インターナショナルクラインブルー

元旦。単身赴任をしていた兄と二人、両親がいない実家で落合い六本木に向った。夏木マリプロデュースのオサレうどんやにどうしても入りたい兄と、三十人も待つのは勘弁して欲しい俺、結局その日の夕食はコンビニ弁当になるのだけれど、家に帰る途中で六本木ヒルズに寄る。兄が携帯のカメラで必死に「2010」と点灯している東京タワーを映そうとしていたけれど、画素数が低いのかズームが利かないのか、「どうしても「2010」の文字が潰れてしまうんだ」、と何度も挑戦している姿を横目で見つつ、元日の夜は寒く、心地良かった。

 小さい頃は六本木に住んでいてその後住まいは西麻布に移った、と書くと何だか金持ちっぽいのだけれど、残念ながら(幸運にも?)そういうわけにはいかずに、いつからか母親はお金がないということを呟く様になった。お金がない、と口にしながら紀伊国屋明治屋で買ってきた食材を冷蔵庫一杯に詰め、ゆっくりと腐らせていく母、に注意をしても当時は全く聞く耳を持ってもらえず、消費と腐敗が母のストレス発散であり抵抗であったと気づくのはそれから数年後のこと、自称詩人で結婚を気にサラリーマンになった父は家族のことに無関心で母の変化には全く気づかない、俺の名前を家で飼っていた猫の名前と何度も間違えた、悪意というもののない無関心な父、に俺は不満を抱くという発想自体がなかったが、母はそうではなかった、その手段が家族のためという建前の散財と腐敗だった。

 母は昔銀座の店のトップで、六本木に自分の店を持っていた。幼い頃、ふいに母が、自慢げに自分の店に誰が来たとか話す際に、当時の俺は何故かそれを「雑貨屋さん」だと思っていた。母は同年代の人と比べると美人だと思うが、美しすぎる、というわけではない。テレビで美人○○特集とか見て、がっかりした経験はないだろうか?銀座の店で一番だったとしても、本当に美人だとしたら芸能界から声が掛かっているだろうし、それでさえ「美人の証明」とはなってくれない。何より、美しく歳をとるには、金が必要だ。内面から湧き出る美しさ?、ではない方だって美しさには違いないし、そちらの方が、今の気分だ。

 家事なんて嫌い、と言う母は確かに家事全般は得意でなかったかもしれないが、食にはこだわりを持っていて、希望した玩具というものを買ってもらった記憶がほとんどない代わりに食事に関してはいいものを食べさせてもらったと今でも思っている。

 とはいえいいものを食べてきた(として)人間の所得が低いとなると、食事をしながらぐちぐち不満を抱くようになり、しかし勤労意欲がないので「費用対効果」で食事を判断するようになりサプリメントとお菓子が主食になってきた。一人暮らしを始めた大学の頃、笑い話としてお菓子ばっか(100円均一で買えるお菓子一袋で600cal程度摂取できる物が何種類もあったので)食べてる、と母に告げると母が烈火のごとく怒り、その時は怒りの理由が理解出来ずに酷く困惑したことを覚えている。口唇咥内の喜びを、時には否定しようとしてしまう幼稚な俺。


 以前菊地成孔が理想的なのライフスタイルとは衣服だけではなく食事も含めて(ハイクラスのメゾンにはレストランも併設されている例を引きながら)のものだ、というような趣旨の主張をしていたことを、ふと、思い出す。彼の文章は俺を酷く苛立たせ疲労させる。彼に限ったことではないのだが、一々「俺ってすごい」と言わないと先に進むことの出来ない文章、なのだが確かに才はあるし興味深く、読み進めたいのに所々に潜むナルシスの罠。大学教授にも多かったのだが「俺は○○」「○○な俺はスゴイ」という恐ろしい考えを持っている人は驚くほど多かった。何かで成功したからって、それは万能では無いことが何故理解出来ないのだろうか。どんな人だって、或る人にとってはクズにも満たない存在だと、理解出来ないなんて信じられない。菊地はサックス奏者であるのだが、俺は吹奏楽器というものにも苦手意識があり、息を吐いて吐いて吐いて吐いて、綺麗な(といってもいい)音楽を出すなんて、ぞっとしないか?(すごいなこの文章)。

