ねろはレベルがあがった! さちしんが2さがった!

多田由美を知ったきっかけは何か、全く思い出せないのだけれど、高校生の時に狂った、狂うように買った。とはいっても、古本で手に入る範囲、という程度なので、同人誌の類とかは持っていない。
 
 多田由美の画が表紙だったから(それに安かったから)、中身も見ないで雑誌を買った。高校生で初めて買った時には、BLとかいう言葉も知らなかったし、「男同士でやらしいことしとるでしかし!(横山やすし)」の本を買っちまった、と、何とも言えない気分になった。

 家にはEDGEとOPERAが数冊ある。初めこそ思う所はあったが、俺が買った本があまり激しくないものだからか、BLだろうが、普通の漫画と同じく読めた。ある本には読者は位相を求める、とか書かれていたのだが(夕方のニュースでさえそういう「代表」の振りをする人が説明してくれたりする)、俺にとっては「格闘の無くなった少年格闘漫画」のように思えた。あくまで少女漫画の系譜上にあるのだとは思うが、俺は少女漫画に詳しくないので、ジャンプのバトル漫画からバトルが抜き取られたらこんなのかな、と思った。

 「バトルが無くなったバトル漫画」となると、少年は本来バトルへと捧げるべき熱量がくすぶり、剣も魔法も特殊能力も敵もいない(いてもいいけど)世界でうじうじと悩み、日々の小さな決断を迫られる時に、
「あー、うん、別にいいよ」
 とか言う羽目になる。

 あくまで自分の嗜好からではあるが、女性漫画家は「あー、うん、別にいいよ」に至る、或いはただの逡巡を、きちんと漫画の中に折り込むことが出来る人が多い(それは大塚の言う少女マンガ的、「かっこ」、モノローグ的でもあるから。)。ただのバトル漫画にそれは無い。逡巡があったとしても、その多くは解決が用意された逡巡であり、「健康的少年」の懊悩である。「あー、うん、別にいいよ」はメロドラマへの親近性が高い。

 メロドラマとは「でも、愛している」「でも、愛していない」の織物だと思う。(蛇足だがBLは必然的に「でも、愛している」の形態の中にある)俺はメロドラマが好きだが、現実のメロドラマ的なものには余り興味は無い。それはもはや小さな幸福や小さな不幸であり、メロドラマとしては機能しない。メロドラマは転倒する瞬間の保持でもあるから、現実とは折り合いが悪いのだ(その人が自分をドラマチックだと考えているなら別だが)。

 だけれど、俺は好んでBL関係の本を買ったりしない。メロドラマは男同士の専売特許では無いから。とか言いつつ、bassoの太い線(パソコンで筆ペン風に書いた?)の画が好きで、買ってみようかなとは思うのだが、いざ漫画を読むと、読みたいけれど買うほど好きではないことに気づく。そういえば黒田硫黄はどうしているんだろう?(つーか、最近全然彼の本を読んでいない)彼が書くのは筆ペンだし、硫黄原作、basso画の漫画見たいな、ありえません。