Please stop!

「僕はその二冊(ベストセラー小説)を埋めた。目下の問題はなにか読むものを探さなければならないということだ。読書の無い生活は危険だ。人生だけで満足しなければならなくなる」

 ミシェル・ウエルベックの『プラットフォーム』を読了して、少し寂しい。邦訳されている彼の小説で、あと読んでいないのは一冊だけになってしまった。

 露骨な性描写の多さに少し辟易するけれど、俺は意地の悪い作家が好き。俗人の瞳で俗人を徹底的にこき下ろす。そんなに嫌ならば関係を絶てばいいのにとも思うが、それをしないのが俗人らしくていい。

 ふと、意地の悪い、と言う言葉で連想されたのは、デレク・ジャーマンファスビンダー、グリナーウェイ、あれ、全部映画監督、で、フランス人がいない。

 日本人とフランス人の作品は割と似ていると思う(あくまで俺の中のフランスと日本)。それはどちらも陰気/狂気と陽気/滑稽で出来ているのだ。しかしフランスと日本には変な思慮深さや小心がある。ファスビンダーの映画のように、鑑賞者に小便のような汗をかかせるウエルベックは貴重だと思った。日本人で意地の悪い人は小心者が多い(それは意地悪というよりも「ボクスゴインダヨ!」と毎日言わなければ生きていけない人だ)。

 古川日出男の小説を読むが、二冊でお腹一杯、だって、「喋る猫」が出てくるんだよ!猫は喋らなくても可愛いし、もっと言うと、動物は喋らないから可愛いのに。

 日本では「猫が喋る」(しかも日常との親近性が高い)小説が人気だ。俺は童話もファンタジーも好きだけれど、それはどちらも日常から乖離されていることを知っているからだ。身勝手な自己投影をするなんて、猫やドラゴン達に失礼じゃないのだろうか?ファンタジーの住人は、あくまでファンタジーの世界で生きているからこそ素敵な存在なのだと俺は思う。

 最後に同意見の一節を引く

「結局のところ、僕は現代美術をほとんど評価していない。僕の知っているアーティストのほとんどは<企業家>とそう変わらない。未開拓の新市場がないかを注意深くあたりを窺い、空いたスペースがあればすかさず陣取ろうとする」