 なんて悪罵を連ねておきながら、俺は彼が以前岩澤瞳をプロデュースしていた二期の、スパンク・ハッピーというグループがとてもとても好きで、最近久しぶりに彼らの『インターナショナル・クライン・ブルー』というCDを購入したのだ。彼らのCD(二期)はアルバムが二枚しか発売されていないから、簡単に揃ってしまうから、買い渋っていたのだ。これで聞いていないCDは後一枚になってしまった。しかし残りの一枚『普通の恋』はマキシのくせに現在8000円の値がついている。手に入れるのは当分先になるだろう。

 『インターナショナル・クライン・ブルー』、他にも『フォーエヴァー・モーツァルト』『資本主義は未だに有効である』『拝啓ミス・インターナショナル』といった題名から分かるように、衒学趣味を惜しみなく披露した彼の楽曲は80年代エレ・ポップを洗練した感じで、非常に好きだ。ヴォーカルの岩澤瞳は好きな歌手はマイケル(俺も好きだ)と言っていた。ピチカートの野宮も好きな歌手はKISS。彼女の歌唱力のないプラスティック・ボイスは冷え冷えとした透明感があり、歌詞の気取りを軽くしてくれる。これに菊地の上手くはないし大人っぽくも子どもっぽくもない声が重なると、躁うつ病患者が自殺するのに少しの力を与えてくれるような、冷め切った陶酔音楽が出来上がる。

 ナルシストが(その人が聡明であったり魅力的であった場合)判断力を自己愛で捻じ曲げる様に吐き気を覚える、もはやその人とは対話と言う物が多くの面で成立しないのではないかと、自己愛の反射鏡としての他者で飾り立てているのだけではないか、そう一人苛立つ神経質な俺は菊地がナルシストであることは疑いようがないように思うけれどそれでも彼を魅力的に感じるのは、彼のセンスの良さというより、虚無、薄ら寒さである。ナルシストは生まれつき老いておりかつ死を経験しない、と俺は思うのだが、菊池はナルシストであるが「死ぬ」ような気がするのだ。ポストモダンの先になったって当然だけれど生きなければいけない「知的(!)」な人間のダンスを見守り、かつ参加する、けれど逃げ道は用意しているしたたかな青年像、を彼に見る。『ジャンニ・ヴェルサーチ暗殺』という曲で彼は岩澤に生まれ変わったら貴族になりたい女の子を演じさせ
「ねえ、どうして今は景気が悪いの 資本主義はきっと 恋愛よりも難しいのね 
それでも私 ウォウ ウォウ ウォウ ウォウ
あなたのキッスで 結局
ジュテーム ジュテーム ジュテーム 
ジュテーム ジュテーム ジュテーム
でもお金がないのー」と歌わせる。

 彼は、死ぬ。そう感じることが出来ただけで、人は魅力的に感じられる。死ぬんだったら、ナルシストでも何でもいいから、派手な人が慎ましい人が、俺は素敵だと感じる。

 俺が十代だったことから十年以上かけて、夫婦仲は少しずつ改善してきたように思う。つまらない喧嘩をする度、父は拘泥せず、母は「こんなのは普通なんだから」と俺に言う。どちらも、あまり理解出来ずにいる。今年の元旦に、両親は京都で越したそうだ。見栄っ張りの二人にはふさわしい、良い年越しだと俺は心から思った。

 父に誕生日プレゼントをあげたことがあるが、父はそれらをどこかに放っておいて無くしてしまう(自分にとって関心がないものだから)、ということが続いたので今では母にしか誕生日プレゼントをあげないのだが、以前花束を渡した時に半笑いで「名前の知らない花よりも、一輪の薔薇の方がいいわ」といわれ、俺もそうだ、とも思ったのだが、普通ここは「ありがとう」と受け取っておくものだろうと考えた、けれど俺も「母のことを考えて」「この茄子油を吸いすぎてゴムみたいになっているからもっと手早く炒めた方がいいんじゃない」と口にするような人間になっていたことを想起した。子どもがかわいそうだからこんな夫婦にはならない、と子どもらしいことを考えていたこともあったが、立派に二人の子どもとして成長してしまい、薄ら寒いような、にやけてしまうような、そんな気分は岩澤が「ブルーブルーブルーブルーインターナショナルクラインブルーブルーブルー」という声と同調して、ブライアン・イーノが音楽を担当したデレク・ジャーマンの映画のように心地良く、薄ら寒く、おれにとっての幸福のほとんどが、寒いのだと、すこしにやける。