けんちゃん大冒険

小説の中で好きな小説や音楽やら洋服やらのことを登場人物に話させたり考えさせたりする。多分友人か金が溢れるようにあったなら、俺は小説なんて書かない、と思ったが、そんなの皆そうか。日々が恵まれていると思うならば十分すぎる。

 ゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』を作中に出したから、見たくなったけれど家にDVDはないし、レンタルするのも面倒くさい。というか、あの強風に煽られる女が何度も立ち消えるシーンの美しすぎる記憶で、もう十分だという気もする。俺は『愛の世紀』のあの感情移入できる瞬間を残した(ジャン・ユスターシュのように戸惑いの為の時間の余剰とは正反対の性質を持ったあの蛇足!)ゴダールが嫌で、『アワーミュージック』だって好きにはなれなくって、やっぱり好きなのはユーモア溢れる60、70年代のゴダールですかねー、なんて、ピエロちゃんなんて有名すぎて作中に引用するのが恥かしいのでしょうか?少し自意識過剰気味で「ゴダール好きです」なんて口にしていた数年前、から、作中にピエロを引用した小説が未だに見つからない(って探しているわけではないけど)。だけどやっぱりカリーナは超キュート。俺も
「人生が物語と違うのが私には悲しいわ。人生が物語のように明晰で論理的で脈絡があって欲しいのに。人生は物語と違う」って思うよ。まじで。

 でも俺は物語ではない低賃金労働者で、クソみたいな汚い肌で、ふらふらドラッグストア、オバジのテスターを使ってみると、目に見える効果でマジびっくり、親のSK−Ⅱやコスメデコルテちょっと失敬した時よりもずっとやばかった。でも小瓶一つ一万とか、買えるか。

 お金に余裕がなかったり、人と会う機会が減ると、洋服や美容に関する意識はやはり下がる。いっそ自分なんてなければいいと思う、けれど、毎日鏡をみなければならないのだ。寒いツラだし、そのことに対して努力をしていない自分を見るのは辛い。今は文学が一番、と思う気持ちがどれだけいいものだろう?おしゃれは楽しい、けれど、もう、俺から遠く離れているように思う。

 けれど、女の子の格好を小説で書く時に、傍らのシュプールとか見てボケた頭に喝を入れつつコーディネートを考えるのはすんごく楽しく、エナメルでグリーンのバレエシューズに黒のミニスカートを合わせてトップスはちょっと重め?、とかサンローランのエレガンスでキュートなバッグに合うのは大人っぽいノースリーブタートル?とか、ドルガバのぎりぎり下品にならないセクシーゴージャスな豹柄(オサレ雑誌ってレオパード柄って表記すんの。なんかオサレすね)で全身まとめて、そしたら靴は?どうせならやり過ぎ感を楽しみたい、とか、一人架空着せ替えショーで超盛り上がった。あ、まだ俺も平気かも、お洒落の神様とまだ、友達かも、と思えた。

 調子に乗って宮沢賢治の『春と修羅』を引っ張り出して、それも小説にねじ込む。昭和44年製だから旧字体だし、箱を取れば表紙は何故か布製。初期の萩原朔太郎はパンクで好きだけれど、それよりももっと、パンクで、病人の透き通った瞳って感じで、美しいノイズミュージックみたいな賢治の詩。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 っていう冒頭だけでもやられちゃう。しかも宮沢賢治ってさあ、出典は忘れたけど、
「またひとにうまれてくるときは
 こんなにじぶんのことばかりで
 くるしまないようにうまれてきます」

 とか言ってるの。もう最高だね。俺と賢治は別に似ていないけど。俺もそう思うよ。情けない、ことに、貯金下ろして宝くじ買って外れたら餓死しよう!とかぐちぐち考えてたら駄目だよね!(実際には宝くじは射幸性が恐ろしく低いので、別のギャンブルをした方がいいらしいですよ皆さん)

 好きなことを考えるのには、なんて面白くて、体力がいるんだろうと思う。これからも、もうちょっとつづけていけたらいいなって思う。宝くじを買うべきでしょうか?