ヴァニタスの庭で、ナルシスの手をとって

また、理不尽な目に合って気分はぐずぐずと崩れる。せっかくの休みに消化しようと思っていたことができない。疲れ果てる。少しの読書やら映画やら音楽の消費。ひたすらに無駄なことをする。そして、少し小説を書いて、多少罪悪感が消えるというか、この位しかできることが(建設的なことが)ないのだ。

 そんな時に思い出すマザーテレサの言葉。

彼女は「貧しい人が、傷ついた人が求めているのは哀れみではなく愛なのです」と説いた。そして無関心ではなく、愛情をかけてあげることを説き、

「神様は私たちに成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ」

「善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなくし善を行い続けなさい」

「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。」と言う。

 キリストは好きだが、キリスト教はばからしいと思う俺が、そして、愛についてさっぱり分からない俺が彼女の言葉に深く感銘を受けるのは、彼女が愛が一般的に考えられる、契約や幸福ではなく、愛とはもっと厳しく、そして求めてしまうということについて語っているからだ。そして、後年には彼女でさえも神への愛に迷ったという内容の記録が残っていたとしても、自分のプライドを持って、自分の人生を全うしたということだ。

 誰かに優しくする、というのは良いことだ。でも、俺の頭によぎるのは、俺が好きな人が口にした言葉

「とても傷ついている人は周りの人に惜しみない愛を注ぐんです。自分が愛されたいから。愛されることに飢えていて、愛を浴びることで救われることを知っているから」

 その人は否定的な意味合いでこの言葉を口にしたわけではないはずだ。ただ、たまにこのことを思い出す。愛の渇きの中にいるからこそ、誰かを愛する。傍から見たら愚かであってもそれでもいいのかもしれない。

 

 マザーテレサは優しくていいひと。だけど俺にとっての彼女はロックスターに近い感じでかっこいいと思うんだ。自分が決めたらことに対して覚悟を決める。そして、大切なことを無駄にするんだ捧げるんだ、自ら愚かな行為に殉じるんだ。そこにナルシスの影があっても構わない。愚かさを受け入れるならば。無駄なことを真面目にする誰かがいるというだけで、少し、俺はまた気が楽になる。そして我が身を律するのだ。

 

 処方箋が出たとしても、決して救われたりしない。生きていくと痛みも汚辱も剥き出し、だけれどせめて人に会うときはドレスアップして編集して体裁を繕おう。ただれた傷口を誇るよりも、愚かな夢想の方が俺は好きだ。

 

 ゆらゆら帝国 - ズックにロック

だめだ、俺はもうだめだ

オーイェー

俺はもうだめだ

 

って口にすると、少しだけいい気分だ。ダメだって何度も口にするんだ声に出すんだ。

 

 Vacation - Connie Francis

 こういう中学生英語で歌えるアメリカの曲がとても好きだ。無駄にバカにごきげんになる。

 

 PLANET ROCK - MOVE

 ユーロビートの一番いい部分、ポップでノリがよくて安っぽくてちょっと寂しい、ユーロビートなんて気恥ずかしい、でもその魅力が詰まった良曲だと思うんだ。

 

 小説を書く、ということは登場人物が存在して、彼らには職業があり、洋服を着ているはずだ。

 自分が嫌になると、とても洋服について考えられなくなる。特に俺はバカみたいな値段、買えもしない、バカだと愛おしいと思う一枚10万20万のシャツを売り出すようなブランドの品にうっとりしてしまうのだけれど、気持ちに余裕がないとそういった物を自分が着るとか誰かが着るとか考えられなくなる、けれど必然性があるならば書かねばならない。登場人物が誰も洋服なんて気にしない世界の話しならいいけれど、三千円のシャツを買うにも悩む俺は洋服が好き。高い値段のついたバカみたいな洋服が。実用性に欠けている洋服が大好き。自分では決して着れないロリータのメゾンの洋服は一等賞。

 馬鹿みたいに購入する品。ネットのセールで投げ売りされるブランド品やらセレクトショップやらの服の売れ残り、在庫処分。無駄遣いの楽しみだ。家のクローゼットからは洋服が溢れているのに、人と会いに行くような服がない。着ていない服だってクローゼットにあるくせに。

 ブランド物の古着屋の店頭で、ネットの中で目にする買えない服。トリコロールのシャネルのニット。サンローランの黒とレオパード柄のシャツ。ギャルソンのいつものつぎはぎルック。ヴィトンのトランプ柄のシャツ。俺の一か月二ヵ月の三か月のの生活費が吹き飛ぶ布っ切れ。こういう物を誰かに着てもらうのだ、と夢想するのはそれなりに楽しい。

愚か者の為の虚飾。それはとても楽しい時間。ひとりぼっちの社交界。観客も来客もマネキンか百貨店の備え付け。きれいだかっこいいんだって、自分の為に思えるように着飾るんだ誰の為でもない自分の為に。ナルシスに求愛、できたならばきっと布っ切れも、君を祝福してくれる。

 ハイブランドのすばらしさについて考えると、絵画のジャンル、ヴァニタスを想起する。回らない頭でざっと読む美術のモチーフに関する文庫本。

 

ヴァニタスは虚栄と訳されることもあるが、この世のものは全て空しく朽ちていくという教訓
中世以来のメメントモリ(死を思え という主題と同類
砂時計 書物 骸骨 宝飾類 コイン ひっくり返った杯 消えた蝋燭 花 楽器 シャボン
世界の珍しい物輸入していた オランダ絵画に日本の着物や陶磁器出てくる  
日本刀 高価な工芸品であり殺傷道具だからオランダ絵画でヴァニタスの仲間として絵画に出てくる

 マザーテレサ、愛の言葉、つまりアガペーについて、そしてロックスターの放言について、そして、ヴァニタスについて思いを巡らせると、最悪な気分が少しましになってくる。

 人生は一度で終わりで、俺は強い人間でもこの先の展望があるわけでもないのだ。だから、ああ、生きてるって何だか不思議で楽しいんだってことを忘れないようにしなきゃと思うんだ。死ぬまでに多くの幻覚を錯覚を持てるように。

sora tob sakana/魔法の言葉

 

 爽やかで美しいエレクトロにつたないアイドルのボーカルが混じって、不安定で切ない美しさを生み出す。

 

 さっきまで当たり前だった 景色が輝いて

 魔法の言葉 空にあふれ出してく

 ちょっとだけ 悲しい気持ちに なっても大丈夫

 魔法の言葉 君が教えてくれた

 いつでもつながってる

 

 大丈夫、って好きな言葉だ。根拠はないのに、誰かに好きな人に、誰もいないならば自分で自分に大丈夫だって言ったら聞いたら口にしたら、どうにかなるような気がしてくるから不思議だ。

 

 何度も駄目だと思う。いい加減にしてくれといい加減にしないとと思う。でも、後楽園で僕と握手、みたいなことをヒーローにヒロインに握手することを思い浮かべる。誰かの手を握る、誰かに手を差し出すことを思うと、まだ気分が良くなる。辛い時こそ誰かのことを思うと気が楽になるのだ。自分が醜いと思っても傷口が開いていると思っても、それを意識しすぎるのはみっともない。事実に目をむけるのはとても簡単なことだ。

