ごゆるりと

 東浩紀の『キャラクターズ』を読む。俺はそこそこ彼の著作に目を通している。あまり好きでは無い人の本を、それも何冊も読むことがあって、それはその著者の熱気といった物に惹きつけられるからだと思う。それは、東が糾弾する、文学的なセックスと死を求める大衆に似ているかもしれない。

 知的スノッブの分かっている真面目な悪ふざけ、といったこの本は良心的な糾弾(結局「純文学」って、私小説的として、セックスと死で賞や権威は延命しているよね)やキャラクターの可能性、といった物への期待を主軸にして、色々手を替え、品を変えて読者、というよりも作者自身を納得させようとしているように思えるのだが、その一つ一つがどこか「美味しいコンビニ弁当」のような印象も受けた。俺は未読の人だがライトノベルの作者と共著という形を取っている。それがどれだけ効果的だったのか、俺は分からないし、キャラクターズの題名のわりに、阿部和重らを下敷きにした、構成的すぎる、書割でもいいんじゃない?といった感を受ける「小説」。誤配も韜晦もコンビニの惣菜のように登場(結構おいしいよね、特にセブン)。何よりの欠点は、彼の描き出す「キャラクター」が、村上隆の「キャラクター」のように、批評的歴史的にしか魅力的ではない部分だろう。退屈な映画なら欠落の分だけ書割の方が優れているように、要点の箇条書きや創作ノートで要を成す。

 俺は彼に確固たる美的感覚が無いように思える。誰にだって美的感覚はあるのだものだが、東には「実力のある」阿部和重が、大西巨人からの小さな苦言に「僕は文章が下手ですから」と返したような意味での、美的感覚が欠けていると思うのだ。それはお寒い、彼らが解体させようとしている文学的なもの、と言い換えられる。

 俺はそれを詩的なものという名前で呼んでいる。俺が敬愛する川端康成ジャン・ジュネは詩的な作家だ。それ故に、彼らを褒める言葉はことごとく大失敗する。失敗ではなく、大失敗だ、元々文章で文章を捕えられるという点がおかしいのだ。一定以上の妥当性で満足してはどうだろうか?十分有用だし、それでも好ましいものではないか。

 東浩紀の文章や、彼が褒めるライトノベルの作家の文章に、俺は「詩的」なものを感じない。これはライトノベルだからとかで下に見ているのでは決してない。重要なことだ。映画のカメラワークが、漫画のコマの大きさが、間奏の時間が自分のセンスでは気に入らないのと同じだ。

 「純文学」は権威主義の犬で結構だ。芸術は金持ちの権威付けや暇つぶしに始まったのに、何で重荷を負わせるのだろう?それを自分の文学とは峻別しないで、拘泥するのは有意義ではあるが、文学界とは切り離されている俺には単なる徒労にしか思えない。別に私小説の、自然主義の枠に入ろうがアナーキーだろうがアバンギャルドだろうか構わない。俺は作品のみで解決される詩的連続性を文学に求める。おっさんらが褒めたりとか、どうでもよくないっすか?皆が皆これじゃあ駄目、かもしれないれど、おっさん達の世界がそんなに大切?名状しがたく、恣意的な感性、それで結構じゃないか、何で他人にそれを共有して、理解してもらおうとするのだろうか?

 東浩紀は真面目で熱っぽく、俺とは色んな価値観が異なるから、次も読もう、希望としては、今回とは違う、彼の描く魅力的な「キャラクター」小説を読んでみたい。