君は永遠から抜け出し宝石鳥は嗚咽
両指が荒れ、両足の裏はまめが潰れて、口内炎で口からは血が出る。身体はだるい。こんな時でも色んなトラブルやら理不尽なことに苛まれる。愚かなことに何度も何度も同じ憎しみに囚われる。脳が側溝の中だ。
変にハイになっているのか、それでも何とかやってやんなきゃな、なんて思えるのは、今俺が細々とではあるが、小説を書き続けられているからかもしれない。書くこと、つまり自分の感情に向き合うこと。埋葬すること。献花すること。まるで良い生活。
秩序を与える。詩を与える。言葉たちに。
機械とポエム、ということについてよく考える。俺は自分の存在が思考の為の機械、或いは誰か(でもそれは神ではない)から与えられた肉体のような心持になることがある。この肉体をどうにかこき使って、為すべきことをやっつけるのだ。
ただ、あまりにも自分の身体を粗雑に扱っているのんではないかと思うことがある。メンテナンスもチューンナップも適当に。膨らみ続ける汚辱と妄執への返済のことで頭がいっぱい。
自分がアンドロイドだって、日本製の機械だって、夢見るシャンソン人形、ではないけれど夢見る工業製品だって思うのは中々ロマンチックなことだ。でも、その工業製品の身体を、代わりがない、かのような身体を愛するとなると途方に暮れてしまう。自分を憎んでなんかいない。でも、自分の身体を工業製品を愛するなんてシラフではできないと思うんだけれども。
久しぶりに見返す、ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄 』
この映画はある人には退屈かもしれないが、ドキュメンタリータッチで見やすくて好きだ。ゴダールの映画の中でもぼんやりと見られる箸休めには良い映画だと思う(は?)
動く絵付きの独白、或いは短編小説。
「LSDがないなら(買えないなら)カラーテレビをどうぞ」
というセリフが気に入っている。何年か前に見た時もこのセリフが好きだなあと思っていた。ゴダールの映画の中には詩があり映像も美しい。他に何を求めればいいんだろう? ゴダールの映画に長い言葉を解説を注釈を入れるのは野暮であるような気がしてしまう、けれどもその一部は機械の書いたラブレターのような知性のひらめき(天才のひらめき/Stroke of Genius)、と同時に後ろ暗さのような物も感じる、というのは俺が体系に依拠していながらも(でも、言葉が好きな貴方もそうだきっと)それに必死で反抗しているから。
批評なんて評論なんて体系なんて哲学なんて思想なんて、ポエジーのアガペーの供儀のためではなく、よりよい生活の為に名前をつけるなんて言葉の織を世界を作るなんて、下品なものじゃあないか、等と的外れな思いが噴き上がり、しかし俺はそういう生活の為の言葉にぐらつく自分をゆだねても、いる。命綱のような言葉。麻縄のような言葉。外郭。夢見る脳を包む柔い、それは言葉。
逃れられない言葉にも身体にも歴史にも。でも俺はそういうのを憎んでいるわけではないはずなのにとにかく反抗心がむらむらと沸き上がることがあり、まるで動作不良の機械。恒常性を憎む。愚かなこと。
機械音、テクノミュージックというのは好きだ。素晴らしい、陰鬱な或いは軽薄なブルース。テクノは悲しい。或いはけしかけるんだ、やっちまえって気持ちよくなれって軽薄な声で扇動するんだ。
耳を刺すようなゲームミュージックがとても好きなのだが、ファミコン、チップチューンのそれとは少し違う、テクノ寄りのゲームミュージックだって素晴らしい。と思って頭に浮かんだのが、どちらもシミュレーションゲームのサントラだった。ばからしいさわがしいすばらしいピコピコ音は、大抵アクションとかパズルとかに偏っているように思う(というか、単に初期に出たソフトは大体アクションとかが多いからか)。
A.D. 1995 Story Majin Tensei II Spiral Nemesis
魔神転生2のサントラ、ほんと好き。ゲームもとても好きだけど、クソ面倒な、時間がかかる内容なのでもうプレイはしないだろうけれど。この昔のテクノのひんやりした感じがたまらない。心がざわつくアンビエント。SFチックな近未来ストーリーとレトロフューチャー感のあるシンセとの相性が良すぎる。
FRONT MISSION ALTERNATIVE Soundtrack - 05 - Rock
やりたくないゲーム。なのにこのゲームのサントラはマジですばらしい(あれ、前にもこんなことを言った気が……)。というかこの人はテクノの人なのでゲームミュージックとしてここで引き合いに出すのはどうかとも思うが、まあサントラだしいいか。メロディアスなミニマルテクノと機械の行進は相性最高!
自分がゲーム好きだからか、ゲームのサントラには点が甘くなることがしばしば。でも、この二つのゲームのサントラはとても良い。まるで、自分が機械であるような気になる。機械であっても幸せであるかのような。
そしてできたなら、その、自分の一番近しい、その、今君に内蔵されているオペレーティングシステム、それで操る機械の身体をいたわってあげよう。代わりがあるけれど多分。代わりがあっても、優しくしてあげよう。代わりはあるけれど。
見る前からどうせ名作だからいつか見るだろう、と手をつけずにいた作品が山のようにあって、たまにかんねんして、というか気の迷いで手を伸ばす。
太平洋戦争のさなか、ベトナムの占領地ではぶりをきかせていた男(森雅之)が事務員のゆき子(高峰秀子)と結ばれる。しかし戦後帰国した彼には妻があり、やがて女は外国人の愛人にまで堕ちていくが、それでもふたりは別れられないままズルズルと関係を続けていく……。
要するにダメ男に惚れ続けるダメな女、というただそれだけの話しなのだが、もう、本当に高峰秀子の演技がうまい(森雅之もすごいと見終わった後でしみじみ気づくけれど)。この映画はほとんどが二人の会話シーンなのだが、二人の会話劇を存分に楽しむことができて、高峰秀子の演技が一々胸にくる。
彼女がその場面ごとに出す、すれていたり拗ねていたり甘えていたり強がっていたり弱気になっていたり愛らしかったり怯えていたり、精一杯生きている愚かな女性の生きざまの輝きが、まぶしくて素晴らしくて、辛い。
いいなあ人が辛いのは楽しそうなのは。生き生きしている。その為には、健康的であろうとする意志が必要だ(健康かどうかは問わない)。
生きて、生活をして、様々なことを諦め手放し、見ないふりをする。機械の身体で様々な命令を下す。為すべきことは、十全にはならない。俺は自分の身近な機会を酷使することばかり考えてしまっている。でも、それだけではどうしても辛い時がある。薬品、サプリメントではなく、物語を慈しみを、注射するとしたら何ができるだろう?