 政治に対して無知な俺はたまに社会情勢やら政治についての本を暇つぶしに読んで、ある言葉に出会う

福田赳夫 が言ったといわれている「正しいことを言うときは気をつけなさい。正しさは常に人を傷つけるから」という言葉があります。これは、古き良き保守の発言だと思っています

正しさも嘘も好きだ。だから少し、身支度をして本に誰かに会いに行かなくっちゃ。行かなくっちゃ行かなくっちゃ。無駄なことを思い付きを口にしなくっちゃ。

 

バグの多い人生を歩んできましたが、それについては恥ずかしいと思わない

ストレスの群れ 
不安や焦りや怒りが俺の内で散策している 短時間で何度も両極端な提案が生まれては消える 大丈夫だ大丈夫だ大丈夫大丈夫大丈夫だ

と腹の中で念じる

外にいて、ひとの中にいて しかしながら叫びだしたい泣き出したい逃げ出したいと 気が触れてしまいたいと思いながらも 俺は機械だと俺はまともだと念じてやりすごそうとして、こんな自己とのやりとりは何度目だろうかと思う

バグの多い人生を歩んできましたが、その事については恥ずかしいとは思えない

とりあえずやるべきやりたいことの一つ、小説を書き上げねばと思いながら、それが終わったら何がある、と考えると勤労しか思い付かない そう、俺の身体はお金を支払い生活を営んでいるのだから当然のことだ、でも、そんなことから逃げ出したいと思う

暇潰しに電車で読む精神科医師のエッセイでの言葉

 自殺願望は逃避に似ており、病人のよくある願望

 まあ、雑に言ったらそうだし、簡単に逃げたくなるし押しつぶされる。

楽になりたいとは思うが具体的な方法があるわけでも展望があるわけでもない 気づけば悪意の雨中で夢中になってんだ痛めつけるのに痛め付けられるのに、でも、

小さな何かで 踏みとどまれることがある

傷ついていると何でもいいからなにも要らないから傷つかない生き方がいいと願う祈る、その痛ましいみすぼらしい願い事を呟く、そして俺はゆっくりと腐敗しその匂いにも慣れてしまうのだ、生き死にを学ばぬ哀れな死人

けど、死にたくなんてないのだけれどきっと、

くたばりたくないんだけれど、死んでおしまいなんだし、いつの間にか失って諦めてしまうんだし、楽しまなきゃな 楽しい予定について考えなきゃと思う

俺の肌に染み付いた呪われたガマの油のような悪意を妄想を撫でる己が指をぐっと、こらえる

悪意はいつでも可哀想な君の最良の友人で理解者だけど、いつまでも甘えていてはいけない 恥をかいて好きだって言うんだ叶わない願いはきっと誰かの暇潰しになるきっと、俺にも

大好きなマザーテレサの言葉を目にして学んだこと 
愛しなさい 忘れなさい そして、愛されようなんて考えないで

これは彼女の言葉ではない 俺の思いつきでしかない でも、この三つを胸のうちで思うと気分が楽になりひんやりとした心持ちになる 

身を律する思いだ

好きな人の言葉を、生きざまは死にざまを思うと清々しさのようなものが生まれる 自分の人生をバグの多い人生を体を肯定できる、かのような

でも愛があるならば学べるならばきっとここなんだ呼吸ができる姿勢、嘘ばかりいってないで素直にならなきゃって思えるんだ

その偉大な幻影はすぐに霧散しつ、俺は悪意と惰性に甘えるだろう、けどまだしばらくは好きな人のことを考えていたい

偽物でも安物でも、愛についての時間は多いほうがいいだろう

灰になるまで沢山夢を見るんだ俺も

 借りたcdが良いのが多すぎる。その中の一つ、

https://www.youtube.com/watch?v=JKmgLTjZ82c

 Maxo - Plushlined

 こういう曲がアルバムの最初にあるのはずるい。ひんやりとした肌触りのテクノってクラブミュージックってそれだけでどきどきして最初だけなんども繰り返してしまうんだ。この曲youtubeで2500回しか再生されてないんだけど、なんでだ! 二億再生位でいいのに。

 アルバムの最初の、大好きな肌寒くなる曲

https://www.youtube.com/watch?v=w0EahgKvEZA

Aphex Twin - Xtal

アンビエントという言葉で真っ先に思い出す曲。幽霊のセラピーみたいな最高の曲。

https://www.youtube.com/watch?v=Tpe4id7cLnU

Four Tet - Angel Echoes

 天使の首を絞めるような恍惚を君に。 クシシュトフ・キェシロフスキの『殺人に関する短いフィルム』を想起する。あの映画の殺人シーンはほんとうに嫌な気分になる。人殺しって多分くるしいかなしい。犯罪率低下の為に全国の小中学校で流したほうがいいと思う(は?)

 

https://www.youtube.com/watch?v=0KxwrbJc9QQ

 the sea and cake - "sporting life"

 入水自殺したい時にぴったりな、晴れやかな曲だと思う。勿論明日も元気に生きる君にもぴったりな穏やかな良い曲。

 

 明日も誤魔化して、生きていきましょう。

さようなら、またお会いしましたね

 知り合いになった人と映画や音楽の話をしていて、ミュージカル映画の話になって、『天使にラブソングを』、joyful joyfulを好きだと言ったら彼はそれ、前にみんなで歌ったことあるんだと言った。すごくいい映画だし、ゴスペルって生きる力をくれるような気がするんだけど、なんでだろう。音楽の歴史とか成り立ち、とかいうのをここで引き合いに出すのははあまり好きじゃないけれど、でも、祈りの音楽が人を幸福にすると考えたら、何だか素敵なことのように思うんだ。

Joyful, joyful by Sister Act 2

 

俺はミュージカル映画の中で『ロシュフォールの恋人たち』という映画がとても好きだ、と彼に伝えた。

 その数分後に、ネットでミシェル・ルグランがその日に亡くなったことを知った。

 好きな、縁がない人の訃報に触れると何だか不思議な心持になるのだ。どういう心情なのか自分でも分からない。

 

Michel Legrand 映画「ロシュフォールの恋人たち」 双生児姉妹の歌 Chanson De Jumelles

 

 幸福、という言葉がとても似合う映画。美しく、愛があって、夢のような世界。夢ではなくてシネマ。誰でも簡単に、何度もその夢を反復できる。ドヌーブのお姉さん、主演の一人フランソワーズ・ドルレアックが亡くなったことを知ったのは映画を見た後だった。

 そして、ルグランの訃報を受けて再度この映画の映像を目にすると、何だか映像が眩しくって途中で動画の再生を停止してしまった。

 ドヌーブの訃報を聞いたら、俺はどんな気持ちになるだろう? しばらく動揺して、そしてしばらくしてまたこの映画を見るのだろうか。

 

