グロテスク甘美の側に

低級地獄からインスタント・トリップ、とかなんとかで過ごしている日々、の隙間にふと、ネットで懐かしい名前を目にして、アニメを見る気になって、数日前に、一日ちょっとで、『無限のリヴァイアス』というアニメを全話視聴した。これは俺が中学生か高校生の頃、リアルタイムで、きちんとほぼ全話見ていた最後のアニメ、だったような気がする。結末は知っていた。だから見ることができたんだと、思う。

  監督だかが言っていたように、話はSF版『蠅の王』みたいなので、教官を失い宇宙に漂流する羽目になった少年少女の話。SFものだから当然のようにロボット(しかもやっぱり人間型!)が登場して敵を粉砕するのだが、主人公の男の子が最後までロボットに乗らない、乗れないのは、俺としては好きだ。

 同時期に世間(の一部)ではエヴァが盛り上がっていて、割りと、この二つのアニメは似ている部分があるな、と視聴中に感じた。詳しいことは抜きにして、ロボットアニメに興味がない(嫌いではない)俺でも、見ることができたアニメ、といった印象。

 エヴァもリアルタイムで見ていた。当時、俺もシンジ君と同じ14歳、だったような気がする(一歳位の誤差はあるかも)。当時友人の一人がすごくはまっていた、と思うが、特に思いいれやら思い出があるわけではなかった。シンジ君級に陰気な俺だけれど、シンジ君は僕だ、とは思わなかったし、単純な話、ロボットや謎の数々よりも別の物に興味があったから。
 
 それよりも気になったのは、庵野監督がまたエヴァを撮ったことだった。これは前回の「序」を発表した時にも感じたことだけれど、彼は確か「オタクは現実に帰れ」と口にしたのではなかったのだろうか?なのに何でまたエヴァを撮るのだろう?多分真面目な視聴者やファンは知っているのだと思うが、俺はよく分からなかった(調べてみようとしたが、よくわからなくてすぐ挫折した)。表向きの、メディアに載る用の発言ではなく。というよりも、その個人的な葛藤を部外者が納得するなんてできないようにも思えた

 彼の発言で心に残っているのがもう一つある。それは結婚相手の安野モヨコの漫画を現実に生きるパワーをくれると激賞した上で、自分の作品は読者を内へ内へと依存状態にする、といった主旨のもので、安野モヨコファンの俺はその言葉に「そうかも」と思った

 し、成功した(から?)作り手側が自ら作り上げた「ユートピアやカタストロフ」への愛憎を吐露したことが印象的だったのだ。 

 がっぷ獅子丸という、ゲーム制作者で、悪趣味なゲームの紹介コラムを書いていた人がいて、今は亡きゲーム批評で題名そのまんま「悪趣味ゲーム紀行」という連載をしていた。業界の裏事情やらゴシップ込みで、変なゲームばっかり紹介していたのだけれどその中で「PSの舞妓育成ゲーム」という誰が買うんだよこのゲーム(でも俺欲しくなったいました)ていうかよく企画通ったな、の面白紹介の中で、そのラストが「主人公の女の子が死んじゃったような真白なエンディングで、プレイから一気に現実に引き戻されていて健康的だ」みたいなことが書かれていたのだ。これは制作者の、あくまでゲームはゲームなんだから、というまっとうな視点だ。だって、狂信的なファンって、制作者にとってありがたいものではないことくらい容易に察しがつく。だって要するに「私好みの世界」の為にもっと頑張ってよ!ってことじゃないか。そんなに、それなしに生きていけないくらいなら、自分でやればいいじゃないか、と思ってしまう、し、

 実際そうやって同人誌とかの二次的な派生物の世界は発展してきたのだと思うが、そういったものに明るくない俺は、以前した本田透の発言に驚いたのだ。彼はエヴァ庵野監督に呪詛をぶちまけて曰く「彼が何度もアスカ(親に愛されない美少女)に報われない運命を用意したから、自分が同人誌で彼女(たち?)を救うことになったのだ」といったことを喋っていたのだ。俺は作った人に対する作品への出すぎた要求だと感じたが、それだけでは割り切れないものも感じた。それは、彼はアニメに、アニメのキャラを愛することができるということだった。

 地に足がつかない生活や思考をしている俺だけれど、不思議と好きなキャラ、といったものがない。好きの敷居を下げたならば無数に存在するけれど、それはとても本田透らの抱く感情や「萌え」にも「燃え」にも程遠いものだ。多分俺が今ここ、この現実の構成要素に興味があり、それをどうにかしなければ生活ができない人間だからだとおもう。でも、アニメに何らかの「魅力的な物語」に耽溺、依存する人と俺とは近いものだ。ただ、俺はグロテスクな神様、残酷ささえ許してくれない神様のことをもっと、理想的な人間や殺してくれる人がいる世界や超能力を持てること、よりも知りたいのだ。超越的な人物、能力の無い、この低級地獄での秩序、建築途中の剥き出しの鉄の支柱のような、美しい機能美の世界に。

 かといっても、俺には哲学をする素養がないのか、ニーチェヴィトゲンシュタインの言葉の方が多くの哲学者の言葉よりも重みがあった。妥当性の高い言葉での構築や韜晦じみた振る舞いや新用語による秩序付けよりも「神は死に」「語りえぬ物については黙さねばならない」のではないかと。

 思っていた、その考えは特に代わっていないのだが、暑さに、仕事ができないことに腐りながら、「神様」のことを考えている最中に、まだまだ勉強不足だな、と幸福なことを再確認した。定期的に、俺は自らの勉強不足を幸福な現象として向い入れる。俺は哲学を志望する若者ではない、けれど、勉強不足な店は揺るぎがない事実だ。だって勉強不足ならば、とりあえず勉強しなければならないんだから。