ああ、今度は『浮草』が見たくなったなあ。小津の映画はしばしば辛い。でも一人で見るしかない。誰かと小津のすばらしさについて語る、というのは何だかぞっとしないだろうか? つまり彼はとても優れた映画を撮っているということだ。
機械からオイルが漏れるように、俺の口からも出血。ぞっとする、げんなりする。ただ、阿呆のように浮雲浮草、などと幼稚な連想をしたり懐かしいテクノに甘えたりして、なんとかメンテナンスをするんだきっとね。
恋したあなたは人でなし
冬の寒さに辟易しながら外出する際、大学時代に貰ったGDCのブルゾンを着る。捨てたかと思っていた。捨てたほうがいいほどボロボロで薄汚い。でも、とても暖かい。俺の体格にもあっているけれど、さすがに年代物過ぎて痛み過ぎてやばい。グランジとかロックではなくただ小汚いだけ。捨てようと思いながら捨てられない。今日来て帰ってきてすぐに捨てようと思った。でもできないでこんな文章を書いてるしまつ。
六本木の交差点でタクシーを止めているマダムが洒落ていた。総白髪でセットされた頭はすっきりしていて、肩には丈の短いファーをかけていて、手にはヴィトンのモノグラム。
これを読んでいる君はヴィトンを持っている奴なんて全員ロボトミー手術を受けた賤民だよって言うけれど、俺は清潔感のある、生活に余裕がある感じの年配の人にはヴィトンが似合うと思ってるんだほんとに。かわいいと思うんだヴィトン。
きれいに年を重ねるにはきっとお金が必要だ。でも、精神や暮らしがしっかりしている人はそれだけでも十分すぎる。テレビで農家とかで働く人や職人を見ると、いい顔の人が多い、ような気がする。というか、日々の生活を積み重ねている人はいい顔をしているように思える。でも、そんなことできる見込みがないのだけれども俺。
サルトルの『水いらず』を再読していて、『一指導者の幼年時代』を読んでいる時にipodからブランキーのライラックが流れてきて、なんだかとても合っていた。ワルガキをかくのがとても上手なサルトル。ワルガキってなんだろう。愚かで傲慢で輝かしくなにより、生き生きとしているってことかもしれない。
青少年の発育に悪影響を与えそうなバンドがたまに(よく?)、歌うかわいらしい曲が好きだ。痛ましいような気分がいいようなにやにやしてしまうような。ところで青少年、ってなんのこと?
ライラックってどんな花 って聞く度に頭に浮かぶおぼろげな花の姿。どうでもいい疑問どうでもいい景色。ふとした瞬間の、青年の生活の一部を思う。
青少年の発育に悪影響を与えそうなバンドがたまに(よく?)、歌うかわいらしい曲が好きだ。痛ましいような気分がいいようなにやにやしてしまうような。ところで青少年、ってなんのこと?
巴里の女性マリー The ピーズ with クハラカズユキ
荒れた声のボーカルと甘い歌詞の相性がとても良すぎて困る。ピロウズ詳しくないんだけど、ダメダメなピーズが(勿論褒めている)カヴァーしてこんな切なくなるなんて、こんないい曲カヴァーするなんてずるいな。
あの娘を愛するためだけに僕は生まれてきたの
あの娘を幸せにするためだけに僕は生まれてきたの
なんて歌えるとか、聞いてると辛いなあ素晴らしいなあ。
コオリオニという、俺が大好きな漫画を描いた梶本レイカという漫画家がいる。彼女がツイッターを始めて、とても素敵なことをつぶやいていた。
引用すると、
「コオリオニ」とても好意的に受け入れて戴いているのですが
テーマは「世間のはみ出し者には死あるのみ」なんですよ
ラストのページはインドネシアではなく商店街のコラージュです
私は90年代のロードムービーが好きで
そのラストでは「はみ出し者の理想の死」が多く描かれていました
ところが2000年代から「ありのまま・共存しよう」といった
前向きなメッセージが映画に盛り込まれるようになり
とうとうはみ出し者からは「空想の中の理想の死」まで奪われるようになりました
評論家から軽んじられる事が多いのですが私にとっては名作です
「テルマ&ルイーズ」「パーフェクト ワールド」
それからホラー映画が私は大好きです
何故なら真の「平等」がホラー映画では自然に描かれているからです
「理不尽なハプニング」という点で
90年代「変わり者は息を殺して空気を読め」と強いられた時代を経て
未来が無い今更「ありのまま」と差し出されてもどうないせいちゅうのだ
という、そんな「創作物から理想のカッコイイ死まで奪われた」我々への
ロマンスポルノ、それが「コオリオニ」です。
破滅への理想を描くと「幼稚」とジャッジされる、成熟を要求される時代になりましたね。
「苦しい」「辛い」そんな事を顔に出すことも許されません
せめて空想、物語の中ではそんな鎖は断ち切って
「あーーあーーー辛いーーー死にたい死にたいーーカッコよくーー!」を
盛大に描きたかった
それが「コオリオニ」なんですよ(笑)
ほんと、先生のこのつぶやきが好き。愚かでもそうでなくても反社会的でもそうでなくても法に抵触していてもそうでなくても、どうでもいいじゃない。好きなんだ、その人の自由が美意識が生きてきたロマンが。
ジャン・ジュネが語った、アルベルト・ジャコメッティについてのエッセイのなかの一節。
美には傷以外の起源はない。単独で、各人各様の、かくされた、あるいは眼に見える傷、どんな人間もそれを自分の裡に宿し、守っている。そして、世界を去って、一時的な、だが深い孤独に閉じこもりたいときには、ここに身を退くのである。だから、この芸術と、ひとびとが悲惨主義と名付けるものとは、はるかに隔たっている。
美には傷以外の起源はない、なんて気障ったらしい言葉、だけれどもジュネが言うとそこにおそろしさがある、鮮血の輝きがある。彼もまた、傷を恐れずに、いや、求めて制作をしていた一人だから。
愛した人の、傷口の殉教者。人生よりも信仰を愛する人間の愚かで輝かしい人皮の聖書。彼が愛したもの、について語る、ということ。愛したことばかり語る彼の稚気と傲岸。まるで王様みたいな奴隷じゃあないか。
自分がもっと愚かで傲慢でクズであっていいということ。自分の中の醜い感情を幼い夢を肯定すること。憎しみも虚しさもかっこつけも寄る辺なさも俺の大切な物の一つなんだって。大切にしなきゃ、って。
コオリオニ について読んで欲しいのであまり書かないが(前に感想書いたし)、ほんと好きな漫画。ドラマチックな仕掛け、構成も勿論素晴らしいが、 はみ出し者の理想の死 に対する作者の愛ある眼差しがとても胸に来る。この作品の登場人物は不幸な生い立ちであったりの中に巻き込まれているが、それでも彼らは自分たちで自分の人生を選択した。彼らの人生は彼らの物だ。非人道的な数々の振る舞いのツケは彼ら自身が払うことになる、でも、もがいた。諦めた。そして彼らが愚かで一生懸命生きていることが、すごい勇気を力をくれるのだ。
