を見進めるとその違和感が大きくなって、メンバーが露骨に彼らの「セクハラ的な」行為に拒否反応を示したりするのもそうだが、何より「解散ライブ」に真剣に向き合い、それを全うしようとしているアイドルがそれを「密着ドキュメンタリーだ」と騙されていたのに怒っているシーンで気づいた。

 AV監督達はなんてカッコ悪いんだろうって。アイドルは自分の最後のライブに向けて真剣に取り組みたいのに、オッサンのセクハラおもちゃになっているという事実がげんなりした。

 なんでこのセクハラにげんなりしたかというと、これが抵抗しにくい相手への集団セクハラだということ。小中学生がグループを組んで、じゃんけんで負けた奴が学校の先生の自慰や下着について質問するようなもんを見せられたのだ。

 でも、こういうのを「悪ふざけ」だとして楽しめてるのがげんなりする。たしかにやってる側は楽しいのかもしれない。でも、アイドルのラストライブにそういう真似をするなら、AV監督側にもリスクをしょってほしかった。じゃないとマジで単に 会社の男達でグループを組んで、

秘密で仲間内で新入社員の女の子にセクハラ発言とかして、そいつとヤレたらみんなから一万貰う!

 みたいなんだもん。それなのに、男達(AV監督)がそれなりに自分たちのしたことで満足したりしてる。マジ気持ち悪いなって思った。もし、監督たちも本気なら、もしくは企画した人が「ガチ」でやるなら、そちら側にも罰ゲームがまってればまだマシだったのになと思った。

 例えば、ポイントが下の人は罰金100万とか。リスクをしょってほしかった。なんでもいいけれど、監督たちの方が圧倒的に立場が強い(女の子たちは嫌でも、今後のこともあるし「軽くあしらわなわなれば」ならない)のに、いじり、いじめ、セクハラオヤジの集団ホモソーシャルオナニーショーに付き合わされるアイドルと観客はげんなりだ。

 もっとも、見る側もそういうオッサンの、自分にはセンチメンタルで他人には共感しない気質があれば楽しめるのかなと思う。

 ちなみにこの作品には前の元となった、素人相手のAVの企画があったそうだが、(そっちをもはや絶対見ないのだけれど)、アイドルの方のこの企画の方がより人目を惹くけれど(おそらく)げんなり度は高かった。

 繰り返すけれど、アイドルの最後のライブだ。それはアイドルを経験した人しか分からない色々な思いがあるのだと思う。それをオッサンのホモソーシャルいじめセンチメンタルショーに使うのは、人目をひくものであっても、やっぱりださいなあと思うのだ。

 だって、圧倒的に傷つくのは、嫌な思いをするのはアイドルで、結果映画でも不完全燃焼な感じでおっさんらのホモソーシャルセンチメンタルオナニーショーが繰り広げられる。

 こういう自分の事、自分たちのことにはセンチメンタルオナニーショーになるのって本当にげんなりする。でも、こういう安全圏からの「いじめ娯楽」って商売になるんだなあと感じた。

 これがいじめにならないには、アイドル側に利益があるか、AV監督か企画者側に(順位が低かったりしたら)罰があるとまだ成立するように思う。

 バラエティ番組ってそれなりに好きなつもりだが、その中のこびへつらい、ごますり、いじめ みたいなのが露骨に感じられるとげんなりする。立場的に弱い者への攻撃を楽む、サラリーマン芸人を楽しむのって嫌だな

 つーか、単純につまらない と思う。

 弱い者いじめよくない! はそうだと思う。

 でも、バラエティ番組の、そういうAVドキュメンタリーの肝であるエンタメ的につまんない。だってスリルがないんだもん。おばあちゃんの財布スるよりも、格闘家に喧嘩うった方がまだ「楽しい」

 作品が良ければ、俺は作者がどうだろうと気にしない方だ(程度にもよるけれど)ただ、作者が一人でそれを完結できないもの、大勢の人間がかかわるものについては、相手への敬意を欠いたものはげんなりするのが多い。

 それは最低限のマナーを守れない、相手の権利を侵害するということも含まれるが、単純に言って自分の痛みや欲望には敏感でも、他人の弱みにつけ込んだり傷つけたりするのは平気というのはカッコ悪いなあと思うのだ。

 でも、そういうことを言ってるのって「中学生」みたいなんだとも思う。

 同じ中学生の感性、稚気でも外に(社会)向かっていく方と、嫌になって内へこもる方に分けられるだろう。俺は勿論後者で、そういう生活ばかりしていると、エネルギー、金も気力もなくなっていって、よくない。だって世界は自分に都合のわるいことだらけだから。

 俺はゾンビのような引きこもり生活を繰り返していて、たまにそれではダメだと思って色々な意欲が湧いてきて、なんとかそういう力で生きている。

 こういうのを目にするとすごくげんなりするのだが、このだらだらした書き捨ての雑文であっても、これは気持ち悪い、と口にするのは自分の健康には良い。これを楽しむ、楽しいと思う人がいるのだって自由だ。でも俺はこれが げんなりするのだと言いたい。

 内にこもると、自分の発言を(特にこういうどうでもよい感想)するのが意味のないことだと思うようになって、何も話さなくなる。

 でも、話した方がマシだ。それがほんと下らない、他人の物をこきおろすようなゲスなものであっても。

 次に書くのは、もっと人を褒めるようなのにしよう。そうしよう。