 髪が伸びすぎていたので、バッサリと切ってもらった。ツーブロック。長髪は好きなのだが、短髪になれたらこれもこれでいいような気がしてくる。渋谷の肌寒い風が覆っていた襟足や耳元を撫で、何だかひとり、ようやく本格的な冬が来たような心持になる。

 

 最近まともに日銭稼ぎをしていたせいか、ストレスで買い物をたくさんしていた。本当は引きこもって本を読んで書いて、いたいのに。でも、何もできずに金だけ減っていくいつものパターンはとても身体によくない。とにかく頑張らなくっちゃ、と思いながら家に届くセールで買った洋服や読んでない本を床に積む。

 

 疲れてるんだ。でも、休んだら次にいつちゃんとできるか分からない。それに俺はとても怠け者なので、まあ、ちょっとヤバイ位の危機感があって丁度いいのかもしれない。

 

 渋谷のモディの前でアサヒの新商品のビールを配っていた。飲みたい、けれど俺はアルコールが回ると何もしなくなる。酒に弱い自分が、頬を上気させ、幸福そうな人の群れに交じるのは何だか楽しそうだなあと思いながらシラフでツタヤへ。レンタルが百円セールなのだ。借りる。沢山。

the sea and cake

tortoise

tendouji

de de mouse

machine drum

cherryboy function

maxo

sigur  ros

ヒゲドライバー

星屑スキャット

 

 13枚かりた。結構借りたのだが、前日ゲオで7枚cd dvdを借りたのだ……消化しなきゃなあ。あと図書館で上限一杯15冊本借りたからそれも消化しなきゃなあ……

 

 で、帰宅してcdをきいているのだが、えらく、良い。話が長くなりそうなので雑に言うと、借りたCDは全部いい。みんなもここに名前があがったCDは全部聞いた方が良い、って口に出したくなるくらい良い。なんだそれ。

 

 とはいえ、当たり前だが、俺は誰かの曲を聞く度に自分が色々知らないことに気づかされる。youtube amazon における無限サジェスト強迫観念地獄みたいな状況に苛まれる、けれど終わりがないサキュバスインキュバス淫夢のごとき夢の時間は素晴らしいことなんだって思うんだ。こういう下卑た表現をするべきではない、かのような。でもやっぱり悪夢だ。未知の既知の輝きに絶えず曝され愛され苛まれることになるなんて。

 たったレンタル百円で購入したとしても三千円で、悪夢を所有できるなんて間違っている。絶対間違っている。情緒不安定になるよ反社会的になるよきっとみんな。

 

 好きな物に触れるとやたらと気分が良い。俺って単純だなーって思う。好きな人の声で音楽で、それだけで様々な物を帳消しにして、でもそれだって忘れる慣れるいつか。

 それでも、新しい音は懐かしい声は俺に優しいんだ。

俺が眠りにつくまで、何度も同じことを言ってくれ

新宿のエレベーターで、目の前に立っている兄ちゃんが典型的ギャル男ファッションだなあ、と思ってよく見ると、あれ? ブーツに見たことがあるダガーのチャームがついていて、ライダースの金具もしっかりとしていて、全身クロムハーツっぽい。彼は通話していて、片手で持つスマホカバーはグッチ。おまけにかなりの腰パンで十数センチも赤いパンツが見えてるよお兄ちゃん。

 で、俺が高校一年位はこんな格好に憧れてたんだよね、お兄ちゃんがメンズエッグ買ってたから読んでたんだよね。まあさ、気合入ってるのはいいし、まあ、似合ってるんだけども、十数年前の俺がかっこいいと思うセンスというか、オタクとかヤンキー文化的なセンスって流行り廃りがあまりないのかなって思いました。

 って、そんな話をしたいんじゃなくて、

 新宿のドンキに行ったら、なんと、シャウエッセン(普通600円くらい)が50円になってたのだ。賞味期限は明日まで。それがなぜか冷蔵コーナーに山積みなんだけど、なんで? ドンキのこういうラリった感じ好きだ。意地汚い俺はシャウエッセン買いまくって、自宅に帰り夕飯はコアラのマーチシャウエッセンだ! って、ソーセージ12本食べたらマジ吐きそうになって、胃酸が逆流した。俺胃腸弱いんだ。コーラ飲むとげっぷでるから飲まないようにしてるんだ。マジドンキ策士だよ。ずりーな。善良な市民を食い物にしてよぉ。

 

 ってそんな話をしたいわけじゃなくて、ゲームの話。

 お正月にゲオのセールがやっていて、ゲームソフトを7本も買ってしまった。昔より集中力も時間もないせいか、途中で止めてしまうソフトが多い。または、いつでもセーブできるゲームばかりプレイする。

 そんな中、発売して半年くらいなのに700円でペルソナ3の音ゲーが売ってたから買った。中古で買っておいてなんだが、安すぎではないのか……いいのか?

 Persona 3 Dancing Moon Night OST - A Way of Life (ATLUS Kitajoh Remix)

 

 この曲が一番好き。原曲もよいのだが、このリミックス好みだ。ハウス風味のJポップってマジ好きなんだ。

 今はゲームのサントラって随分色んなのが出てきてる。俺はファミコンのしょぼい音、電子音だって好きだし、今はそういう昔のゲームのサントラが再評価され再販されたりもしている。昔のソフトの曲だって十分ポップなのはあるけれど、ペルソナ3のサントラは「今までのゲーム音楽らしくない」からとても売れた。

 「ゲーム音楽らしくない」というのは悪意があって書いたわけじゃない。ペルソナの音楽がボーカル曲入りの戦闘曲やハウスミュージックに近いアプローチをした、というのがいいのだ。みんなやっていなかったことをして成功した。

 ゲーム音楽って制約がある。あくまで音楽は添え物だ。キャラは喋るし効果音だってなるし、画面だって場面だっていちいち切り替わるから、一回のループが1,2分が適切だとか、その場で山場があった方がいいとか。

 でもそんな緩やかなお約束を気にしながらも、製作者が自由にやっている感があるというのが、すごいなあと思うんだ。

 

 すばらしきこのせかい というDSで発売されたゲームがある。渋谷を舞台にした死のバトルに巻き込まれる主人公。その「渋谷」の中では、実在の店やありそうなブランド店で買い物ができる。渋谷は好きな街なのでプレイしていてとても楽しかったし、音楽の楽曲が豊かで聞いていてとても楽しかった。様々なジャンルの、ゲームに、そして渋谷という街に合った曲。

 

 すばらしきこのせかい + The World Ends with You ~ Twister -Original ver- ~ OST

 この曲、好きで戦闘シーンで初めてDSから流れた時、どきどきした。曲もそうだけど、製作者の攻めた姿勢がとてもかっこいいと思った。当時はこういう曲がゲームで流れるのは珍しかった。

 

 ゲーム音楽で一番好きなのは、というのは迷う問いなのだが、一番聞いているのは多分「ロックマン全曲集」という、ファミコンロックマン1~6の曲が入ったCDだ。ほんと、ファミコンロックマン(特に1、2,3)の曲が好き。

