愛していいのにね

 朝の新宿が好きだ。背の高いビルを横目に肌寒い中を歩くと、視界にはスーツ姿の人々に交じり、近所をランニングしているスポーツウェアの人や奇抜な髪や衣装の人、ホームレスらがちらほら。この猥雑な、それでいて規則正しく目覚めようとする、朝の街並みというのが好きなのだ。 



 たまに新宿や渋谷が嫌いという言葉を耳にすることがある。それを聞く度に、こんな素敵な空間を何で嫌うのだろうかと不思議な気持ちになっていた。 



 先日、またipodの調子が悪くなった。先月イヤホンジャックを直したばかりで、次はバッテリーがダメになってしまった。数日、ipodなしで繁華街を歩き、満員電車に乗ると、とたんに気分が悪くなった。 



 街には音が多すぎる。 



 普段俺は一人でいる時はほぼ必ずipodで音楽を聴きながら歩いている。だから、雑踏も人の多さも気にならなかったし、あまり目に入らなかった。ほんと、よく皆音楽で耳を防御しないで生きていけるなあと思った。 



適当に、ネットで修理する店を探し、安かった店が新大久保にあるということで、久しぶりに向かった。俺は以前この近くに住んでいたのだが、最後まで新大久保という街にはなれなかつた。何だかごみごみしていて、俺はよそ者だという意識があった。 


 もしかしたら、新宿や渋谷が嫌いな人は、自分がよそ者だという意識があるのかもしれない。街に愛される、なんてことはきっと難しい。でも、自分が街を好きになることはできる。 

 俺は新宿や渋谷が好きだ。お行儀が悪い所も良い所もあるから。見るからに綺麗な面も、関わり合いになりたくない面もあるから。だから、俺は都会が、都会に生きている人々の無気力だったりパワフルだったり着飾っていたりあまりにも汚かったりする、その景色が好きなのだ。 

 汚いも綺麗も、過剰なのが好きだ。片っぽだけじゃ物足りないし味気ない。どちらも欲しい。 

 先日短期の日銭稼ぎをしていて、休み時間に美術系の本を読んでいた。知り合いになった人に、何を読んでいるんですか、と聞かれて当たり障りのない説明をし始めて、その人の反応が少し、普段とは違ったので、何か制作をしているんですか、と尋ねてみると、相手は少しうれしいような困ったような顔を浮かべ「はい」と言った。 

 俺はポートフォリオを見せてもらってもいいですかと聞いた。相手は少し言葉をにごしながら、色々とぼやけた説明をする。そしてスマホをいじって、遠慮がちだったり多弁になったり、何やら説明をするのだ。 

 これは、俺にも経験があることだった。自分の好きな物に対する、言い訳じみた妙な長話。 

 好きな物は? と聞かれて、素直に返すのは難しい。相手が何を好きなのか分からないし、相手の知らないこと、嫌いな(かもしれない)こと、等を自分が言うのは何だか気がすすまない。 

 それが趣味ならまだしも、実際に作っていることになるとさらに話がややこしくなる。

 雑なくくりではあるが、世の中には自分が作った物を、或いは自分自身を大勢の人に見せたい人と、そうでない人がいると思う。俺は後者であるので、自分の作った物や自分の作品を売り込んだりライブや芝居に友人を呼んだりする人は感覚が違う、と思うことがあるのだ。誰かのファンがいるというのは分かるのだが、自分でファンを作りに行く、というのがいまいち分からない。 

 って、そういう行為ってアイドル業でもアーティスト業でも普通のことなんですけれども…… 

 俺は、小説を書いている。どちらかといえば、かなり読みにくい(勿論本人はそう思ってないのだが……)内容も陰鬱だったり反社会的だったりカタルシスがないものだったりする(勿論本人はそう思ってないというか、そういう要素ってどうでもいいと思っているのだが……) 

 これを人に薦めたいか、と考えたら、見せるものでもない。と思うのだ。 

 音楽や美術なら、一瞬で見て良しあしを判断できる。でも、小説だ。数十分以上相手の文章と格闘しなければならないものだ。他人が書いた小説を読みたいか? 面倒じゃないか? 

俺は嫌です!!! 他人の小説とかめんどくさい!! なんで自分で嫌なのを人に薦めるんだよー 

 なんてずっと思っていたし、今もその考えはあまり変わっていない。 

 でも、自分の作った物を他人と共有するというのは、わりといいことだと思う。批評家や批評家崩れやら評論家やらが言う、作品は人に見られなければ、評価されなければ価値がないとかいう言葉は全く俺の心に響かない。 

 だって、評価されたい為に何かを作っているのだろうか? 色んな人が色んな理由で作っているのだ。人目に触れる、人目を意識する、評価される、批評される、というのは良いことだと、作品の質の向上につながると思う。 

