ロマンティックが君の故郷

 愛とか欲望とかを忘れてしまったのか、元から微細だったのか、腑抜けの日々。回らない頭と減る残高。自分の「生活」が続いているのが不思議な心持になる。まるで他人の人生。

 他人の人生、等といつまでも嘯いてはいられない。情けない。しかし頭が回らないのは、何も生み出せないのは、金も生み出せないのは事実だから仕方がない。ゆったりと腐る。鏡なんて俺なんて見たくはない、のだけれど、思ったよりも自分が「終わってない」ことにも気づく。

 底があるとして、それにはまだまだ。沼に浸した足が生ぬるくも心地良い、ような錯覚があって、しかしそればかりが好きではない、ように思う。

 銀座百点、という小冊子がある。その名の通り、銀座をテーマにしたエッセイ集のような物で、裏に200円程度の定価が書いてあるのにも関わらず、銀座の店でただで手に入る。バックナンバーも揃えている店もある位だ。定価って何だ?

 これを母に頼まれて、年に何度か取りに行くことがある。母は若い頃銀座で働いていたので、銀座の街には人一倍の愛着があるらしい。

 ところでこの冊子は50年以上の歴史があるらしく、昔の作家達の書いたものも何冊かアンソロジーになっていて、アマゾンで簡単に手に入る。

 今書いている作家と比べてみると、当たり前なのだが、明らかに時代の文体という物があって、面白い。俺としては昔の古臭い文章の方が断然好みだ(とはいえ、その時代に生まれていたとしても適応できていたかは疑問だが)。

 このエッセイに目を落とすと気がかりなことがあり、それは「銀座」という街に怯えている、媚びている、或いはそれをステイタスとしている文章によくぶち当たる、ということで、銀座をテーマにしているのだからそうなってくるのも当然なのかもしれないが、そういう田舎根性がどうにも気に喰わない。

 等と母にこぼすと、苦笑いの彼女が「貴方は都会っ子だから」と口にする。

 俺は都心に生まれてはいるが、特に裕福な暮らしを送ったわけでもなかった。だから、繁華街を好んではいても、その場所に対する感慨という物にかけていた。

 ただ、上京して若く、苦労して都会にしがみついた両親の、他の人々の苦労を俺は知らない。好きな街、は一応あるけれど、憧憬やら欲望やらが希薄な俺。

 好きな物があればいいのにな、と思う。欲望があればいいのにな。気が多いくせに、飽き性で、生きる力に欠けている。

 神様、がいたとしたら、俺はもっとクソ真面目になるだろう。唾を吐きかけたい跪拝したい悪罵をぶつけたい信仰が欲しい、なんて思うのは俺が幼稚だからだろうか。それができていないのは、俺が救われたくないからかもしれない。

 帰依する者が救いを求めるのが理解できない。かといって労働に社会に適合することも出来ない俺は日々の錯覚を慰めを。酷い有様。ロマンティックな中年なんかになりたくなかった、けれども俺は正にそれ。馬鹿馬鹿しい。これが俺の人生ではなくて、例えばツイッターとかブログの人間、たまに「観察」する人物ならばいいのに。

 楽しくはないけれども、それなりの社会生活を送っているのに、などと悪態をついても仕方がない。俺のロマンティックは故郷にも社会にもないらしい。残念。

 銀座のエルメスで映画を見る。

『天使の入江』 La Baie des Anges

 ジャック・ドゥミ監督、ルグラン音楽、ジャンヌ・モロー主演というなんとも豪華な映画。

手堅い銀行員ジャンは、同僚の誘いで訪れたカジノで大当たり。大金を手にする。瞬く間にギャンブルの虜となったジャンは、ニースの安宿に泊まりながらカジノ通いの日々を過ごし始める。そんなある日、ブロンドの美女・ジャッキーと出会い、二人は行動を共にするようになる。

勘とゲームの刹那の世界にのめり込む男と、彼を魅了する女の駆け引き。ニースの海岸の街を舞台に、ギャンブルに魅せられた男女の、エレガントでデカダントな夏の逃避行を描く愛のドラマ。ルグランの甘美なスコアが作品を彩る。



 という紹介文そのままの、単純でひたすらにロマンティックな映画。下らなくて豪奢な映画。つまり素晴らしい。

 映画を観終わって、銀座の街に投げ出されて賭けに負け続けた俺は迷子。

 適応できず無い上に博才もない上に欲望もないんじゃあ、どうしようもない。天使に、昔は少し夢中になったこともあるけれど、今はそれもぼやけてしまった。

 ただ、単純な刺激、例えばアルコールや錠剤や性交、に似た自慰の惰眠の刺激或いはうすら寒さから覚めると、ふと、未だロマンティックなことがすきなのかもしれないと思い出すことがある。

 自分自身の為の私的なロマンティック。妄言めいた慰め。色々な物に目を背けて没頭したそれしかないとしたら、それが俺の天使だとしたら、悪あがきは続く残念なことに幸福なことに。