他人の傷口なんていらない。俺の傷口なんて殺菌されるべき、みっともないものだ。でも、それをロマンの糖衣でくるんででっちあげることができたなら、騙すことができたなら、或いは自分の感情をきちんと、埋葬することができたなら。
自分の中の美意識をヒーローを愛することは、とても大切なことだ。愛情表現にはいろんな形がある。それが愚かでもおぞましくても、それが誰かの愛から憎しみから生まれていたならば、俺は敬意を払うべきだと思う。それは、自分自身のそれについてだってそうだ。
自分の中にある、アウトサイダーに餌を愛撫をとどめの一撃を。そして、愛さねばならないのだと思う。愛だって忘れてしまう。どうでもよくなってしまう、でも、愛していられるなら気持ちがいい。欺瞞で傲慢で意匠で飾られた、張りぼてのアウトロー。幻灯装置の見る夢。でもそれが好きなら仕方がないんだ。仕方がないから、愛するしかないきっとその時は。
たださ、俺は何もわかってないんだ
元旦の渋谷は半分位店が閉まっていて、程よく人が歩いている。思ったほど肌寒くなくなく、着こんで歩いていたら少し汗ばむ位だった。
人けのない繁華街というのは、何かが終わってしまったような、何かが始まるような気配があって好きだ。
久しぶりにドアーズを聞く。
https://www.youtube.com/watch?v=-r679Hhs9Zs
The doors - Break On Through ( To The Other Side )
何だかむやみやたらに元気が出るというか、いい曲だなあと思う。
正直2018年は丸ごと忘れたい位トラブルが多かったし、それをちゃんと解決できているわけでもない。大抵調子が悪いし、まともな日でも数時間ごとに気分の波が出てきてこりゃあそろそろ駄目なのかなあ、と思いながらもしぶとく生きのびてきた。
そんな時こそきっと、馬鹿なこと、無駄遣い、そしてロックが空元気をくれるのだろう。
少しだけ、無駄遣い。やばいね、無駄遣いをするとどんどん金を使いたくなって困る。買い物は無駄遣いは楽しいなあ。倉庫かゴミの山のような狭い自宅にまた物が増える。
Ella Fitzgerald - Drop Me Off In Harlem (High Quality - Remastered)
https://www.youtube.com/watch?v=xUmodPqMERk
エラのこの曲はとても好きで、一人渋谷を歩くときに耳に入ると、まるで外国にいるかのような。汚い街で小汚いなりの俺も、生きていける、かのような。
買っておいた鶴と亀の干菓子を食べる。和三盆糖の干菓子は、すっとした甘さが舌の上で消える。イライラすると、つまりしょっちゅう俺はむやみやたらに甘物を貪ってしまうのだが、和三盆の干菓子は見た目がとても美しいし、量を食べようとする気にはならないから優れている。おれにまともな収入があったら毎日でも食べたいくらい。
たまっていた映画の消化。
ウォンカーウァイの『恋する惑星』を再見、しようとしたらなぜか字幕が入っていないのを借りてしまった! 字幕が入っていない、のではなく、多分俺のdvd読み込むぜマッシーンがバカで字幕選択が表示されないのだと思う。 少し見て、ああ、好きだなあと思うが、次第に字幕ありのをちゃんと見たくなってしまった。
また今度見ることにして、映画を中断。
【ストーリー】
日本橋元大工町のあたりで九人の芸妓をかかえる稲葉家の女あるじお孝は、意地ときっぷが身上の芸者。
令夫人と呼び名のある美人芸者、滝の家清葉をつね日頃から目の仇にしている。
そこへ行方のわからぬ姉を慕う一人の医学士があらわれ、花柳界を舞台にふたりの美女の対立はますます華麗に激しく、そして哀しく展開していく。
ってな感じなのに、何だかすごく肩透かしな感じだった。素晴らしいキャスト。勿論演技だってそうだ。そして市川崑だってとても才能のある人で、カメラワークとか画面とかが悪いわけではないのに。
もしかしたら物語に山場がないというか、芸者物ってすごく感情的か突き放してとらないとなんだかどっちつかずになってしまうのではないだろうかとぼんやりと考えた。美しくて、だらだらした映画好きなんだけどね、なんかこの映画はノレなかった。
アキ・カウリスマキ『街のあかり』
ヘルシンキの警備会社に勤めるコイスティネンは、同僚や上司に好かれず、黙々と仕事をこなす日々。彼には家族も友人もいなかった。そんな彼に美しい女性が声をかけてきた。ふたりはデートをし、コイスティネンは恋に落ちた。人生に光が射したと思った彼は、起業のため銀行の融資を受けようとするが、まったく相手にされなかった。それでも恋している彼は幸せだった。しかし、実は恋人は彼を騙していた。彼女は宝石泥棒の一味だったのだ…。
見続けて行くと、同監督のとても出来がいい、ゆえに身を切られるような痛みも残る『マッチ売りの少女』を想起してしまうのだが、それとはまた違った。
状況でいったら、この主人公の男もずいぶんみじめで不運続きで辛いのだが、彼には閉塞感がない、いや、それを打ち破ろうとする意志や周囲の人による小さな善意があるから。
カウリスマキの映画の登場人物はそっけなく、むき出して、人情味がある、ような気がする。というか、監督の目を通した人間像がそういう感じなのかもしれない。そこそこ悪い人でありそこそこいい人。それをうまく描いている。だからどうでもいい日常やら劇的なあれやこれやといったのが腑に落ちて、身に染みるのかも。
あ、音楽が注目される人だけど、俺は色彩感覚が優れていると見るたびに思う。画面作りもそうだけど配色のセンスいいよね。
休みのうちに本を読み散らす。今は小説を書かねば、と思いながらもやはりどうでもいい読書をしないと調子がでないというか、怠け者の俺の脳が働かない。
再読する、ジャコメッティの『私の現実』何度も引用してしまう、目を止めてしまう言葉。
「例えば一つの顔を私に見えるとおりに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが私には到底不可能だということを私は知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです」
そして、矢内原伊作のエッセイの中の彼の発言。
