ノートリックはポップソングの中だけにして

 髪がひどいことになっていて、渋々美容院に行く羽目に。色々変えるのが好きで、割とそれがいいことだとは思っているけれど、美容院に関しては信頼できる人を見つけられた方がいいと思う。だって、髪質とか顔の形を見て、判断して切ってくれるのだから。一見さんではなく、固定客の方が当然対応だって良くなるし。髪だけでなく、身体を他人に任せるのならば、やはり信頼関係はとても重要になるだろう。

 俺が適当にネットで調べて予約をして向かった美容院では、なんと、予約をした美容師が遅刻をしているということだった! 初めてのことだったのでびっくりした。別に初めてだし担当者が誰でも良かったのだが、ここの美容院って大丈夫なのかと少し心配になる。また、別の美容院を探す羽目になるのだろうか?

 なんて始まる前から心配をしてしまって、そして、代わって担当してくれた人は当然初対面で多分俺の方が年上っぽいのだが、フレンドリーにガンガンくる感じの女性で、でもそれがあんまり嫌な感じはしなかった。割と的確だと思ったのもあるし、はっきりと言う人のほうが好きだし。こんな所でお世辞を言われるのも疲れる。

 ここ数年はころころ変えてしまっているのだが、俺が美容院に行くと、異性よりも同姓の方がお世辞をいってくる割合が高いように思えるのだが、そういうものなのだろうか? 男性が行って男性が施術するのと、女性が女性を施術するのには、合間の会話にやはり傾向があるのだろうか? 女性美容師はホステスっぽくないが(というか、たくましい人が多いような。もちろんいい意味で)、男性美容師って割と雰囲気がホストっぽいような気がするのだけれど。

 自分で髪を切った、と美容師さんに言ったら、「もう絶対に止めてくださいね」と言われた。男性の美容師さんに告げた時は、皆苦笑いを浮かべてやんわりと否定をしてきたように思える。

 でも、髪を切るのは楽しい。それに資格を持っていないのに他人の髪を切る、というのはとてもセクシーな行為な気がする。多田由美の短編(男同士で切る)やナナナンキリコの『BLUE』(女同士で切る)はとても好きだ。鋏が入って、髪が散らされるのは華道に近しいものがあるような気になってしまう。気の置けない人の、カーヴィングの素材になれる、ような。

 髪は伸ばしたいので大して切ら(れ)なかった。でも、やはり切ってもらってよかった。自分ではそれなりにしていたつもりでも、それでは不十分らしく、きちんとケアしなきゃなと思う。内面を変えるよりも、外面をそれなりに見られるようにする方がずっと楽だしね!(ゲス)
 
 ちらほらと図書館で本を借りつつも、家の中の本の処理や再読。本を再読したときに面白いのは、読み進めているうちに以前読んだときの感想や内省まで蘇ってくることで、閉じ込めていた記憶に触れるような心持になる。

 でも、やはり新しいものに触れなければという思いは強く、だって、知らないことは山ほどあり、その間にも魅惑的で不実なリストは増え続けていくのだから。


 久しぶりに古井由吉の著作、『槿(あさがお)』 を読む。個人的には日本の現役の作家で純文学といえ名を(それが形骸化していても、気恥ずかしいものであったとしても)冠してもいい数少ない作家の中の一人だと思う。って、もう七十歳過ぎだけどね!

 純文学というか、様々な時代の人の読書に耐えうる作品と言うのは、堅牢な文章と仄かな色気で成り立っているように思える。定義などしようがないし、しても意味などないのだが、突き放すことも没入することも恐れぬ姿勢から、作品に向き合う、作り上げることが始まるように思えるし、それが出来ているような人、作品って、かなり少数だと思うから。もちろん、そんなの無くても、良いものはいいのだけれど。

 でも、少し彼(ら)の作品に瑕疵があるとすると、古井であっても、女性が男や物語の添え物というか書割っぽいような気がしてしまうことだ。こういった点では現代の作家の方が分があるように思える。

 でも、人物が書ける書けないというのも瑣末な問題だとしてしまえる筆力は、優れた作品を作り上げている。結局、人が出来ることは限られているし、興味があることにしか能力は発揮出来ないし、ただ、自分の能力を見誤らないことなら出来る。とても優れていても、何らかの瑕疵があり、しかし彼らは傷痕さえも星座に変えてしまう、かのような。

 久しぶり、といえば保坂和志の著作『カフカ式練習帳』を読む。俺は彼の著作を一時期まで全部読んでいたというか、多分二十冊以上は彼の本を読んでいたのに、さほどファンというわけでもなく、文庫は持っているけれど、図書館で新刊入っていたから借りよう、といった気のない消費を重ねていた。

 それは彼の著作やエッセイが大変に健康的、つまり地に足ついた人物ばかり出てくるから、ちゃらんぽらんな俺としては少し嗜好が違うなあと思いつつも、惰性で消費をしていた。

 そのくせ『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた 』なんてエッセイを書いておいて、自分は三十過ぎまできちんと会社勤めをしていてデビューをしていて、しかもちゃんとした収入がありながらプー太郎が好きだとか、ちょっと小ずるいとまではいかなくても、健康的過ぎるのもどうかと思うこともしばしば。

