エーブリデアザ、バストップ

 デパートの地下で、うず高く、こんもりと積まれた惣菜の小山から、少しづつ選ぶ。照明が強く、吟味された商品が所狭しと並ぶ、デパートの地下はきらきらしていて好きだ。ちょこっとだけ値は張るけれど、手軽な幸福。Ipodでm-floの曲を流していたのだけれど、彼らのハッピーなポップソングはデパートの地下の雰囲気にぴったりだと思う。素晴らしいインスタント・キラキラ。

 例えば、ベーカリーで焼きたてのバケットを買って、握った袋が未だ暖かかったり、用もなくふと寄った駅ビルのプラザで数百円の小物を買ったり、少し大きな書店で写真集を拾い読みしたり。

 そういったことができるのはとてもいいことだと思う。反面、これらが労働の上に成り立っているんだな、と思うと、不思議な気分になる。

 資格の為に、ちっとも興味がない、もっと正確に言うとレポートを完成させる為の読書ばかりしている。それと、アルバイトの日々。

 サルトルセミナーも、行ったのは結局最初の一回だけだった。資格をとる為に週に一、二本のレポートを書かなければいけないのに、そんな余裕はない、というよりも、中途半端に受講する位なら金もかかるし綺麗に止めた方がましか、と考えたのだ。読みたい本が溜まっている。それらを消化出来ずに、胃がむかつくバイトと読みたくない本を口元に運ぶ日々。

 それに加えて、最近また小説を書いておらず、自分が愚鈍な機械のような気がしてくる。それでもまだ、無職時代よりはましかな、とも思うけど。


 手に職がなく、金を稼ぐ能力もない俺。漠然と、三十までならふらふらしてもいいべ、とか考えていたけれど、三十でというか二十五でも、二十歳そこそこの人間に顎で使われ、軽く愛想笑いをしたり(どこの職場でもだれに対してもそうだけど)間違っていると思うことの指摘もできずに(俺のその場所での経験が少ないから)、自己嫌悪に陥り(悪いのは過剰反応をする自分なのだ)それは俺の払うべきツケなのは分かっているが、また辞めてふらふらしようか、と考え、いつ辞めるかの計画を毎日のように考え、さらに読みたくない本を読みレポートを書くという苦痛、それらが俺に「やっぱり俺は小説好きだなー」と、ある瞬間に思わせてくれた。でも、書いていない。目の前の雑務を片付けなければ、集中ができない。

 俺には小説があるから、好きなことがあるから未だ大丈夫。あと、他にも、幾つか好きなのがあるし。多分きっと、そう、いうことにして。アルバイトのある日に花柄のシャツの下に隠したキリスト、仕事の前、後、休憩中に、服の上から触れる。仕事から終わったら肌の上から服の上に出して、靴紐がほどけていて、下を向くと、揺れるメダイと距離が近く、口づけをする。磔にされたキュートなキリストは、俺にとってチロルチョコ位甘く優しい。でも、信じてはいない。小さな気晴らし。

 前々から気になっていたけどずっと聞いてなかった、ヤングパンクスは気の抜けたハッピーなハウスで、何だかやっていけるような気分を後押ししてくれた。前々から気になっていたけれどずっと聞いていなかった、フリーテンポは安っぽいヒーリングミュージックみたいで、俺の手元にあるCDがハズレなのかもしれないが、また当分会わないかな、と思った。
 
 制作を諦めて、生活を維持させている友人に悲しみを覚えていた。けれどそのことを本人に直接言ったことはない。それぞれの価値観は自由だし、それに「したくてもできない」
 ことくらい誰にだってあるから。そういった意識がない人は、俺とは別の世界の人だ。

 日々の生活も頑張ればきらきらにはなるけれど、やっぱり制作をするためのゆるゆるな環境作りをしなければ、と思う。せっかく金かけたから、受講は最後までするけれど。でも、何かを好きでいられる内は未だ平気だって思う。デリコの、初めて買ったCD『Your song』の「夢を見る位じゃ you are not crazy」って歌詞は未だにお気に入りだ。好きなことがぼやけた時は好きかもしれないことをすれば、それすら嫌なときは音楽、さえ嫌でも、数日、数週間、数ヶ月、とかの日々が、どうにかしてくれる、時もある。一ヶ月先には未だバイトをしているように思う。その先は、半年先はどうなっているだろう?少しは気分が落ち着いて、毎日ちょこちょこワードを起動しているだろうか?好きなもので身体の周りを包まなければ、そうすればとりあえずcrazyにはならずに済むだろう。

 今、見たくもない、つけっぱなしのスポーツの結果を放送するテレビから、ヤングパンクスの曲が丁度流れたぜ!と、思ったら、ファットボーイスリムだった。ファットボーイスリムも聞かなきゃ。その前に、マリリン・マンソンを聞こう、と思う。キリストもあんち・くらいすと・スーパースターも、どっちも、キュートだ。