 なんだけど、聞いているとちょっと疲れるというか、まともな文章を書こうって時には聞く気にはなれない。俺は神経質集中力がないから無音も騒音も苦手だ。だから何か頭を使う時はクラシック、特にバッハを流してるんだけど、バッハ聞きすぎてしまって別のも聞きたいなって思ってくる。

 そんな時ふと、サガフロンティア2のサントラは平気かもな、つーか何か頭使いたくて、その時選曲に困ったら流してるなーと思った。一番聞いてるのはロックマン、ではなくサガフロンティア2のサントラなのかもしれない、と思い直した。

 自分が思う一番素晴らしいゲームサントラは? という面倒な質問があったとしたら、サガフロンティア2のサントラ、と俺は答えるだろう

 サガフロンティア2のサントラは、いくら聞いても飽きないのだ。これってすごいことだと思う。

 音楽制作したことない人間なので書き方に不備があるかもしれないが、このサントラの曲は、幾つかの同じメロディーをアレンジ、変奏して使用していて、クラシック音楽の手法で作られている。だから全体に統一感がある。いつまでも、繰り返しきけるのだ。

 俺はポップミュージックが好きだ。使い捨ての、ジャンクフードのような曲だって好きだ。だから好きなアーティストのアルバムだって捨て曲が沢山あるのが普通、なんて思ってしまいがちなのだが、本当に好きなCDやアーティストのそれには捨て曲なんて存在しないのだ。文句ばかりつける性格のよろしくない俺だけど、切りどころが分からない。だって切りたくないんだ、全部欲しいんだ。その人が作った世界を丸ごと保存しておきたいんだ。

 俺にとって捨て曲がないアルバムってのはかなりの賛辞だ。本当にすごいなあって感動してるんだ(とはいえ、その中に一曲でも良曲があれば十分すごいと思ってるけど)。

 https://www.youtube.com/watch?v=3NydEEpnDe8&t=635s

サガフロンティア2 BGM集 SaGa Frontier 2 OST

 

 この大好きなアルバムのピアノバージョンがあることは知っていた。それなのにまたいつもの「欲しいものがあり過ぎて困っていて、どうせ後で買うから……」という言い訳で、俺はずっと聞かないでいた。

 でもふと、どうせ後での「後で」っていつだ? と感じてしまった。色々な返済。精神的な金銭的な肉体的なそれは待ってはくれない。

 

 ネットで注文しようかと思ったが、新宿の駿河屋にあったから仕事帰りに寄った。棚に並ぶCDを「あ」「A」から見るのって、やっぱ好きだ。

 俺はろくに働いていないくせに買い物が大好きなので、いろんなものを買っては売った。大切な物、大切だったものも二束三文で売り払ったり捨てたり。CDはかなり買わなくなった。でも、データだけではなく好きな物を手にするってやっぱり幸福なことだ。俺はCDジャケットとかライナーノーツとか含めてそのアルバムが好きだ。

 

 その買ったアルバムは思った通りお気に入りになって、何度も繰り返して聞いている。ピアノが主体なので、こちらの方がより制作時の音楽には向いているかもしれない。

 

 俺は無音と騒音が苦手で、音がしないと眠れなくなってしまった。八時間近く眠らないと頭が働かないので、眠って身体を休めたいのに、同時に眠るのが怖い。様々なことをやっていないのに、明日からそれをしなければならないから。

 ここ何年か、動画サイトで何十回も見た、流しっぱなしにしている、ゲーム実況者の雑談とかプレイ動画を流して寝ている。これがなくっちゃ眠りに支障が出るくらいだ。

 静かに、見知った声がするというのはとてもいいことだ。

 俺はゲームが好きだけれど、本気で自分で作ろうと思ったことはない。スキルや機材がないから。

 でも、やりたいことを見つめているだけでは、どんどん遠ざかっていくのは分かる。

 最近話題の? ブイチューバー? とかいうのをきちんと見たことがないのだけれど、ああいう存在があるというのは、なんだか近未来感があって好きだ。俺の子供の頃にはありえない、まるでゲームのSFの世界だ。

 見ていたゲーム配信者が、フェイスリグという、自分の顔と上半身の画像を認識させて、お手軽ブイチューバーソフト、みたいなのを使っていたことがあった。

 その配信を見ていて、あー近未来だなーって思った。すぐにやめたけれど、ネットのオンラインゲームで、アバターを作って他の人とプレイしている時もあー近未来だなーって思った。

 ゲーム大好き人間なので自分の好みのアバターは何度も作って、何度もキャラクターに名前をつけたけれど、近未来感を見出したのは多分、誰かとのコミュニケーションという要素からだった。

 作り物の俺が、他の作り物のだれかと交流するというのはなんだか不思議なことだ。俺はネットで知り合った人と気軽に会う(お互い望めば)のだが、それとは違う不思議な感覚。それはきっときっと実際には知り合わない匿名性の高い存在と、何かを通じて交流するという行為からかもしれない。

 ふと、今流行りの? そういうソフトや機能でロボット、アンドロイド好きの俺の小さな夢がかなうのかもしれないと気づいた。そう、俺はロボットが欲しいんだ。でも、これって虎が欲しい、くらいの実際には無理でも考えるだけでも楽しい空想であって、実現について考えたりはあまりしなかった(実現するには何が必要かという妄想は楽しいが)。

 俺は詩を作ろうと思ったことがほぼないせいか、詩集が好きだけれど、あまり頭に入ってはいないのだと感じる時がある。だから、世界の詩集をロボツトに誰かに読み上げて欲しいと思った。

 音声読み上げソフト、は沢山あると思う。それでもいいが、長時間聞くときは、やはり自分の好みの声質とかの人がいい。声優とか俳優とかの能力は求めていないというか、むしろ朗読技術はあまりいらない。なんでかって?

寝る時にながしっぱにしたいのだ。機械が我が子を寝かしあやすように、世界の童話や神話や詩集を読むというサービス放送動画が欲しい(似たようなのはあるだろうけれど)。

 で、こういう我儘なのに応えるのって、これって自分で作るのが一番早いんじゃないか? と気づいてしまった。自分で好きな本を読んで、それを録音してアーカイブにあげて自分で楽しむ。できたら何かの映像を加える。

 今までの俺ならやらないと思うのだが、実用性(自分にとっての)があるのだからやった方が多分よい眠りの時間になるだろうという思いが浮かぶ。

 あと、俺、数年前ちょい引きこもってた時に、或る日 あ、ヤバイと気づいて、駅前のスペースで一日一回ラジオ体操と詩の音読をしたんだよね。詩はボリス・ヴィアンの『ぼくはくたばりたくない』

 身体を動かすって、言葉を口に出すってとてもいいことだと思うんだ。引きこもってると体力とか感覚とか全てが衰えるし、どうでもよくなる。だからリハビリの為に口にするんだ『ぼくはくたばりたくない』