「描くことはやはり純粋な私のエゴイスム以外のものではない。私は自分の仕事を正当化するいかなる根拠をも持っていない。私が芸術の道にはいったのはエゴイズムの満足の為か、地道な職業に対する怠惰のためか、どちらかだ。どちらにしてもいいことではない、むしろ悪だ」
エゴイズムの充足というのは、とても重要な問題だ。貴方に俺に誰かに、美しいという物があるとしたならば。
エゴが、どうでもなくなるのが怖いようなどうでもいいような気になる。自分の社会性や社交性の無さやそれを持続させる力や根性の無さに、色々とどうでもよくなってしまう。
だけど、自分を、或いは自分の為すべきことを欲せなければなと何度も思う。好きなことがあるのに、それを手放し続けるのはとても愚かなことではあるが、綱渡り芸人もそろそろ終わりではないか、もういい加減終わりにしたい、という思いが幾度となく頭をよぎりながら、会うことのないもう会えない誰かの言葉に作品に、空元気をもらってきた。
誰かに敬意を払うと、好きだと口にするとたまゆら、満たされたような錯覚がして、アル中薬中のようにふらふらとした頭でそれを繋ぎ合わせて綱をつくる。そのうえで一人ふらふらと歩く。
解決などはしない。展望などはない。でも、錯覚してしまえるのならば。
Ella Fitzgerald / I Got It Bad (and That Ain't Good)
https://www.youtube.com/watch?v=MSSIZzjphUU
とても好きな曲。というか、エラが歌うこの曲がとてもすきなのかもしれない。
落ちている時はセンチメンタルな曲を聞かないようにしていたのだが、たまには、割といいのかもしれない。滑稽なほどに痛ましくも美しい、と思ってしまう時もある好きな人ならば曲ならば。
十代の頃、嫌なことがあったらいつもニルヴァーナとベルベットを聞いていた。
The Velvet Underground-Heroin
https://www.youtube.com/watch?v=qFLw26BjDZs
素晴らしいヒーリングミュージックであり、こんなんばかりに頼っていたツケで今は聞きたくない曲でも、聞いたらその魅惑に眉間の辺りがむずがゆく頬が緩み目を閉じる。
Heroin, be the death of me
Heroin, it's my wife and it's my life
ここの盛り上がる展開がほんと好き。くらくらする。
And I guess that I just don't know たださ、俺は何もわかってないんだ
俺は何もわかってない、って言って、それでも空元気でもおくすりでも恋でも欲情でも憎しみでも、何でもいいからインスタントな笑みを浮かべていられたら。
なんてこと高校の頃から考えていて、年齢が倍近くなっても似たような意識のままというのは恐ろしく、幼いまま老いて諦めていくのかなあとも思いながらも、その間抜けなやるせなさやどうでもよさも、まあ、多少笑えるわけで、こんな無駄話で小説書かなきゃなあ、なんて気にもなってくる。
けだものが思い出せない
冬の満員電車に駆け込むと、誰かの、知らない人々の熱気と体臭に包まれる。内心、少しだけ顔をしかめてしまうのだが、同時にこれは何の匂いだろうと不思議に思う。誰かの匂い。見知ったような、しかしそれは交わることのない顔のない他人の匂い。そして俺も誰かにとってのそれなのだ。
知り合いになった人との話が弾み、色々と話をしていると、彼女が十年以上フランスと日本をいったりきたりしていることを知った。彼女は「フランス人に日本の文化とか伝統、古典について聞かれるんです。でも、私そんなに日本のそういうのに詳しくなくて、映画もキタノ位しか知らないし。言われて勉強しました」とほほ笑んだ。
あーこれって結構聞くなあ、と思い俺の口から出たのが、
「俺の知り合いのフランス人がフランス語の先生をしていて、教材の一つとして、日本に来てからセルジュ・ゲンズブールのCDをまとめて買ったって言ってた」と返し、知り合い、ではなく単に一回やっただけの相手の記憶を引っ張り出しただけだったのだが、今更そのことを告げる理由などないし、元々「友人」と呼べるような人が少ないというか、そのことを正確に表現する意味が薄いので、この場は友人ということでもいいや、ということで想起する朧な顔と情事、の中で
「そのフランス人が言ってたんですけど、フランソワーズ・アルディのジントニックのCDジャケットあるじゃないですか。モノクロの画面で、アルディが冷蔵庫に座ってるクールなやつ。あれすごいオシャレだと思ってたら、アルディ本人はかなり嫌がってたらしいんですよね。なんで冷蔵庫なんかに座らなきゃいけないのかって」
そう告げると、彼女は困ったように微笑み、口をつぐむ。フランスに十年以上言っているけど、フランスの文化には特に興味がないらしい。素敵だ。
そういえばたまたま(別の)フランス人と話す機会があった時に、映画はゴダールとトリュフォーとユスターシュ。彫刻はジャコメッティ。文学はサルトルとカミュとユルスナールとジュネが好きで、みたいなのを小出しに喋ったら「君はフランス人よりもフランスの文化が好きだね」と言われて気恥ずかしい思いをしたことを想起する。
そうかもしれない。でも。俺はフランス語ができないし、フランスに行ったこともない。でも、フランス文学は陰気で陽気で助平で暴力的でそっけなくて、日本のそれにどこか似ている、と思っているのだけれど、これは勝手な俺の思い込みでしかないのだ。
フランソワーズ・アルディ さよならを教えて Françoise Hardy Comment te dire adieu
youtubeにジントニックが上がってなかった。なんでだ! これも有名ないい曲。
外国人が好きな日本の監督という話で、溝口健二、黒澤明、小津安二郎……と言ったら、彼女は「あーおづー(見てないそうです)」とすごく納得された。俺の狭い交友録でも経験があるのだが、やはり今でも日本と言えば小津、なのでしょうか(一部では)。
その時小津のことが好きな外国の映画監督として侯 孝賢(ホウ・シャオシェン)のことが頭に浮かんだのだが、俺は彼の映画で好きなのは『憂鬱な楽園』いい年してダメな男がグダグダする映画、位だなあと思いつつ、そういえばと思い出したのが
婁 燁(ロウ・イエ)監督、『スプリング・フィバー』
丁度以前の日記に雑な感想があったので引くと、
現代の南京。夫ワン・ピンの浮気を疑う女性教師リン・シュエは、その調査を探偵に依頼し、夫の行動を調査させる。やがて浮気の相手がジャン・チェンという“青年”であることを突き止める。
夫婦関係は破綻し、ワンはジャンからも距離を置かれ始める。その一方、探偵とジャンは惹かれ合い始め…。
