あなたのとりこ

クーラーのきいている場所にいるから、よし、ボサを聞こうとジョアン・ジルベルトの曲を流したのだが、イントロの心細いギターで、もう駄目になってしまい、理由は無いけれど代わりにミッシェル・ポルナレフを聞く。
 
 大層な思い出がくっついているわけじゃないが、とてもジョアンを一人で、自分の意志で聞くなんて無理そうだ。はっぴいえんどもキツイ、空気公団なら、ぎりぎり平気か。

 草間のアート作品、ではなく、多分唯一の著書『クリストファー男娼窟』を読む。中上健次が絶賛したらしく、まあ、そういう内容の話だ。とても片手間で書けるような文章ではない、と思っていたら、あとがきで、彼女は若かりし頃作家か芸術家で悩んだ、と書いてあって、少しだけ納得した。

 バタイユの著作で一番好きな『眼球譚』が療養かなにかの一環で書かれたように、草間に襲い来る強迫観念は文章の上でも妖しい爆発を見せた。中上の長編エロ話『賛歌』よりも、短編の『クリストファー男娼窟』はずっと素晴らしいように感じられた。簡単に猥雑さは惰性や倦怠に堕す。長編の官能ならば、川端の通俗小説が一等だ。

 この草間の著書には三作品が収められている。最初にある表題作に、荒削りながらにやにやして読み終え、次に進む、けれど、なんてことはない、凡作だった。作家ではないからこの位かけていれば十分、というものかもしれないが、単に観念で押し切る、荒さだけが目立つ小品だった。表題作の乱暴な綱渡りのような文章は、ありふれた奇跡のような、美しい光芒だったのだろうか。

 岡本かの子もそうだが、豊満なナルシシズムの世界は心地良いものだ。あの日、冷えた身体に俺の瞳は熱かった。でも、それは才能のある人物(その人にとって)のものに限られる。

 嶽本野ばらという作家がいる。彼や彼のファンは、虜になるのを楽しんでいるのだな、と感じる。俺は嶽本と趣味がかぶっている部分がある、趣味が似ている人のお喋りは割りと楽しいものなのだ。

 彼は何度も「酷い世界で闘う美しいボク」なんてものを書く。稚拙とかいう問題を抜きにしたとしても、ツッコミを入れつつ読まざるを得ない文章。四十の男が自分自身を「野ばら」と呼ぶ、それを許容できる人しか、おそらく愛読者になれないのではないか。

 耽美とか言われる人達が、揃いも揃ってナルシストばかりなのは何故だろう?岡本や草間のナルシシズムは陽性で力強い、だから俺は余計な感想を抱かない。でも「野ばら」的な人に触れるたび、指先には小さな落胆や苛立ちの棘が刺さる。耽美という辞書に回春なんて単語があるのか?俺は耽美に期待をしていたのだ。耽美を神々しい何か、と思っているのかもしれない。

 もし耽美というものが人の形で存在するとしたら、金持ちは蕩尽し、貧乏人はさっさと自滅するしかないのではと思う。人間には余剰が多すぎる。

 俺は耽美に憧れていたけれど、それには成れず、また、陽性のナルシシズムを持つことも出来ない。信仰心、信仰心と考えつつ、ジョアンを聞こうかと思いやはり思い切れない俺は出口を見失う。