キャットウォークと湿る足

風邪を引いた。頭がぼんやりとする。けれどお構い無しでやってくる。仕事先や住みかの問題。金のことばかり考えるのを止めようとしているのだが、やめられない。焦燥が燃え、くすぶる。

 こんな時でも何かしていなければ落ち着かないのだ。ゲームに飽きたら、陰気な読書をする。柳美里の訴えられた小説を読む。この作品も、初期作品のように自分の家族をモデルにしているらしい、というか、記憶違いでなければ、彼女は三作品も、同じ家族構成の小説を書いている。最後の私小説作家とか、どこかで目にしたことがある。彼女は太宰を愛していると語っていた。俺も太宰が好きだが、隣人として考えるならばどうだろう。自分がもう一人増える、みたいなのはどんな気分だろう?

 彼女の小説は「文学的」な表現が出てくる(蛇足だが、否定的な意味合いで)。それらになれ親しんだ俺としては読みやすく、あまり疲れなくて、心が動かずに済む。俺にとっての彼女の作品はそういったものだ。しかし目がとまった箇所があった。自身をモデルとした劇作家の主人公の女性が、現在猫を飼っているその女性が、幼い頃小猫を壁にぶつけて殺すシーンがあった。

 大好きだった猫を亡くした俺は、人間が死ぬよりも、猫が死ぬことの方が怖い。慣れの問題だろうか?人間の死や拷問の情報は溢れているけれど、猫のそれは少ない。それだけか?それだけではない、(都合良く喋れない、自然界の)猫が死ぬのが怖い、嫌な気分になる。ネットでそういった動画がアップされたときは、怒りなんてなくて、ただ怖かった。

 以前ホラー作家が、飼っている猫が子供を産んだら崖から投げて殺す、と週刊誌に書いて大バッシングを受けたことがあった。その時は「分からない人」のことは分からない、と感じた。それにバッシングをしている人達の書き込みをみれば、俺の代弁になったのだ。

 で、この猫殺し、それよりもたちの悪い人間と、一緒にやっていかなければならないとしたら、愛想笑いをしなければならないとしたら?というよりも、そんな風に明日がやってくる。

 ただ、俺は柳美里に悪い感情はほとんど抱いていない。彼女の捨て身を見ると、彼女も、捨てられた猫の死骸のような人間だと、共感するからだ。そして、「そういう考えのにんげんもいる」と思うことができる。俺の理解出来ないだろう人が沢山いるということを、再確認できる。世界が他人だらけだって、ぐにゃぐにゃした気分になれる。

 小説を読んでいて何よりも気持ちが悪いのは、作者が一人で全員を書いているな、と感じる時だ。成立する(やがて越えられる)会話のみの、予定調和が引き起こす恐ろしい吐き気。それよりも捨て身の、亡骸の言葉の方がずっと誠実だ、と感じる。もっとも幾ら甘美な死骸、人骨(骨ってかっこいいでしょ?)であっても、くだらない物は沢山ある。死骸であることに胡坐をかいてしまえば、変わりがない。そして、予定調和の世界でも、素晴らしい作品を作れる人はいる。俺は確実にその人ではない、から死骸のことを考える。死骸のことを考える。

 同時に湯浅誠の本を読んでいた。生活保護の申請とか、貧困についての本。彼の言う、自己責任論を覆す言葉は刺激的ではあったが、その対象の一人である俺は、未だ戸惑っている。いざとなったら死ねばいいじゃないか、と考えるのは不健康だろうか?
そうではないにしても、短絡的、白痴的だ。そうとしか思えなくなった人が身近にいるとして、俺はその人がそうなってはいけない、もっと多くの選択肢から選べる方がいい、と思う。しかし自分のことになると、なぜかリアリティが想像力が欠け、踏みとどまるか死ぬかの二択を押し付けられている図しか頭に浮かばない。俺は自分が駄目なんだと、認めたくないのだろうか?自分の「ような」人間を許すのは難しい。


 ともかくこんな時にも依存対象、小説を読んだり書いたりできるのは、マシなことだと思う。もう、あまり先がないのかもしれない、と思うと、怠け者の俺は新しい小説を書く気になる。今月はもう書き終わった、とはいえ、小説のことを考えれば、自分の思考に道を与えてやれば、猫を殺すよりも吐き気のする人間と一緒に会話ができる、と信じる。