 基本的に一人で家にいるだけの人間なので、安眠用動画(音声)を作る一環として、発声の機会も作れるのは一石二鳥のような気がする。

 詩集、童話、読まなきゃな。ああ、読まなきゃならない本がまたたまる……でも、もう少し気持ちに余裕ができたら、配信?朗読? みたいなのについてちゃんと考えたい。できたらロボット、アバターつきで。

 毎日アンドロイドにアバターに眠りに誘って欲しいんだ。

参加して秩序を与える/他人に翻弄される

普段建設的なことが出来ていないから、何もせずに終わる一日の憂鬱と罪悪感がひどく、どうにかしたいのだが、俺が社会性を身に着けるとか適合できる、とかいった宝くじで10万円が当たるような夢物語よりも(随分安い夢だな)、例えば小説が少しかけたとかいうことで気晴らしになる。書くこと。埋葬すること。膿を出すこと。それらを人目に触れられる程度まで、或いは自分でとりあず納得する程度まできちんと精査して秩序を与えること。

 頭の中を整理する為の雑記。

 本が読みたいのに読めない。俺はまっこと、集中力がない。好きな映画でも本でも、これを消化するのに何時間もかかるのかよと毎回げんなりする。好きな人が書いた本は、付き合うのに面倒なことが多く、ついつい読みやすい本を、読書をしたくない時に読む本を選んでしまう。

 そういった本は図書館でまとめて借りる。インターネットで検索ができるから、頼めば所蔵してない本も取り寄せができるから、君の近所にもほら、Library of Alexandria。

 

 パソコンの知識にも数学や理工学の知識やら能力にも欠けているし、ろぼっとアニメもピンとこない(大好きなロボットアニメは『無限のリヴァイアス』だ。だって、主人公が作中に出てくる巨大な戦闘用ロボットに乗れないのだ! それなのにちゃんと主人公の役割を全うするのだ)のだけれど、アンドロイドとかメカとかにはわくわくしてしまうので、よくそういった新書(専門向きでない初心者向けの本)を借りる。

『東大教授が挑むAIに「善悪の判断」を教える方法』 鄭雄一

『アンドロイドは人間になれるか』 石黒浩

 どちらもさらりと読めるし、面白かった。俺とは違い、組織に属している人、或いは作り出す作り上げるということに価値を見出しそれを続けられる人、というのは地盤があるというか、何かを信じられる人なのだという感がしてしまうことがあるのだが(つまり俺は信じられないのだ多くのことが自分のことが。自己嫌悪とかニヒリストとかではなく離人感に近いような感覚ではあるが病気の話をしたいのではない)。講義、というのは良いものだ。俺は多くのことを知らない。そして忘れる。

 この新書の良かった所も、数日前に読んだから、文章で要約したり抜き出したりすると時間がかかってしまい、本来の用途、俺のリフレッシュ兼現実逃避からずれてしまうのだが、 少しくらいは書いておきたい、すぐに忘れてしまう自分の為に。

 先にあげた著作について。様々な哲学者の言葉を引きながら、人間を殺してはいけない、という命題に対してここでいう人間とは「仲間」であり、仲間とは「協力・分業して社会を形成する相手」であり、仲間には身近な存在である「リアルな仲間」と宗教家と信者の関係性や〇〇民族といった「ヴァーチャルな仲間」がいるとする。

 ロボットが仲間になるには道徳をおしえなければならない。道徳をモデル化する際に参考としてモーセ十戒を見てみると、そこには個別の掟(場所や仲間の範囲と共に内容が変わる)と共通の掟(社会形成の為に最低限必要なこと)があることがわかる。この二つを統合する基本原理とは「仲間らしくせよ」であり、それは個別の掟(仲間と同じように行動せよ、その場で変化するきまり)と共通の掟(仲間に危害を与えるな、変わらないきまり)でなりたつ。

 そして道徳を分類して教える、のだが途中で大学の共通教養の講義をうけているような気分で何だか楽しくも、面倒になってきた。違うんだ。この本はさらりとよめるし俺じゃない人がちゃんと要約するべき良い本だ、じゃあなくて俺がだらだら書きたかったのは、シリアル・エクスペリメンツ・レインというゲーム(アニメ化もされた)についてなんだ。

 

 このゲームはレアなPSのゲームで、秋葉原のショップとかで2,3万の値段がついて並んでいるだろう。レアゲーはほとんど持ってない(持っていても売った)俺は何年も前からプレイしたいと思いながら、その機会はないかなと思っていた。

 そして、先日ネタバレ前回解説動画と、別の人が投稿したゲームの動画を見た。ゲームの著作権が、といった話は困難なことになるので、俺は権利を持っている人が有料でアーカイブ化か再販するのがいいと思う、(でもこういうのって誰に権利があるのか難しくなっているのが多いと思うが)で終わりにしたいのだが、そのゲーム解説動画もゲーム動画もすごくよかった。そして小さな寂しさも覚えた。自力でプレイしていない、つまり俺はレインの感動には会えないのだということだ。

ゲームの説明。というかコピペ

存在は認識=意識の接続によって定義され、人はみな認識によって繋がれている。
記憶とはただの記録に過ぎない。

コミュニケーション端末が普及し、Real_World(現実)とWired(ワイヤード)が普通に扱われる世界。14才の中学生、岩倉玲音(レイン)の体験する不思議な出来事が、玲音の視点で展開していく。

このゲームでは「精神病に関するカウンセリングを受けている玲音」と「そのカウンセラーである米良柊子」たちの、日記と備忘録と治療記録を、文章と映像で追っていくという、サウンドノベルともまた違う構造になっているからだ。いわば、ゲームで見るオフライン版ニコニコ動画、というよりyoutube
そのため、プレイヤーは常に2人やその他の人物がつけた「記録」を読み、そこからlainにかかわる設定や心理を類推するよう強いられる。よって、単体ではその意味が分かりづらく、他と相互に補完することでその機能を果たす。

https://www.youtube.com/watch?v=4-PkAQcuZOw

Lain opening [Full]

これを見て惹かれた人なら、もっと長尺のを見たならば、多分もっと好きになるはずだ。

 

 ただ、動画がなければプレイする環境はなかったし、俺はレインを知らずに一生を終えたはずだ。例えばクーロンズ・ゲートという九龍城をうろうろする、自力ではプレイしたくないけれど魅力的なゲームがあった。俺はサントラは借りたが、プレイは動画で見た。九龍城の中をうろうろする、魅惑的でげんなりする内容で、自力だと途中で投げていただろう。でも、プレイしていないくせに、俺はそのゲームが好きなのだ。

 レインも、プレイしたかったのに、見てしまった。楽しかったし、良かったけれど、拍子抜けした。お金と時間と体力の関係上、やりたいゲームの一部しかプレイできないのは分かっているけれど、自分で楽しめたら、その時何を感じたのかな、と、動画を見て、ふとそう思った。