 でも、どうでもいい人のを惰性で続けるほど俺はお人よしでも集中力があるわけでもなく、彼の文章が好きなのはずっと思考を続けている、その過程や内省の後にも注視している所で、

 この著作ではカフカ的、というか、引用と断片で成る、彼が以前に書いていた思索的エッセイ『小説の自由』三部作の短編集化といった趣で、楽しく読むことが出来た。前述のエッセイを再読しなきゃなあと思う。それはきっと、保坂と考える、対話をするような時間であるだろうから。

 この作品の中で保坂の意見らしき、気になった箇所を引用する。



 因果関係というとき出来事は必然の色を帯び、必然の拘束の中にあり、息苦しく、とてもつまらない。それはミステリー小説のことであり、大半の純文学のことでもあり、
人の最も通俗な思考の様式でもある。社会の出来事を必然と捉える怠惰。

 カフカは逆算の思考をしない。カフカの思考は原因特定ではなく、ただ無闇に前へ進む。カフカが難解とされる理由はそこにあるのかもしれない。それは”不条理”などでなく、逆算の思考ではないということだ。逆算の思考をしないとき、人の考えは子供っぽさを獲得する。




 これはかなり同意する意見で、多くの作品は驚きを与えないように、(エンターテイメントにおける驚きは快楽の為にあり、決して不快にはさせない)消費されるように出来ている、つまり何も傷つかない、フェイクの刃で成り立つ争い。フェイクであることが悪いのではなく、フェイクである自覚が無い(それらは金銭的な成功、或いは帰属意識によって免責されてしまう!)ということが問題なのだ。ご都合主義が悪いのは、都合がいい、偶然、かのような切り取り方が悪いのではなく、要するに作者が矢面に立っていない、傷を請け負わないということだ。


 少し話が込み入ってしまうのだが、これは美味しい料理を作りもてなすといったこととは性格が異なることで、料理は人の為に作られるものであって、人を試す為には無く、誰かに何かを為す職人的な職業は自身との対話により恐ろしさを自らの内に獲得するだろう。

 観察は、突き詰めるならば酷く、恐ろしく厄介なもので、しかしそれ無しには何も生まれないし、「なるべく正確に」見たいと知りたいと思うならば、妥当性の高さが肝要になる場面があるとするならば、責任を負わなければ、見なければいけないし、賢くならねばならないということだ。そういったことから自分は「特別」だとして勝手に免責をしていると、がっかりするということだ。身体の一部は一生徴兵されているのだ、きっと。

 あと、保坂は俺の大好きなジュネについて一節を割いていて、刺激的な、「(いわゆる)文学的」なことは何も起こらない日常の中で(しかし職は家はあるだろう)見ることを考えることを続ける保坂と、親なしのおかまとして路上と刑務所をいったりきたりして、裏切りと綱渡り芸人と義勇兵と褥を共にするジュネとは作風にはかなりの隔たりがあるのだけれど、保坂は作中の人物に

 「人の外面や声色、仕草、口調、着こなしに、つまり筆跡や絵筆のタッチに、強く惹かれてしまう(それらは形ではなく試行錯誤である)あなたは不良少年の若い肉体に心を奪われるジュネと同じものを持っている」というようなことを語らせている。

 さらにはジュネがいわゆる耽美主義だとか性倒錯者による支持されていると言う点については、「固定した外見にしか反応しない感受性であり、レジスタンスと対独協力義勇兵ナチスの間を軽々と渉り歩くジュネの仕草への感受性とは無縁のイデオロギーでしかない」

 と喝破し、ジュネはサドやマゾッホのような変態ではなく露骨であることを、変態はイデオロギーで露骨は観察だと続ける。

 でもここには少し注釈というか、俺には意見の相違があり、変態がつまらないのはフェティッシュが幸福のためにあるということで、本当に変態であるならば、観察もしなければならないし、ジュネは変態的で(あるかどうかは瑣末な問題であり)、優れた観察者だということだ。

 変態的、倒錯的な興奮における(社会における)優位性は、つまり越境にあり、新しい国に足を踏み入れてしまったなら、幸福と退屈があるということだ。それを望んでいるのならともかく、作品として提出するならば、適宜、裏切りがフェイクではない肉を裂く刃が求められることだろう。自身のフェティッシュの為にあるものは健康的であって、一般的な用法ではなく、変態的であるのならば、肉を刺す痛みが、逃げ去る心持が必要になるだろう。


 好きな人の文章について考えると、何だか気分が明るくなって、これから先がどうでもよくても、酷く、明るい気分に。九月になってしまっても新宿のアスファルトは太陽に焼かれ、熱く嫌な臭いを発して、日中も、夜になってしまっても、少し、盛りを過ぎた賑やかさで。

 ipodからはさわやか過ぎる、スネオヘアーの『no tric』が流れる。
http://www.youtube.com/watch?v=mbJ_BxWTYp0

 どこまでも 謎めいて 
 少し甘すぎるmusic飲み干して
 続くレース踏み出してく
 訊かないで何故なんて
 何一つノートリックな僕たちさ
 不思議なくらい明るい気持ちで

 上手く溶け合ったなら
 すぐに声をかけて
 微笑むだろう




 不思議なくらい明るい気持ちで俺も。上手くいかなくても、微笑むくらいならば。