サマータイム・サマータイム

朝からバイトだ、と思うと夜眠れず、眠れた、と思ったのはたかだか一時間だか二時間で、惰眠で生きている俺には相当きつい。昼食に栗入りカステラを食べるが、全く栗の味がしなかった、吐き気がする。有難くもないのに、客にありがとうとか言う度にカステラでフルボッコに殴られているような気分。

 吐き気がする、吐き気がする、と思いながら、なんとか一日で中原昌也の『作業日誌』を読み終える。約四年間の記録の中で、固有名詞の嵐、買い物狂の日記。

 中原昌也の評価は、人により偏り易いものでは無いかと思う。俺が最初に読んだのは、確か『SPA!』の映画評のページだったような気がする。わずか一ページ分のスペースもないのだが、彼はここでも自分の愚痴をぶちまけていて、映画の内容よりも、愚痴の方が紙面を占める割合が多いのもザラだった(ような気がする、主に見ていたのは高校の頃だったので)。

 彼の小説を読んでみて、一作でもう、十分、という気がするけれど、二、三、冊は読んだ。感想は特に無かった。それらの作品が小説として、美しい、という印象は受けなかった(元々音楽の人だし)。ただ、ちっとも好きじゃないジョイスの小説のように、ふと、読みたくなる本だ。

 彼の『作業日誌』の内容は、彼の呪詛と無計画を抜きにすると、充実しているように思えた。かなり素敵な(自身でも一度日記の中で言及していた)人々と、毎日のように会って、毎日のようにCD、LP、DVDを買い、映画を見る。彼は頻繁に金欠を問題にするが、そこには、彼を助ける人々がいるし、彼は人に甘えることが出来る。

 彼の『日誌』を読むと、俺もひどく買い物がしたくなった。一番買い物に狂っていた(真面目にバイトをしていた)高校の頃に、小西康陽の『これは恋ではない』という、俺の教科書を手に、買い漁った時のように。それで、吐き気は溢れているが、勤労意欲の無い今、俺はどうすればいいんだ?

 つまりは、俺のような「普通の日本人」は、卑屈になるか、他人に迷惑を掛けるか、という選択を常に迫られているのだ、吐き気がする。少ない貯金を、少しずつ削りながら、燃費の悪い身体の為に、なるべく労働をしないように勤める日々、かといって、他人に迷惑をかける、甘えるなんて真っ平だ、面倒くさいから。家でひたすら眠っていたい、本とか読まずに、活字のことなんて考えないで、ただ、ひたすらに、眠っていたい。
 
 この『日誌』には本の購入という記述が異常に少なかった。調べてはいないが、一ヶ月に一、二度とか、そんな頻度(ここに書かずに消費している可能性は大だが)。そんなことよりも、この本は音楽や映画への愛に溢れていた。

 音楽の趣味はあまりかぶっていなかったが(というよりも、おれより相当詳しいはずだ)、俺の好きな映画、ファスビンダーゴダールをドライヤーをフラーを小津をトリュフォーユスターシュをフォードをフェリーニをアントニオーニをルノワールをルビッチをサークを、彼は貪るように見ていた、素直に感動していた。大学の卒業とともに、映画への「勤労意欲」も失せてしまった俺に、また、見よう、買おう、という気を起こさせてくれる(おまけに未だに俺はシャブロルもガレルも見ていないんだ)。それで、つまり、俺は、卑屈になればいいのか?甘えればいいのか?眠ればいいのか?

 どれも無理なんだって、わかっているんだ、だから、どっちも選択しなくていい、熱狂している人の本を読めばいい、吐き気を意識せずに済む。長い長い長い吐き気のように「ぼくのなつやすみ」は続くのだ、明日も本を読むのだ。瞳が疲れたら瞳を閉じよう、とか、考えなくても、いいんだ。