ロールプレイの途中で

読みたいけれど読んでない小説がある。高校生の頃に買って積んでいる「失われた時」はちっとも求めていないし、ユルスナールの『黒の過程』なんて今までに図書館で三回も借りて、一ページより先に進んでいないという始末、彼女の他の著作は大体目を通したにしても、歴史小説嫌いは今年も直らなかった。

 ユルスナールもそうなのだが、著名なはずなのに作品の多くが文庫化されておらず、入手が困難な作家があり、そのうちの一人、先日運良く
古井由吉の『白髪の唄』を古本で手に入れた、のはいいのだが、古井の小説に入る為の心構えというものができず、昨日ようやく目を通した。

 彼の小説にはユルスナールにもある品、というものがあり、この品がある文章を書ける作家は極めて少ないように思われる。それだけに読むと随分疲れるというか、読み手が些事に気を取られているようでは本に向き合う為の心構えができていないというか、まあ、単にいつもの俺の生活にはそぐわない読書の時間をとれて、感謝しているのだが、さて、一体何に感謝をしたらいいのか、分からない。

 病室で出会った老人と若者、再会の約束は果たされなかったが、邂逅を果たし、家庭の事情等を話し込んだ内の、老人の雑感を引く。

 そろそろ、ほんとうに帰らなくてはならないな、と思った。山越(若者)がここまで話す気持ちになれたのも病人同士の縁の、余徳みたいなものであり、この先を話させては、病院から持ち越されたやや現実離れの淡白さが相互に保たれなくなるおそれがある、とそういましめて、ここから家までの道筋を頭の中でたどると、踏切を渡った大分先から山越の家の不幸の重なったらしい環状線と私の住まいの前の通りとを斜めに結ぶ、この界隈ではわりあい閑散とした道路が、そのまま昔の畑の間を走った用水の跡なのだそうで、おとなしい蛇のようにゆるやかにくねり、そこを酔ってい帰る客の背が見えて、夜目にも髪がすっかり白くなった、いつのまにかほとんど総白に近い、両側の桜並木にはまだ季節が早いけれど、まるで一人、花が咲いたみたいにではないか、と感心して見送るうちに、また階下から昇るように女たちの笑いがふくんで、山越がたずねた。

 以前俺は息の長い文章が割合苦手であったのだが、今書いている小説は息の長い文章で、古井のとは異なり、悪罵と断絶とを念頭に置き書き進めている。文末に「!」さえ使用するようになった。残酷でパンクな川端康成が最上の作家の一人だと思っていはしても、品のない文章でも、『二十四時間の情事』の台詞のように、「或る日君は永久から抜け出す」錯覚を起こすことが可能だろう。今の俺に元気をくれるのは好きだが大好きとまではいかないポール・ボウルズジョルジュ・バタイユ(の一部の著作)やユイスマンスバロウズかもしれないのだつまりナルシスバッカスディオニュソスの祝福。

 俺には上昇志向、といったものがほとんどなく(多分意識していないだけだと思うが)摩滅の末のしょぼい幕引きを迎えるような青写真しか描けないのだけれど、それにしたって、数千円の祝祭を手にすることくらいするべきだ、と思っている。それは何度もリピートを繰り返し、引越しの際にそのVHSを失くしはしたものの記憶に焼きついている『裁かるるジャンヌ』のDVDを再購入しようということで、モノクロの画面でジャンヌが純白の業火に焼かれる様はとても美しく、ただ、意味もなく消音状態でエンドレス・リピートするのに最も相応しい映画だと思える。六本木のABCは年始に開店しているのだろうか?多分してなかったように思うけれど。他にもどうせ買えばいいのは分っているからかわずにいるトータスの(1、2年前に出た)新作も買おうと思うし、ヴィスコンティの佳作『家族の肖像』も再度見たい、のはこの映画のヘルムート・バーガーはとても哀れで美しくつまり格好が良く、気分の良い物だからであるがこうやって個人的な予定を書き込むのはそれなりに面白い物で、この先もクズのように素晴らしい素晴らしいが役に立たない数々のアイテムを手にして暮らしていかねばならないのは分っているから、それで色々と貧弱なPCの俺はこの素敵な素敵な日本で暮らしていけるのだから、何だか感謝をしたいのだが、俺は誰に感謝をしたらいいのか分らず、とりあえず神様に感謝するのは以前したような気がするので、お疲れ様でしたと俺の身体だか、俺の意志だかに告げる皆様も、お疲れ様でしたありがとうございました。