 でも、制作者は自分の欲望に妄執に気晴らしにそれを成しているのだ。有名になりたいもてたい認めて欲しいお金が欲しい、からなにかを作るというのも理由の一つにはなるし、何かを作り出す時、それには複数の感情やら欲望やらが混じり合っていると思う。好きだから、何か作りたいから、それをしているのだ。 

 ただ、あくまで俺の場合だが、俺が制作するのは、自分の人生のリハビリテーションというような側面が強いように感じる。言葉を編集して、何かをでっち上げて、綺麗に治める。すると、自分が生きているような、生き生きしているような気分になるのだ。 

 だからそれを誰かに共有してもらおう、というのはどうもピンとこなくなる。俺に金儲けとか自己実現とかの欲望がないわけではないのだけれど、何でみんな死ぬし、神様もいないのに、何で多くの人がそういうのにこだわるんだろう、という気持ちが先に出てしまう。 

 神様がいないのに、褒められるのが認められるのがそんなに嬉しいのか、と思ってしまう。 

 すごく素直な、あほくさい感想なのに、ひねくれているとか感じられたらなんか嫌だ。
俺だって好きな人やある点が素晴らしいと思っている人からの言葉は嬉しいだろう。でも、俺は好きな人からの言葉なら、何でも嬉しい。そうでもない人からの言葉は大体そうでもない。どうでもいい人からの言葉は大体どうでもいい。 

 自分の作品の良さがわかるのは、それを十全に享受できるのは、きっと本人なのだろう。それがどんなに優れているか下らないかは別として。というよりも、優れているか下らないかというのは、制作者にとっては些細なことなのだと、あくまで俺はだが、そう思う。巧緻、優劣というよりも、自分で自分の作品に満足しているのか、愛することができるのかというのがとても難しく、重要なことのように思えるのだ。自分の作った物を自分自身で愛するのは、他者の働きかけではできない。自分自身でしか成しえないことなのだ。それは、しばしばひどく困難なことに思えるのだ。 


 昔から、こんなかんじだった。昔、とても仲が良かった友人がいた。彼はアーティストで、自分が認められたくって、天真爛漫で、若いのにとても焦っていた。俺は彼の性格と作品が好きだった。 

 彼は認められたいと強く思っていた。愛されたいと思っていた。愛されたい、認められたいと思う人は、しばしば他者に親切だ。愛や好意が返ってくるから。俺は、多少、良識的常識的な判断を持ち合わせていたが、他罰的自罰的で、しかしそれらを、自分の正直な感情を口に出すのは嫌で、言ったら自己嫌悪か他者からの攻撃にあっていた。そう、汚い言葉は自分と他人を傷つける。でも、適切不適切、正しい正しくないというよりも、それを言わねばならない時は、ある。 

 そんな殺伐とした不毛の地と比べ、受け入れ、受け入れられる、好意の世界はなんていいものだろう、 

 そう、よそ者の俺は思った。そう思いながらも、自分とは肌が合わないのだと感じていた。 

 でも、だからと言ってその友人が満たされていたわけではなかった。当たり前の話だ。どの国に住んでいてもどの組織に属していてもお金があっても無くても、とある人の中にある飢餓感は、充足したりしない。もしかしたら、それが制作するという行為に近いことなのかもしれない。 

 決して満たされないのだけれど、何かをでっちあげてひと時の休息を得るけれど、心や身体や金銭や才能が貧しくとも、作るしかないのだ、作りたいと思ってしまうのだ。 

 ポートフォリオを見せてくれた人の作品を、俺はそこまで気に入ったわけではなかった。でも、俺はその人と連絡先を交換して、何か展示をやるときにはいくと告げた。 

 二十代を過ぎ、周りの人はどんどん制作を止めて行った。何かを作り続けるというのは、とても困難なことだ。その代わりに何かを犠牲にしてきた。とはいっても、ちゃんと会社勤めをしている人だって、ひきこもっている人だって、色んなことを犠牲にして、生きている。 

 俺は受容の世界、受け入れる受け入れてもらう、相互フォロー的な世界からはよそ者だ。いい悪い好き嫌いというよりも、多分、できないのだ。自分のことばかり考えているのだ俺は。自分の作品を作ることばかり。色んな欲望があったか希薄なのか、捨ててきたのか忘れてしまったのか。 

 ただ、誰かに会いに行く位の事はするべきだと思うようになってきたし、単純に、好きだ人に会うの。すごく気持ちがふわふわぐらぐらするけれど。ipodなしで満員電車だ生身の人といるなんて。 

 だが何かを作り続けているというのは素敵なことだと思う。死ぬまで何かを作っていたらいいなと思う。長生きをしたいわけでも、この先の希望展望があるわけでもない。 

 でも、何かを作っているなら、他の何かを作っている人の姿勢に呼応できるなら敬意を払えるなら、俺もよそ者でないような、そんなたまゆらの錯覚ができるような気がするのだ。愛されたい、と顔に書いてあった、あの微笑を懐かしくも朧げに想起するのだ。