騙してだなんて言えちゃうの?

 


 





昼間に歩く件の、新規オープンのラーメン屋の前の小さな行列を横目に、並ぶ花輪の名前にも目が行くと、芸能人が知人の知人から「代金は出すから名前だけ貸して」と言われることを知ってから、数多く並んだここも、まあ、そういうものなのかなと下衆なことを思いつつ横切ると、俺の通った少し後で花輪の一つが急に倒れて、自分が倒したかもという思いに駆られ、触れてすらいないのに、こういう時に音楽を聞いたままだと反応が遅れてしまい、もしかして自分がという疑惑を完全にはぬぐい切れぬまま惰性で足は進み、その内に頬に当たる強めの風に春の疾風を覚え、少しは救われたような、そんな気がする。花々が無残でも俺が出鱈目でも、気を強く表面上だけでも、

 とかいう詐術めいた態度が活字を追う眼差しにも関与しているかな、と思うのは文学、美術評といったものを目にする度に、それが専門的であればある程、惹かれ、また苛立つ頻度が増すと言ったところで、それは彼らが仕上げてるということにそしてそこに詩的領域を(大抵)無残に犯しているということに対しての苛立ちであって、

 仕上げている、つまり原稿としての体制、商業レベルで流通(及第)し得る文章らしきことは分かるのだが、ただの豊かな論文めいた文章、というよりも最終的には及第が目的の文章は読んでいても匿名性の高さだけが一番の美徳というような感がしてしまい、かといって挑戦的、

 といってもいいような文章、他者(作品)に対する文章の、肝心な部分でのジャーゴンの造語の無様なマニエリスム的自己陶酔には辟易してしまい、俺の解読不足かなと思い読み進める内にそこには何の閃きもないのだと思った時のあの徒労感は、Scavenger Folk<ゴミあさり>、いや、グレイヴディガーの身としても厭な気分になってしまう。

 しかも名付けえぬものについては黙さねばならない、なんてことを一度も感じたことが無いとして、それでいてその言葉が詩的領域を犯す、つまり詩的言語での詩的な作品に対する言及はとてもセンスが必要で、要するに他者の詩は詩人が評するべきだろうし、しかし専売特許ということでもなくそんなことは誰も求めてなんていないから批評という名の恋文めいた文章を読まされる時に、それが恋文のコラージュであるならば変な既視感を覚えてしまうし、真面目な他人の恋文は退屈でしかないし、しかし迫真に迫る面倒くさい告白は恋文は、俺だって黙ってしまう。

 批評は復讐心から為されるべきだという俺の考えはおかしいだろうか? どこかに、それに対する嫉妬が羨望が憧憬がそして思わず口をついてこぼれてしまう言葉たちが批評を作り上げるものではないのだろうか、

 とか思うと少し生真面目に過ぎるかもしれない、のならば恋文を下男か下女の肌に縫い付けて、服を着せ、恋人へと贈るような、そんな心持でいて欲しいな、

 とかいう身勝手な希望を書き連ねた後で『信仰と美のかたち』の中の谷川渥のイコン(聖像)とレリック(聖遺物)との一致、という文章に目がとまって、これはジュゼッペ・サンマルティーノのヴェールに包まれたキリストという作品についての評なのだが、俺の宗教美術に対しての浅学さも手伝い、この言葉をすんなりと受け入れる、石に彫ったとは思えない、あのベルニーニの作品のような、陶酔的硬質の薄衣、聖人。

 これを読んだ時に想起したのは、宮下規久朗の『刺青とヌードの美術史』の記述で、引用が面倒なので、部分、雑な要約をすると、
明治以降日本画家や洋画家が刺青を入れた人を描かなくなった。
それは刺青がそれ自身で完成した作品であるという面もあるだろう
また刺青は平面というよりも複雑な曲面を持っている人体イメージに依拠しているから生身の動きの中に刺青の美はある。

 といったもので、何となく納得しつつも、著者の「知人」に見せてもらった死者の刺青(の皮)の醜さへの言及が面白かった。また、日本において一時期は下火になった刺青と美術の関係は、谷崎潤一郎永井荷風の出現により粋を吹き返し、写真の登場でまた、日の目を見るようになったそうだ。しかしその中で<刺青>を映せている写真は少ないらしいのだが。

 元々肌に彫るものだから、肌が駄目になると必然的に線や色が駄目になるというのが根幹にあると思うのだが、それにしても人の身体の上でのみその美しさを発揮するというのも、なんだかほほえましいような、酷薄なような気がする。

 初めて、とはいえ写真上でしかないのだが、バレンシアガのドレスを目にしたときに、彫刻作品のような美しさに圧倒された。彫刻作品のような、ドヌーブ、グレース・ケリーソフィア・ローレン、よりはむしろグレタ・ガルボを想起した。艶めかしい彫刻、遠くから見つめていたいような触れてはいけないような触れてみたくはないような、そんな存在。


 上等な、軽薄な、繊細な、洋服を前にしたときのあの胸の高鳴りというものはとても好きで、それはきっと俺が洋服とたまゆらの共犯者になれるからだろう。洋服はあんなに美しいのに、自立できないのだ。人に着られて初めて生を受ける(もしそうでないのならば現代芸術とかなんとか言えばいい)。

 人間に反抗するような洋服でも、様になるような人というのは確実に存在していて、それは猛獣と調教師のような、いや、俺の存在でドレスダウンして完成する衣服というものに、厳かな気持ちで、友達になった、なれたような妙な背徳感を覚えるのだ。ビューティーサイボーグパーティーピープルファッションビクティム、に、つまり一兵卒に為れたかのような気分は悪いものではない、そう、胸の上の十字架に語りかけたいような、幼稚な多幸感も湧きあがってくる。こんなにも美しいのに君はただの布切れ、俺も袋つき骨。

 聖遺物というものがもし、あるのならばそれは素敵で、俺だって少しくらい欲しいかもしれないのだが、それが嘘だと証明されていても(てか、普通の人はそう思うだろ)なおも大切にされ、異なる宗教においても、今わの際の仏陀が弟子に「わたしが亡くなった後は サンガ(僧団)における細かな戒律は廃止して欲しい」

 と告げても戒律の解釈をめぐり組織は分裂し、結果新たな戒律が増える、

 という点もとても興味深く、水商売の彼/彼女相手に「騙されてもいい」と思いながらもどこかで酔ってしまっている、酔えている方々みたいで、微笑ましいといえるだろう。 
 
 ただ、酔いながらも醒めることが求められているのが創作者、というのが俺の態度で(というか「出来る」なら当然何だっていいと思うけど)、アルコールや薬物の助けを借りなくても何だか寝てるんだから起きてるんだか分からない俺、もやっぱり何かに頼ってしまって、「騙されてもいい」彼らと俺も大差ないだろうし、そういうのって人間的でほほえましくって健康的でいいよねとか思うんだけれどもそのためにはもっと、というまともに働いていない言い訳を