あとからあとから、何ぼでも出きてくんねんな

相変わらず酷い内容の小説を書いていて、その内容の酷さは俺の内面を表していると共に、それこそが心地良くも肝要な問題なのだと思うとげんなり。デカダンスとか耽美主義とか無頼派とか(その作家個人は好きでも)それらを標榜する、そういう輩のナルシシズムにはうんざりする。死んだら等しく灰は灰に。

 疲れている時でも気軽に読めるコミックエッセイ。その中のほとんどが、読み終えたら、もういいや、と思ってしまうのだけれども、久しぶりに面白い一冊があった。『わたしの舞台は舞台裏』という、大衆演劇の裏方から大衆演劇を紹介するエッセイ漫画だ。

 大衆演劇、というものにぼんやりとした知識しか持たない自分にとって、様々なことがへーなるほどーと言う感じで単純に面白かった。ただ、大衆演劇というのは毎日演目が変わる上に、普通の舞台みたいに一か月みっちり稽古をしてから本番というものではなく、深夜に座長が口上で説明をして次の日の講演に開演されるという。これは本当にすごいというか、だからこそとちったり、間違えたりも多々あるらしいが、それはそれで許してもらえる緩さもあるという。

 また、観覧料がわずか千数百円しかないのに、舞台やら衣装やらを用意しなければならないし、毎月色んな場所を転々とするので、劇団は常にお金との戦いとなる。そんな時にお客さんがヘアピンでお札を好きな役者につけるシーンを、作者は

大衆演劇ではそれを「お花をつける」と表現し、

華のある人気役者がお札の花をつけて舞う姿は 俗っぽくも美しい

という表現は、とても素敵で、自分でも見てみたいなあと思った。

 あと暇つぶしに見る映画。松本俊夫 『実験映像集一 詩としての映像』
 見る前から大体こういう物だろうと思いながらも飽き性の俺がちゃんと最後まで見た映画。三作の似たような短編集で、各国の親子を映しながら、母親は〇〇 と繰り返す(寺山修司の詩?)というのは、結構良かった。というか、ふとデレクジャーマンを想起したのだが、それに比べると日本映画の詩と映像のマリアージュの陰気さに国民性が出ているような気がしてしまって興味深い。でも、今の日本の監督がこういう詩と映像、みたいな作品を撮ると、思いっきり陳腐な物か、爽やかな物になる気がする

 あと以前見た、溝口健二の『噂の女』を再見。老舗の置屋で働く田中絹代。そこに親の商売のせいで恋人との縁が破談になった娘久我美子が戻って来るが、彼女は自分の親の職業を、その金で大学に行っていることに嫌悪感を持っている。そこに田中絹代の燕、一見若き好青年の医師がからみ、彼の為に絹代がお金を借りてまで店を持たせようとするのだが、医師は若くて美しい美子を好きになってしまって、という話。

 とにかく溝口の映画が面白いのは、構図の美しさ、近景、遠景、どちらもきちんと奥行きがあるようにちゃんと映したうえで、人の描写もこまかく見るものを飽きさせないこと。そして、安易な人間描写には走らず、様々なひとびとの人間らしい感情をさらりと表す所にもあると思う。

 この映画でも搾取される側である太夫の悲哀、そして主人公たち三人で見る狂言の演目が狂言「枕者狂(まくらものぐるい)」という60歳の老女の恋。若者はそれに笑うが、絹代は笑いどころではない。そして、結局若い二人が結ばれそうになった時も、若き燕の母と娘を天秤にかける軽薄さから、美子は醒めて、結局誰も結ばれなくなってしまう。

 置屋の親子は一応の円満を迎えるのだが、ラスト近く、貧しい子が(というか大夫になりに来たから当然なのだが)置屋においてくれ、と言うのだが、綺麗にお化粧した大夫が

「わてらのようなもん、いつになったら無くなんねんのやろ。あとからあとから、何ぼでも出きてくんねんな」

 とぼやいて出て行く様が胸に来る。様々な人々の悲喜こもごもを見事に切り取ったこの作品も、また溝口の秀作だなあと思う。ハッピーエンドもバッドエンドも無い世界で、生き続けなければならないのだ。

 あるライトノベル作家が自分は物語の主人公たちが自分で選んだ結果であるならば、どんなものでもバッドエンドではない、というようなことを言っていて、俺もそれに同感だった。だが、実際、「バッド」なエンドに向けて進むのは、色んな意味で悲しい虚しいことだ。俺は未だ変えられるt信じている。だから、何かを消費し、何かを書いて行けているのかなあと、思うしかない。