とかいう説明があまり意味を成さないのがいい感じだ。説明文で十分なら、映画なんて快感だけでいいことになってしまうだろう。
映画は冒頭から男同士の濃厚なセックスシーンがあり、しかしこれには必然性が感じられてよかった。はっきりいって局部を無理やり映さないように、しかもポルノムーヴィーではないのだがら、物語の都合上数十秒から数分しか性交を描かないのだから、要するに書割のような性交シーンなんて見せられてもつまらない。性交が退屈だと貪ってしまうと、(おそらく)知っているからこその距離感と生々しさは意味があるように思えた。
また、そういう濃厚なシーンの後の、既婚者の男性が妻に主人公の男を(友人として)紹介したいという無神経極まりない言葉、そしてそれを知った妻が激高して「男同士なんて気持ちが悪い!」「幸せになれるわけがない!」とヒステリックに攻撃したり幼稚な嫌がらせをしたりするシーンが痛ましくて、感情が爆発したまま、行き場がなく、いいと思った。
全体的にくぐもった、かなり見づらいシーンもちらほらあり、前の作品で国から撮影を禁止されていたから、家庭用カメラでゲリラ撮影された、そうなのだが、それにしてもちょっと単純に見にくい、というのはどうかなあ、とも思ったが。
近代化が進む中国で、未だに「脚本審査」があり、その作品のなかで監督は主人公のバイセクシャルの男性と付き合う女性にブランド物のコピー工場で働かせたり、そこでの女性にも面倒で凡庸な問題がふりかかってきたり、そういうのを安易な解決を見せずに描くというのは胸に残った。
ラスト、主人公の男性が花の刺青を入れて、ふらふら歩くシーンが好きだ。
とかなんとかを、あまり親しくない人に言うべきではないこと位、俺にだって分かるけど、でもそうしたら俺は下品な話を誰とすればいいのだろう? (あ、そのためのブログ、独り言か)。
その人はまた少ししたらフランスに行くのだと言った。仕事でもあり、趣味でもある、ある用事で。海外に行ったことがない、というか行く気がない怠惰な俺はすごいなあと素直にそう思った。
外国に行ったことがないくせに、俺は旅行エッセイやら冒険記、というものが結構好きで、本を読みたくない時の読書候補として色々と借りて読み散らしているのだが、ある冒険家の短いエッセイのことを思い出す。
彼は極地、北極や南極に何度か行って、空港で迎えに来た家人に「臭い」と言われる経験をしていたらしい。当たり前だが極地では何十日も風呂に入らない生活をしているが、帰国前ではホテルに泊まり、シャワーもする。
しかし、食べ物のせいか(極地で生活するには普通の人の何倍ものカロリーが必要で、それ用の食べ物がある)風呂なしで運動を続けるせいか、帰国しても愛娘や奥さんに「なんかの臭いががする」と言われてしまうそうだ。
その彼がそれにショックを受けているかと言うと、実は逆で、その獣のような体臭は、誰も彼も無しえない冒険を世界を踏破してきたとか、秘境やら極地で生活してきた証なのだと密かに誇らしく思っていたらしい。
だが、奥さんが或る日、彼にまだ臭いがすると言った。冒険家はまだ俺から「冒険の臭い」が消えないのかーへへへーまいったなーと思っていたら
「それじゃなくて、今してるのは加齢臭」と言われて、冒険家は絶句してしまいエッセイは終わる(手元に本がないので大体の記憶だけど)。
その人の臭いって、どういうものだろう。新宿をよく歩くので、そこかしこでホームレスの臭いがして、それとはまた違うのだろうか(その冒険者が聞いたら激怒しそうだが)。アンモニア臭と言うよりも、獣臭に近いのだろうか。
俺が中学生の頃、液漏れしている電池をなめた。味が知りたかったのだ。(水銀使用ゼロと記載されている乾電池でした。それを知ったのはなめた後だけれど)臆病で心配性なくせにこんな真似をするのは、好奇心旺盛というよりかは、ガサツでバカなんだと思う。
なにかの臭いをかぐ癖、というのも止められない。一度糞マズイすし屋でネタの臭いをかいで大将に嫌味を言われたこともあったなあ(最低ですねもうしないですというか回らない寿司を食べに行ってないです行きたいですでもイキった友人が寿司屋で寿司を食べずに日本酒だけ飲むのがいいよねと言った時は腹が立ちました)。
要するに、ガキなのだ。何でもにおいをかいでしまう。動物園でも動物のにおいがとても気になる。猫よりも、犬の方が臭いが強いような気がする。でも、犬は触れるから好きだ。猫は自分の飼い猫以外は難しい。好きとか嫌いとかではなく、気になるのだ、よく分からないにおいのことが。
その、一回しただけのフランス人も、肌が近づくと「外国人のにおい」がしたことはなんとなく覚えている。でも、そのにおいについて俺はあまりおぼえていないし、表現できない。その人のにおい。それが好きでも嫌いでも、安易に表現をするのはなんだかはばかられて、なんとも曖昧なものなのだが、もしかぐことがあったならきっと、それを一瞬で思い出すのだろう。
むやみやたらに情緒不安定な俺、様々なことを忘れたいと思いながらも記憶は連鎖していて、昔の記憶を昔にできない愚かなことがしばしば。でも、におい位ならいい。誰かのことを思い出して、固定できない。一瞬の記憶。たまゆらの他者は、それなりにご都合主義で、俺にも優しいきっと。
シラフなんかじゃいられない
Message body
俺は年がら年中何かを書かなければ 考えなければと考えていて、 しかし思考の断片、塵芥にとりあえずの秩序を与えるのは、それなりに難儀なことがらだ
こんな勢いに任せて書き散らす雑文ですら多少は気力を使うのだから、小説を書くというのは心身の安定がないと、どうにも尻込みしてしまう
というか、心身の安定というのこそあまりにも困難なことに思えるのだが……
最近、あとどのくらい、自分は書いたり考えたり作ったりできるのかなと良く考える
生きるということは、大抵、大なり小なりの組織に帰属するということでもあるだろう
俺は生き延びてきてはいるが、いつ何が起きるか分からないし、一度駄目になって、偶然や幸運や善意が重なり、なんとか生活を再開したという経験があり
これからの俺の生は余生のようなものだから、もうけものでありがたく楽しもう、等と気障ったらしい、しかし晴れやかな思いが生まれたものだが、それも長く続くものでもない
生活 このわけがわからない物
怠惰な自分は、しばしば自分の欲望のなさに落胆に似た思いを抱く
好きなものが多いはずなのに、何かに熱を燃やすのはとても困難なことのように思われる
怠惰な俺にぴったりな手段、紙とペン、或いはパソコンだけで出来ること、書くこと 書く喜び 好みの言葉でいけすかない言葉で無機質な言葉で既製品の言葉で何かに輪郭を与えていく喜び