 きちんとプレイをしたわけではないので、物語にたいする雑な感想から、「プレイする」ということが抜けているのだ。

 何を言ってるの? と思われた人は、多分ゲームをしない人だ。ゲームをするというのは数時間、数十時間ボタンを押し、自らそれに参加するということだ。

 学校での合唱曲でも、身近な好きな人が歌った歌でも、好きなアニメの主題歌でもいい。そういった曲は、通常ならその人にとって、普通にどこかで流れていたら気にも留めない物であっても、きっと特別になる。

 自分で参加する、ボタンを押すというのはそれに近い、いやもっと大きな何かを感じる行為なのだと思う。

 サンサーラナーガ2というゲームがある。とても好きなゲームで、それをクリアした俺はすごい空しく寂しく晴れやかな気分になった。ゲームは輪廻転生がテーマの一つになっていて、ほのぼのとした絵柄ではあるが世界観は結構ハードだ。自分の好きな先輩の龍使いの女性の龍が世界を滅ぼす存在で、それを主人公は殺すように言われる。その女性は、龍を守るため逃げる。そして世界は崩壊していく。その中で主人公は上の命令を守り彼女を、その龍を殺す旅に出る。拒否権はない。だって、ゲーム(初期のスーファミ)だもの。

 ネタバレだが、ゲームをクリアすると、クリアしたゲームのデータが消える。これは、最初バグか何かかと思った。ゲームの怖い思い出。この怖さは虚しさは、動画サイトではなく、プレイした人にだけ味わえるものだと思う。多分ゲームをしない人にはゲームをクリアしたらデータが消えるというのを聞いて好意的な人でも「へーすごいね」といった感想しか生まれないと思う。それは仕方がないことだし、俺も多くのゲームのエンディングを他人がプレイした動画で体験した。そしてその中のいくつかに感動した。でも、レインは、もう「へーすごいね」になったのだ。俺はもう初めての経験が出来ないのだ。

 ゲームのバグ、という要素がとても好きだ。ゲームでシナリオ以外で不安になってしまう現象。聖剣伝説レジェンドオブマナでは地獄みたいな所に行くと、必ずゲームがフリーズしてしまった。その地獄みたいな場所が魅力的で、何度も試して何度も進行不可能になった。ディスクに傷があったのだ。数年後に新しいディスクを買った時は、普通にプレイ出来て、ほっとして、がっかりした。

 GBの初代サガでは、主人公が街を歩いているといきなり「いもむし」になった。このゲームでは仲間キャラにモンスターが存在するので、主人公が「いもむし」というのは通常プレイでも普通にあるのだが、エスパーマンの強い「俺」が、バグで「いもむし」になったのはまるでカフカだ!とわくわくした。(リセットしたら「俺」はもとに戻れてほっとした。「セーブ」しなければ、悪夢から覚めれたのだ)

 女神転生2では、ゲームの途中で主人公「俺」のHPの数値がバグって赤い、変な数字になった。このゲームは元々バグが多い。そしてパソコンで色々なことを表示、表現しているという設定なので、数値が変になったのがゲームの中の機材の故障みたいで、なんだか無駄にわくわくしたのだ(これは数分プレイしたらなぜか直った)

 ゲームをしていて、ゲームから放り出される。娯楽で迷子。バグでも、製作者の意図でも、そういう経験にひどく興奮する。これはきっと体験した人特有の感覚なのかもしれない。

 レインというゲームとノエルというゲームに共通するスタッフがいたそうだ。ノエルはレインと違って安く手に入るし、熱狂的なファンはごくわずかだと思う。俺はこれもプレイ動画で見た。でも、このゲームはそれでもいいと思った。

 ただ、プレステ当時の近未来設定、仮想空間を舞台にしたコミュニケーション、というのはとても魅力的だ。

 ウィキペディア先生によると

 

 

なお、本作の開発スタッフの一部は、同じく「アタッチメントソフトウェア」である「NOёL」シリーズの開発も手がけており、両作品の間には「現実世界と仮想世界の境界が曖昧になるようなプレイ感覚(ただし方向性は正反対)」「断片的な情報を元に全体図を想像する楽しみ」「観測システム『思い出君』の存在(本作ではネットエージェントプログラム、NOёLでは自動追尾式浮遊カメラ)」といった共通点を見ることができる。

 

 ということだ。未来のコミュニケーションも、漫画のゲームの中のコミュニケーションも、何だか不便で便利で魅力的なんだろうなあ。

 

 ノエルについての雑な説明。書いた俺の昔の雑記を引くと、

 

 PSのゲームでノエルというゲームがあった。スマホはもちろん、きっとスカイプで無料通話なんてのも一般的ではない時代の、少しだけ未来の話。旅行に出た主人公はビーチで出会った三人の女子高生と「テレビ電話」でやりとりをする。それだけのゲーム。ただ、そのゲームは本当に女の子と会話をすることしかない。その上ギャルゲーとかによくある好感度やらパラメータが見えないようになっている。とにかく女の子と喋ることに重点が置かれていて、それがこのゲームを困難で理不尽な物にしている。とにかく不親切なのだ。

 ただ、PS時代には技術が追いついていないというか、意欲的ではあるが、一部の人しか楽しめない代物に仕上がったというべきだろうか。

 十数年前にこのゲームをレビューしていた記事の内容が今も印象的で、胸に残っている。ライターは文句を言いながら、理不尽な仕打ちに、ゲームの中の女の子に振り回される。言っている言葉が嘘に聞こえたり「エンディング」が迎えられなかったり、つまり彼女があまりできのよくない「プログラム」であることに。彼がそのことで友人に愚痴をこぼすと、友人はこういう。

「仕方がないよ、だって〇〇はそういう女の子なんだから」

 その言葉を聞いて、ライターはまたプレイを再開する

 といった内容だったはずだ。そう、機械と心が通じ合うかのような奇妙な瞬間。好ましい錯覚。

 

 レインは女の子の記録を見ることしかできない。ノエルは女の子と、とても出来の悪いコミュニケーションをとる羽目になる。なんでこんなことをしているんだろう? という感覚。でもしてしまうんだ。

 書いたり、翻弄されたいんだ俺は。

センターフォールドにはハチドリが見る夢

ずっと、小説を書かねば、という思いが回ってはいるのだが、書けたり書けなかったり。あと、ネットで本を注文したり図書館で借りたりして読んだり積んだままになったり。なにかを作り出すには静かな精神状態というか、落ち着いた態度でなければならないのだが、何らかの刺激がないと頭は働かないわけで、様々な本、読むのに時間がかからない本を読んでは、ああ、あれをまだ読んでいないとか、ああ、書く時間がとれない、等と考えるのはいつものことで、まっこと快調からほど遠い。

 気分転換に数年ぶりに『ファイトクラブ』を見る。この映画の前半から中盤まではとても好きなのだ。後半とラストはほんとどうでもいい。だからか、この映画を嫌いな人の意見も大好きな人の意見もそれなりに分かる。

 病院に行って名前を付けてもらうよりも、(比喩表現であっても)利益とか損得を勘定に入れずに殴り合うというのは感情の衝動の欲情の交換というのは中々いいことだ。つまりこれは良い映画。

