ひっくり返せ!ムッシュー!

ちっとも好きではない、というよりも拒否反応を示すもの、その中の幾つかは反転して今ではお気に入りになっている。

 例えば水野純子中村明日美子の漫画はきもちわるいと思ったし、マティスの画は下らないと思った。それが、ふとした瞬間にその作品のもつ芳醇さがあふれ出し、夢中にさせる。水野純子のたまらないキュートとユーモア、中村明日美子のイラストレーションのように完成され、なおかつ動きを失わず漫画として機能している画面構成、あふれ出すマティスの赤赤赤赤。

 デュラスの脚本の映画化、『ラ・マン』や『二十四時間の情事』はとても好きだけれど、彼女の小説はちっともいいとは思えなかった、下手なんじゃないかとさえ思っていた。
 
 そんな彼女の本を手にしたのは、背表紙のサイのマークと、題字『アウトサイド』に惹かれたからだ。中身はエッセイ、対談、インタヴュー集で、気楽に読むことが出来た。ブリジット・バルドージャンヌ・モロージョルジュ・バタイユフランシス・ベーコン、らとの対話、への言及は中々興味深いものだった。

 一冊読み終わると、何故自分がデュラスを嫌っていたのかを気づいた(ような気がした)。それは彼女の溢れる詩情が肌に合わないということだ。

 モローを評する時の「まなざしは絶え間なく活動する知性をそなえている」という一文だけで、それを証明するのは十分だと思う。あくまで比喩だとはいえ、それはモローという女性の眼球を見ていることにはならないだろう、と現代の日本に生きる俺は感じる、が、臆面も無くそういった表現が出来る人に(それでもなお文章を書ける人に)近親憎悪的な感情を抱いていることも事実だ。

 この本の一番優れた部分は冒頭のエッセイにある。これが書かれた約五十年前、アルジェリア戦争時代に書かれた『花を売るアルジェリア青年』というわずか三ページの文章。
フランスでもぐりの花売りをしているアルジェリア人の青年が二人の警官に捕まり、許可証が無いと分かるやいなや、その花の積まれた台車をひっくり返される。往来を歩く人は見てみぬ振りをするが、一人の夫人は言う「ブラボー、いつもこうしていたならば、こんなクズたちなんかたちまち厄介払いできるでしょう」

「しかしそのあと婦人がもう一人市場からやってくる。彼女は見る。花々を、花を売っていた罪のある青年を、大喜びしている婦人を、二人のムシューたちを。一言も口をきかずに、彼女は身をかがめ、花を拾い、アルジェリア青年のほうへ行って、代金を支払う。また別の婦人がやってきて、拾い、支払う。四人の婦人がやってきて、身をかがめ、拾い、支払う。十五人の婦人たちが。相変わらず無言のまま。ムッシューたちはじだんだを踏む。でもどうするこができようか?その花は売り物で、人々が買いたがるものを妨げることはできない。
 
 わずか十分間つづいただけだった。もう一面には一輪の花もない

 そのあと、ムッシューたちにはアルジェリア青年を交番に連行する暇ができた」

 ロマンティシズムが、詩情が生命力を帯びるのならば、それは断念の中に、この残酷ささえ許さない世界の中にあらねばならない。このエッセイは隙の無い優れた小品だ。

 デュラスの他の著作も読んでみようか、と思う。きっと俺の気分を悪くする、多くのものの中には、反転するものがあるはずだ、そう考えると、打ち捨てられた花々、を見つめる瞳のような、気分になれるだろう。