幻想から遠く離れて

小説を書き終え、推敲は後回しにして、ただ腑抜け。DSでプレイ中の『トーキョーアクマモノガタリ』が三週目に入って、ようやく飽きてきた。次は何をすればいいんだろう?

 空白の時間が恐ろしいのはいつものことだが、フリーターの俺はもう直ぐ25歳になる。テレビのニュースによると、25〜30歳は後齢フリーターという枠らしい。歳が増えてもたいして変わらないのは自分の意識だけで、世間はそうだとは思わないだろう。確実に選択肢は狭まっていく。

 広告代理店に勤める友人に、美容師の人の半数が二十代で離職するか(30代で?)独立するということを聞いた。アパレル業界の友人も似たようなことを言っていた。俺はそういった業界と関わりがないが、見た目のイメージのように華やかではないだろうことくらい予想がつくし、関わっていないから、無責任に「よーふくヤベーかっこいいー」とか口に出せる。大好きなゲームだって、仕事になると黒い話しか耳にしない。

 でも、俺よりも彼らのほうが、自分のこれからの身の振り方について、真剣に考えているだろう。俺とは違って、自分で好きなことを仕事に選んだのだ。ただ、俺が負けていない所があるとするならば、自分の(狭い)世界をよりよくしようと考えている所だろうか?

 と、考えて、そういえば俺はファンタジー小説やら漫画をなぜ「書きたくなくなった」のだろう、という思いが浮かんだ。いつから魔法を信じられなくなったんだろう?好きだったラヴィン・スプーンフルの曲を、もう何年も聞いていない。

 完全にファンタジー世界でもないのに、作品中に「魔法」のようなものが出てくると、ほとんどの場合、俺は醒めるようになってしまっていた。多分魔法に執着しているからだと思う。かといって完全にファンタジーな世界を構築するような気力もない、というかのれない。何故だろうか?足を踏み外すことを恐れているのだろうか?生活力がないのにファンタジーに足を突っ込むなんて、自殺行為にも似ている。

 とかグダグダ考えていたのだが、ふと、お店をもって引きこもればいいんじゃない?という考えが浮かんだ。何百万も貯めるなんて、俺にとってはそれこそ夢物語だけれど、三十台の目標として、それを掲げるのはありかもしれない。今は一年百万とちょっとで暮らせているのだ。本気で貯めようと思えば、不可能ではない。

 ビアズリーやアラステアやギュスターヴ・モローポール・デルヴォー、といった幻想画家を好んでいながらも、実生活に、書く小説にそういった要素を見出そうとはしなかった。現実に悪魔がいないのは悲しいことだ、それを、自覚している、けれど、それに抗うことを、恐れてはいなかっただろうか?

 以前はアルベール・カミュの小説が最上の物だと思っていた。或いは、サルトルやボウルズのような、簡素な表現で残酷と言う言葉を当てはめられないほどの無慈悲、それにユーモアと詩情をふりかけた文章を。削ぎ落とした、ミニマルなものこそが最上だと思っていた、ジャコメッティの痩躯に、フレイヴィンの光に、ニューマンの線に憧れ、そのように生きようとも、した。

 でもその一方で、幻想を酷く恐れて、遠ざけていたのだ。神話に対する愛憎、それを自覚したら、また違う妄想を産むことができる。

 (贋物の)象牙の塔を作る準備をしても、きっと、恥かしいことではない。三十過ぎてからでも、資金を貯める事を考えれば、幻想の為に生きることを考えれば、消去衝動に駆られることも少なくなるはずだ。好きなものがあるならば、それを愛さなくてはならない。それが思い浮かぶだけ、まだ幸福だ。俺が好きな、美容業界やゲーム業界で働いている人達も、三十過ぎて選択肢が狭まっても不幸になるわけではない。俺だって、三十のフリーターになっても、駄目になるわけではない。ただ、その為には幻想が必要だ。次は自分の為の「トーキョーアクマモノガタリ」を書かなくてはならない。休んでいる暇なんてない。