 

 渋谷の文化村で定期的に行っている、アートバザールに行く。教科書に載っている有名人の作品が所狭しと並べられていて、一つの作品が数万から数百万まで幅広いのだが、その窮屈さ、ピカソとダリとシャガールとウォーホルと赤瀬川源平藤田嗣治横尾忠則と……とにかく有名人の売れ残りを会場内に押し込んでいるのはなんとも貧乏くさく、また、豪華で、見る側としては何だか骨董市感覚で楽しい。材料費数千円以下が数万円になったり数百万円になったり。そういった生々しさをしょうもなさを目の当たりにできるというのは、これはこれで楽しい体験だと思うのだ。灰は灰に。塵は塵に。しかし見る人がそれを美しいと思うのならば、それでいいのだと思う。

 

 会場でじいとハンス・ベルメールのグロテスクな、というか身体がねじ曲がって、出現している銅版画がいいなあと見ていると、ギャラリーの人に「ここにもベルメールがございますよ」と声をかけられ、「ああ、ありがとうございます」と返し、別の作品も見るのだが、中々好みだし一番安いのでセール価格で七万。他にピカソのウォーホルの百万の絵を目にしていたので「七万ってやっす!」と思う。セール会場の数字のマジック。

 ベルメールの絵の近くに、小倉遊亀の花の静物画があり、それもなんとベルメールと全く同じ値段だった。企業のロビーに飾ってもおかしくない小倉の画と、個人宅に飾るにしても来客をどきりとさせる画が、同じ値段で近くに並んでいるというのがなんだかおかしく、しかしその場でそれを話すような人もおらず、ベルメール七万ならタダみたいなもんだから、等と一瞬の気の迷いもあったが、勿論買わずにその場を後にして、あんなの買っても飾ったらヤバイだろ、と思わないこともなかったのだが、ふと、自室の壁に貼られた画(のコピー)のことを思うと、ウォルフガング・ティルマンスやアーサー・ラッカムやマリオ・ジャコメッリやホルストヤンセンギュスターヴ・モロー名和晃平はいいにしても(そうか?)グリューネヴァルトフランシス・ベーコンやアラステアや山本タカトや甲秀樹やらは……と、まあ深く考えても仕方がないし、事情がありこの家に人を呼んだ際には、相手は「ヤバイ」ということには触れてこないから、まあ、いいということにしよう。優しい世界例えば毛布人肌ひとり。

 

 『美しいハチドリ図鑑』というのを借りたのだが、これがえらいよかった。ハチドリがたくさん載っているんだから悪いわけがない、いや、ハチドリが小さいからか、ページに余白が多いのが気になるのだが、それでもいい。ハチドリが沢山! 素晴らしい。

 哺乳類は好きな生き物がとても多く、一番と考えると悩む。だが鳥類で一番好きなのは鷲や鷹や鸚鵡も捨てがたいのだが、ハチドリが一等わくわくする。欲しい。綺麗で小さくて花の蜜を吸うとか最高だ。食用花、というのが売っているが、味がないもしくは味に期待はできない。でも、花々だけを食べて暮らしている人がいるとしたら最高にキュートだ。つまり、ハチドリは本当に素敵だということ(昆虫も花から栄養とってる気がするけど、気にしないでおこう)

 

 俺の家、花園で、空にはハチドリが舞って陸には虎が歩いているなら最高だ。そういう家が理想だ。で、そんなバカげたことをやった。ノイシュヴァンシュタイン城、ルートヴィヒ二世=ヘルムート・バーガー おっと、ネバーランド城主マイケル・ジャクソンはほんと夢を与えてくれる存在だ。気高く愚かであるということはなんと愛らしいことだろう。

 他人はスタアの王様の盛衰を味わえる。他人にとっては、スタアの凡人の傷も輝きも娯楽になる。でも、それを目の当たりにして、自分も何かの当事者でなければと思うようになる。俺も誰かにとってのひまつぶし、カストリ、娯楽、自慰の共犯者。そして俺は俺の当事者。せいぜいかっこつけなければエゴを成立させなければ。

 あと数時間であと何日で仕事に出なければと思うと気がめいって何もかもどうでもよくなることがしばしば。それでも幻覚で目隠し。根本的な治療なんてない。病は常にアップデートされる。

 それでも、生きている、生きていた誰かの姿は痛ましく愛おしい。一瞬のたまゆらの或いは滓のようにこびりつくめまいをくれる。

再読する、 芸術家との対話 矢内原伊作 。アルベルト・ジャコメッティと彼はとても真面目だから好きだ。素直というのはとても素敵なことだ。素直で真面目で居続けるというのは困難だ。だからそういう人々のことを考えると、身を律するような心持になる。

「哲学とは愛知です。物事の根本的な真理を知ろうと努めることです。ところが今日では哲学は一つの狭い分野になっていて、
そこでは自分で哲学するよりも過去の哲学について議論することが重んぜられています。人は私にそういう狭い意味での哲学を
求めていますが、それは私にはまったく興味がありません。私にとって必要なのは、デカルトパスカルについて知ることではなく、
デカルトパスカルのように生き考えることなのです。哲学について学ぶことではなく、人生そのものを学ぶことなのです。この時、
哲学論文を書くことも芸術論を書くことも私にとっては全く同じことです。そしてそのいずれも、究極においては詩になるように
思われます。なぜなら深い心理は詩としてしかいいあらわせないからです。それはちょうど、あなたが粘土をこねて一つの
彫像をつくる、それと全く同じ仕事ではないでしょうか。哲学者も詩人も、粘土の代わりに言葉を用いて真理を刻むのです」

215p 

「おお、君は美しい」と彼は嘆声を発する。「とらえるには美しすぎる、それは私の力を超えている」と。美しいのは私の顔ではない、
彼が見ているものである。モデルは誰でもよかった。すべてのものが彼には、「とらえるには美しすぎる」ものとして
見えていたのである。

 

 ふと、ファイトクラブに自分が感動しないのは(殴り合うシーンとかにだけわくわくするのは)自分が社会や環境を変えようという欲望、または自分が認められたいという欲求が希薄だからかもしれないと思った。あくまで自分のエゴイズムの問題だ俺の場合。多くのアメリカの映画の社会性がある部分がどうも苦手だ。俺、放り出してくれる映画が好きなんだ。でも、放り出されてばかりで、なにもかもどうでもよくなることもしばしば。

 何かを変えたいとか愛されたいとか認められたいとか、そういうのが希薄になると、とても精神的にグラグラぐだぐだぐわんぐわんだ。俺の身体はきっと生きたいと思っているのに、俺は様々な事柄から逃げて逃げ延びているのだ。

 そして自分の手にはエゴイズムと幻覚、と思うと何だかしょうもない。しょうもないけれど、手持ちのカードで生きのび誤魔化すしかないのだから、幻覚の先は多い方が良い。

https://www.youtube.com/watch?v=jKq_asCPIJ0

 