何かしらの小説を書いている時は、自分がそれなりに素直で前向きになっている気がする
それは単に実生活との断絶や自らのげんなりする程の社会性の低さをも表してはいるが、虚行の中くらい自分の様々なことを肯定したい
なんて着想に行き着くと、本当に自分が人生を楽しもうとする姿勢が足りないのだと恥ずかしい思いにかられる
死というのは案外近くにいるもので、それに出会えば、それでおしまい
それならば色々と、好きでいたい 素直でいたいと思う
俺はよく寝る 起きている時は大抵聞きなれた雑音の中にいる それをそこまで恥ずかしいとは思わないけれど、何かしら作ったり書いたりしたいなと思う
書くことで解決なんてしない でも俺は無数の墓標を作ることで、生き延びてこれたのだ
自分の声で歌う
たまに、調子が良くなる。でも、そこからまた頻繁に調子が悪くなる。一日の内にこのサイクルが何度か来るときは、自分の精神がよろしくない時だと分かる。
何度もあるそれ。なんとかしてそれから抜け出そうとか誤魔化そうとかしていたけれど、それは簡単にはできない。何かの力を借りてそれをするのは、もう嫌になってきた。自分の力で、ゆるりと生きていけたら。
なんてこと、俺には無理なのかもしれない。などと、繰り返しの中で思うのだが、どうせ死んだら終わりだし、時間は減って行って、何かできるのが今なのかもしれないし、なんて考えに行き当たると妙な前向きさが出てくる時がある。
好きとか嫌いとか、憎しみとか受容から逃げるなよ俺。って、中学生みたいですね。中学生から成長しないまま老いて行ってるんですね嫌になるけれどさすがに慣れてきてるんだマジで。
ネットで知り合って、たまにメッセージを交換する友人が誕生日を迎えた。彼は音楽が好きで、きっと文学も好きで、カラオケが好きだ。近場だったら遊びに行きたいところだけれど、生憎彼は少し離れた県に住んでいた。
誕生日にお祝いのメッセージと今度カラオケ行きたいっすね、みたいなメッセージを送ると、なんと、彼から休みに東京に来るという返事をもらった。
嬉しさと共に、自分が普段旅行とかしないので「時間もお金もかかるのにいいのか?」みたいな気持ちが生まれるが、行くなら長距離バスを取る、ということで、トントン拍子に話が進み、約束の日は数日後に決まった。
新宿のバスタ、という所の付近でで待ち合わせをすることになり、NEWoMan隣接の(内部?)バスタ新宿という建物が「バスターミナル新宿」であることに今更気が付いた。
昼に、彼に会った。お互い初対面で、カラオケに行く、ということ以外決めていなかった。彼が飯を食べていないというので、近くにあったファーストキッチンと吉野家どっちに行きます? と尋ねたら、ファーストキッチンを知らないと言われて、何だか新鮮な気持ちになった。そして一緒に吉野家に入った。
少し、彼と話した。初対面なので全く喋らない、喋れないひとだったらどうしよう、なんて多少の心配があったのだが(しかも彼は他県からわざわざ来てくれているのだ)。少し話が出来てほっとした。
お互い、親しさとぎこちなさが入り混じった、懐かしくも奇妙な感情。
ネット上で知り合いになった人と会うと、メッセージでやりとりをしていた感じとは違うことがある。メッセージのやりとりだけでも楽しかったりするけれど、やっぱり俺は相手の顔を見て話す方が好きだし、一緒にいても自然にできるならば、友達、みたいな気がするのだ。
カラオケ店に入ってフリータイムを頼むと、まさかの満席で時間制限。別の店ではフリータイムをやっていない。別の店ではこんでいるし12月中旬なのに年末料金。
平日の昼間なのに。みんな俺みたいに働いてないのだろうか?大丈夫か?(彼は働いている)
何件もカラオケ店を回って、仕方がないから歌舞伎町方面に向かうと、見慣れないカラオケ店が目に入った。カラオケにはあまり行かないけれど、カラオケ店の名前は大体知っている。でも、その店は初めて目にした。
なんかあんまりきれいではない店。とにかく中に入って話を聞くと、新宿でフリータイム1280円。店の内装は小汚く、安すぎて多少不安になりながらも、他を探すのも面倒だし、そこに決めることにした。
その店には客が順番を待つ用の椅子がなかった。椅子がないカラオケ店があることを知って少し驚いた。部屋も何だか狭いし、空調も悪い。小さな嫌悪と妙なわくわく感が入り混じる。
彼から先に曲を入れた。そういえば彼は、自分の歌い方は独特みたいなことを言っていた気がした。彼の歌を聞いて、その意味がようやく分かった。
歌がうまい人下手な人。声が出てるとか出てないとか、声真似をしているとか似ているとか。誰かの生歌を聞いたことはそれなりにあるけれど、彼の歌い方は一生懸命だった。
彼はマイクを握り、身体を縦に揺らし、頭を振りながら大きな声を出して全身で歌っていた。この場所はカラオケボックスだけど、カラオケというよりもまるで彼のライブ会場のようだった。
こんなに、何かを吐き出すようにカラオケで歌う人に出会ったことはなかった。彼は誰かの作った歌を歌っているけれど、全部彼の全力の歌い方だった。
彼が歌った曲。 ディル・アン・グレイ amazarashi オーラルシガレッツ 凛として時雨 中島みゆき。同じ歌手の曲を何曲も歌った。俺の知らない曲ばかり、彼はへとへとになりながら、力いっぱい歌っていた。
一方俺はというと、色んな人の歌を歌っていた。彼は中島みゆき以外、ほぼ女性の歌を歌わなかったが、俺は女の子の歌も好きだから半分くらいは女性の歌を歌っていた。
彼は、多分自分が歌いたい歌を歌っていたような気がした。あ、カラオケってそういうものだってことに今更気が付いた。いや、そんなことは知ってるくせに、ついその場を見て選曲をしていた。
カラオケだけじゃない。その場を見て、そこそこ大丈夫そうなことばかり選択する癖が染みついている俺。周りに、変な顔をされたくないから。周りと「何か」が起きて欲しくないから。
彼があまりにも全力だったから、俺も、少し腹から声を出して歌ってみた。俺は彼と違って声量があるわけでもないし、下手な歌手とか雰囲気が魅力の歌手が好きだ。
でも、大きな声を、自分の声を出す。少し他人の声みたいな、自分の声。それは中々気持ちよい感覚だった。
高校生の頃ぶりに、ディルアングレイの[KR]Cubeとberryを歌った。ボーカルの京は歌がうまいし、デスボイスが入るから普段のカラオケで歌うことはなかったけれど、久しぶりに歌ったら下手なりになんかノリノリで歌えてしまって楽しかった。
大きな声を出すって気持ちいいなと思った。カラオケの後で、彼は明日声が出なくなっちゃうと小さく笑った。