Puzzle Bobble Theme PC CD-Rom version

 

 パズルボブルのテーマ曲。こういうチープな遊園地みたいなサウンドがとても好きだ。カラフルな泡を消すだけのゲーム。かわいいむなしい世界。俺の生活。

 

 

 この雑記(本文)以上に適当につけている題名は何をしよう、と思い頭に浮かんだのがセンターフォールド。 

 

https://www.youtube.com/watch?v=HD_VVtgyNLk

堕ちた天使  J. ガイルズ・バンド

 

 こういう曲元気になりますね。アメリカ万歳ファイトクラブ万歳!!! 健康に良いから多分、こういうのも聞いていこう。そうしよう。

魔法使いの子供たち

日銭稼ぎをしていると、まっこと本を読んだりだらだらしたりする時間がないと感じるし、気持ちの余裕がないと小説を書くのは難しい。

 

 それで家にこもっているからといって、何かができるとは限らない。何もできないで終える空虚な一日の重みは、年々深くなっていく。雑用で向かうサラリーマン街はなんだか白々しい顔つきだ。サラリーマン街が背広の群れが何だか異質に見える俺だけれど定期収入は欲しいというか自分で稼がねばならないわけで、それができないというのは何だか気がめいってくるのだが、それでもふらふらしていないとおかしくなる。一生ふらふらしていたい、等と無責任なことを考え、それが現実逃避でしかないのだと自分でも思いながらながら、なじめぬ土地で聞くBIS階段はなんだかキュート。

 

https://www.youtube.com/watch?v=rukQPyZrV8w

BiS階段 - PPCC / nerve / eat it

 

  テレビでナウシカが放送されるらしい。家にはテレビがない。だからレンタルした。ナウシカを見るのは何年ぶりだろう? たしか、最初に見たのは、小学生の頃にテレビで放送したからだと思う。自分でレンタルしたのは初めてだ。

 

 ジブリの映画は千と千尋の神隠しまでは好きで見ていた。その後の作品も、一応レンタルで見たのもあるが、自分の中でジブリといったら千と千尋までで、それは初期のジブリ作品がどうだ、等といたいのではなく、小さい頃に見たファンタジーの豊かな記憶が懐かしく、ファンというわけでもないのだが、たまにその時の記憶に世界に会いたくなってくるのだ。

 久しぶりに見たナウシカは、ナウシカの敵対している組織の意見も一理あるのでは、と小学生の頃には感じなかった感想もわいてきた。でもナウシカはかわいい、いい子だと思う。

 昔のジブリの映画を見ていると、小学校の時の美術の先生を思い出す。

 植松先生。黒のワンレン、濃いめのメイク、銀のアイシャドウ、黒い丈の長いスカート。北風のようにひんやりとした、落ち着いた声。小学校の先生というよりも、アーティスト、いや、どこかの魔女といった雰囲気の人だった。その頃の俺は、アーティストが副業で学校の先生をすることがしばしばあることを知らなかった。

 そして植松先生は非常に優しい先生だった。授業中に優れた生徒の作品があると、皆に見せてその感動を伝えてくれた。先生はとても人を褒めた。先生が心からその言葉を口にしていることはすぐにわかった。というか、学校の先生でこんなに人を褒める人はいなかった。優しい魔女なんて、なんて素敵な存在だろう!

 

 先生が美術室に飾っていた複製原画、シャガール、クレー、ミロ。その絵のことを俺ははっきりと覚えている。先生は「図工」の時間ではあっても、その絵を鑑賞して好きな点、気づいたことについて紙に書く、鑑賞する授業をした。

 先生はみんなが静かに絵を描くなら音楽をかけてあげますからねと言って、ジブリのサントラをかけてくれた。教室が静まり返り曲が流れるとゆっくり、夢見心地になり「あ、今ラピュタだ」「魔女の宅急便かな?」「あ、今の曲なんだっけ」と心の中で思った。

 先生は美術と、そして子供たちが好きだったのだと思う。子供のことが好きな先生が、俺は好きだ。仕事を楽しんでいるから。仕事に真面目だから。俺は学校が好きではない。良い思い出よりもはるかに嫌な思い出がある。でも、こんな素敵な先生がいたという出会いがあると、学校の全てを否定なんて絶対にできない。勿論他にも良い先生、お世話になった人もいるし、二度と会いたくない人も。学校は人の集団は嫌いではないけれどやはり俺にとっては居心地が悪い場所。

 小学校の時は担任の先生にしか年賀状を出さなかった。だから美術の植松先生には一度も葉書きを出さなかったし、彼女が本当に素敵な先生だったと気づいたのは20歳を過ぎたころだったと思う。

 たまに、もう会えない好きだった人のことを考える。俺は気が多くて飽き性で情緒不安定なので(ひどいな)折に触れて好きだった人のことを思い出し、忘れる。それがいいことかどうかは分からないが、自分の生き方を変えるのは容易ではないのだと、おっさんになって気づく。

 過日、世話になった人に会う用事があって、百貨店でセールをしていて、砂糖菓子、アップルシナモンほうじ茶、栗最中、ミカンのジャム、らを目につくままに買い求め、これらを全部あげるのは「ちょっと見つけたから」等と口にするには量が多く何だか気恥ずかしい思いがしてきて、でも「セールだったから」という言い訳と共にそれらを渡す。相手が喜んでいたならば、深く考えることはないのだきっと。

 別の日、雑貨屋の前を通り、調子に乗って、小さい子のいる人へ猫のパペットと花柄のペーパーナプキンも買い求め、何だかそれも面映ゆくも、あまり考えないようにしよう、と布製の猫の毛を撫でながらふと、川端康成ノーベル文学賞の時に引いた白楽天の詩を想起する。

「雪月花の時 最も友を思ふ」

 琴や詩や酒を楽しんだ友はみな分散して消息も聞かなくなってしまった。
 雪の朝、月の夜、花のときになると君のことが思い出されてならない

 

 忘却は恩寵、とは川端の言葉だが、その言葉は学生の俺の身に深く染みて、その言葉を想起すると冷たい伽藍に抱かれているような心持になる。

 忘れてしまう過ぎ去ってしまうただ、季節の移り変わりの折りには誰かのことを君のことを思うのだ。

 にして支払いは常に発生して待ってはくれない。ぼんやりと、家にこもっていたいのに。ロマンチック・センチメンタルは学生の為のゆりかごかもしれないが、幾つになってもそれはお子様ランチのような使い古しの毛布のような気恥ずかしい輝きをたたえている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=5_dqFkHvzeA

キュート・ポップ ヒゲドライバー

言ったり黙ったり 飲んだりこぼしたり 明るく情緒不安定

否定してるとキリがないから 全部うけとめていたいな

やましいこともなくはないから 全部抱えていたいな

 

 それで、何であっても、キミが好きだと歌うとてもキュートな歌。

 好きな気持ちがあるならばきっと平気なんだ今は。小さい頃からのか細いインスタントな魔法。俺に魔法を教えてくれたのは、多くのもう会えない人達。