フリータイムが終わり、バスまで少し時間があったのでcdショップに行く。ディスクユニオンかなーと思ったら、意外にもブックオフ。棚の前で理由が分かった。彼はcdを大量に集めていた。そう、山ほどcdが必要な人は買い過ぎるから、中古で一枚千円以上のcdを片っ端から買うことはできないのだ。あまりにも多くの物が欲しいから、自分の値段の基準以下の物を買うのだ。
自分が高校生の頃のことを思い出した。その時はipodを持っていなかったし、とにかくcdを買っていた。知らない音楽が山ほどあることが嬉しかった。youtubeなんてなかったけれど、cdショップに行けば世界中の音楽が簡単に手に入るんだ。それはなんて幸せなことなんだろう。
何度も俺は引っ越しをしたり、金がなくなったり、金がなかったり、家を引き払ったり。色んな物を売り、捨てた。いつからかcdを滅多に買わなくなっていた。少し、彼がうらやましくなった。
とはいえ、彼だって紆余曲折あって、今の生活があるのだということを、これまでのやりとりから、そして今日歩きながら聞いた。
失ったことや物。取り戻せるものもあるし、もう難しいこともある。でも、何かに手を伸ばさないことなんてできない。触れるものがないならば、きっと死んでるのと同じだ。
二人で棚を見ながら、彼と多少好きな歌手がかぶっていることを知る。
ゆらゆら帝国、くるり、ブランキー、ミッシェル、キノコホテル、サカナクション、キートーク。
彼の誕生日ということで、高校の頃(今も)聞いていたcdをあげた。
グレート3 チャラ レイハラカミ 空気公団
あげてから彼の好みとは少し違ったかなと気づいて、他のをあげればよかったかなと思ったけれど、何だかそれでもいいような気がしてきた。
あまり深く考えず自分の好きな物をあげる、というのがささやかなプレゼントみたいな気がしてきていたのだ。
俺はなんだかんだでメロディーが綺麗なのとか陰鬱なのとか、ピコピコキラキラしたポップなのが好き。彼は、ザラザラしたのが、彼や俺が生まれたくらいの邦楽が特に好きらしかった。
彼はノイズミュージックが好きだと言った。流しっぱなしにした雑音が、ふと、音楽になる瞬間が好きだって。 それは素敵な感性だと思った。ふとした時に、何かの美しさに気づくというのはいいことだなって思う。
彼はカラオケの後夕食を食べる予定だったが、結局二件のブックオフをめぐってめいいっぱい時間を使って、大量のcdを買って帰っていった。
どこかで彼も、何かを頼りにして頑張っていくのかなと思ったら、俺ももうすこし頑張ってみようかな、なんて考えて。そういうのって、きっといいことなのかなって思って。
愛していいのにね
朝の新宿が好きだ。背の高いビルを横目に肌寒い中を歩くと、視界にはスーツ姿の人々に交じり、近所をランニングしているスポーツウェアの人や奇抜な髪や衣装の人、ホームレスらがちらほら。この猥雑な、それでいて規則正しく目覚めようとする、朝の街並みというのが好きなのだ。
たまに新宿や渋谷が嫌いという言葉を耳にすることがある。それを聞く度に、こんな素敵な空間を何で嫌うのだろうかと不思議な気持ちになっていた。
先日、またipodの調子が悪くなった。先月イヤホンジャックを直したばかりで、次はバッテリーがダメになってしまった。数日、ipodなしで繁華街を歩き、満員電車に乗ると、とたんに気分が悪くなった。
街には音が多すぎる。
普段俺は一人でいる時はほぼ必ずipodで音楽を聴きながら歩いている。だから、雑踏も人の多さも気にならなかったし、あまり目に入らなかった。ほんと、よく皆音楽で耳を防御しないで生きていけるなあと思った。
適当に、ネットで修理する店を探し、安かった店が新大久保にあるということで、久しぶりに向かった。俺は以前この近くに住んでいたのだが、最後まで新大久保という街にはなれなかつた。何だかごみごみしていて、俺はよそ者だという意識があった。
もしかしたら、新宿や渋谷が嫌いな人は、自分がよそ者だという意識があるのかもしれない。街に愛される、なんてことはきっと難しい。でも、自分が街を好きになることはできる。
俺は新宿や渋谷が好きだ。お行儀が悪い所も良い所もあるから。見るからに綺麗な面も、関わり合いになりたくない面もあるから。だから、俺は都会が、都会に生きている人々の無気力だったりパワフルだったり着飾っていたりあまりにも汚かったりする、その景色が好きなのだ。
汚いも綺麗も、過剰なのが好きだ。片っぽだけじゃ物足りないし味気ない。どちらも欲しい。
先日短期の日銭稼ぎをしていて、休み時間に美術系の本を読んでいた。知り合いになった人に、何を読んでいるんですか、と聞かれて当たり障りのない説明をし始めて、その人の反応が少し、普段とは違ったので、何か制作をしているんですか、と尋ねてみると、相手は少しうれしいような困ったような顔を浮かべ「はい」と言った。
俺はポートフォリオを見せてもらってもいいですかと聞いた。相手は少し言葉をにごしながら、色々とぼやけた説明をする。そしてスマホをいじって、遠慮がちだったり多弁になったり、何やら説明をするのだ。
これは、俺にも経験があることだった。自分の好きな物に対する、言い訳じみた妙な長話。
好きな物は? と聞かれて、素直に返すのは難しい。相手が何を好きなのか分からないし、相手の知らないこと、嫌いな(かもしれない)こと、等を自分が言うのは何だか気がすすまない。
それが趣味ならまだしも、実際に作っていることになるとさらに話がややこしくなる。
雑なくくりではあるが、世の中には自分が作った物を、或いは自分自身を大勢の人に見せたい人と、そうでない人がいると思う。俺は後者であるので、自分の作った物や自分の作品を売り込んだりライブや芝居に友人を呼んだりする人は感覚が違う、と思うことがあるのだ。誰かのファンがいるというのは分かるのだが、自分でファンを作りに行く、というのがいまいち分からない。
って、そういう行為ってアイドル業でもアーティスト業でも普通のことなんですけれども……
俺は、小説を書いている。どちらかといえば、かなり読みにくい(勿論本人はそう思ってないのだが……)内容も陰鬱だったり反社会的だったりカタルシスがないものだったりする(勿論本人はそう思ってないというか、そういう要素ってどうでもいいと思っているのだが……)
これを人に薦めたいか、と考えたら、見せるものでもない。と思うのだ。
音楽や美術なら、一瞬で見て良しあしを判断できる。でも、小説だ。数十分以上相手の文章と格闘しなければならないものだ。他人が書いた小説を読みたいか? 面倒じゃないか?
俺は嫌です!!! 他人の小説とかめんどくさい!! なんで自分で嫌なのを人に薦めるんだよー
なんてずっと思っていたし、今もその考えはあまり変わっていない。
でも、自分の作った物を他人と共有するというのは、わりといいことだと思う。批評家や批評家崩れやら評論家やらが言う、作品は人に見られなければ、評価されなければ価値がないとかいう言葉は全く俺の心に響かない。
だって、評価されたい為に何かを作っているのだろうか? 色んな人が色んな理由で作っているのだ。人目に触れる、人目を意識する、評価される、批評される、というのは良いことだと、作品の質の向上につながると思う。
でも、制作者は自分の欲望に妄執に気晴らしにそれを成しているのだ。有名になりたいもてたい認めて欲しいお金が欲しい、からなにかを作るというのも理由の一つにはなるし、何かを作り出す時、それには複数の感情やら欲望やらが混じり合っていると思う。好きだから、何か作りたいから、それをしているのだ。
ただ、あくまで俺の場合だが、俺が制作するのは、自分の人生のリハビリテーションというような側面が強いように感じる。言葉を編集して、何かをでっち上げて、綺麗に治める。すると、自分が生きているような、生き生きしているような気分になるのだ。
だからそれを誰かに共有してもらおう、というのはどうもピンとこなくなる。俺に金儲けとか自己実現とかの欲望がないわけではないのだけれど、何でみんな死ぬし、神様もいないのに、何で多くの人がそういうのにこだわるんだろう、という気持ちが先に出てしまう。
神様がいないのに、褒められるのが認められるのがそんなに嬉しいのか、と思ってしまう。
すごく素直な、あほくさい感想なのに、ひねくれているとか感じられたらなんか嫌だ。
俺だって好きな人やある点が素晴らしいと思っている人からの言葉は嬉しいだろう。でも、俺は好きな人からの言葉なら、何でも嬉しい。そうでもない人からの言葉は大体そうでもない。どうでもいい人からの言葉は大体どうでもいい。
自分の作品の良さがわかるのは、それを十全に享受できるのは、きっと本人なのだろう。それがどんなに優れているか下らないかは別として。というよりも、優れているか下らないかというのは、制作者にとっては些細なことなのだと、あくまで俺はだが、そう思う。巧緻、優劣というよりも、自分で自分の作品に満足しているのか、愛することができるのかというのがとても難しく、重要なことのように思えるのだ。自分の作った物を自分自身で愛するのは、他者の働きかけではできない。自分自身でしか成しえないことなのだ。それは、しばしばひどく困難なことに思えるのだ。
昔から、こんなかんじだった。昔、とても仲が良かった友人がいた。彼はアーティストで、自分が認められたくって、天真爛漫で、若いのにとても焦っていた。俺は彼の性格と作品が好きだった。
彼は認められたいと強く思っていた。愛されたいと思っていた。愛されたい、認められたいと思う人は、しばしば他者に親切だ。愛や好意が返ってくるから。俺は、多少、良識的常識的な判断を持ち合わせていたが、他罰的自罰的で、しかしそれらを、自分の正直な感情を口に出すのは嫌で、言ったら自己嫌悪か他者からの攻撃にあっていた。そう、汚い言葉は自分と他人を傷つける。でも、適切不適切、正しい正しくないというよりも、それを言わねばならない時は、ある。
そんな殺伐とした不毛の地と比べ、受け入れ、受け入れられる、好意の世界はなんていいものだろう、
そう、よそ者の俺は思った。そう思いながらも、自分とは肌が合わないのだと感じていた。
でも、だからと言ってその友人が満たされていたわけではなかった。当たり前の話だ。どの国に住んでいてもどの組織に属していてもお金があっても無くても、とある人の中にある飢餓感は、充足したりしない。もしかしたら、それが制作するという行為に近いことなのかもしれない。
決して満たされないのだけれど、何かをでっちあげてひと時の休息を得るけれど、心や身体や金銭や才能が貧しくとも、作るしかないのだ、作りたいと思ってしまうのだ。
ポートフォリオを見せてくれた人の作品を、俺はそこまで気に入ったわけではなかった。でも、俺はその人と連絡先を交換して、何か展示をやるときにはいくと告げた。
二十代を過ぎ、周りの人はどんどん制作を止めて行った。何かを作り続けるというのは、とても困難なことだ。その代わりに何かを犠牲にしてきた。とはいっても、ちゃんと会社勤めをしている人だって、ひきこもっている人だって、色んなことを犠牲にして、生きている。
俺は受容の世界、受け入れる受け入れてもらう、相互フォロー的な世界からはよそ者だ。いい悪い好き嫌いというよりも、多分、できないのだ。自分のことばかり考えているのだ俺は。自分の作品を作ることばかり。色んな欲望があったか希薄なのか、捨ててきたのか忘れてしまったのか。
ただ、誰かに会いに行く位の事はするべきだと思うようになってきたし、単純に、好きだ人に会うの。すごく気持ちがふわふわぐらぐらするけれど。ipodなしで満員電車だ生身の人といるなんて。
だが何かを作り続けているというのは素敵なことだと思う。死ぬまで何かを作っていたらいいなと思う。長生きをしたいわけでも、この先の希望展望があるわけでもない。
でも、何かを作っているなら、他の何かを作っている人の姿勢に呼応できるなら敬意を払えるなら、俺もよそ者でないような、そんなたまゆらの錯覚ができるような気がするのだ。愛されたい、と顔に書いてあった、あの微笑を懐かしくも朧げに想起するのだ。