ふふふへ

もうすぐ26になるんだから、と親に言われて、親の心配は分かるのだが苛々してしまう。26、という年齢は二十歳の人から見れば結構歳だと思うし、逆に30代以上の人から見ればまだまだだろう。社会的な労働者としての自らの価値を考えなければ、その人の気分次第でどうとでもなる歳であるし、この先だって、生活を続ける力や気楽さがあればいい、のだけれど。

 社会に適合していないことの後ろめたさというものがあり、一応今のところ自分の食い扶持は稼いでいるものの、自分の生活が自分のことで精一杯ということに対するぼんやりとした罪悪感が影のように身体に張り付いている。結婚や仕事の賛美。その前段階で躓いている俺にとって、それらは直視するには眩しいような事柄だった。

 西原理恵子の本はデビュー作から大体目を通してきたのだけれど、最近の作品は敬遠していた。作風の変化というものは、長く続けていれば大抵の人にはあるものではあるが、最近の西原は二人の子どもを一人で育てているからかそちらの、俺が苦手な領域ばかりに踏み込んでいるのだ。元々西原は「おかあちゃんはえらい男には真似できないだろ」みたいな主張を(しかし嫌味とはとられないやり方で)していたのだが、ここにきて結婚して子供を産んでがんがん働かねば「ならない」のだというのは、俺にとって敬遠したいものだった。無粋を承知で言えば、鴨ちゃんと知り合う〜離婚して後に死を看取る位がマジで西原の「イケイケドンドン」な感じが良く出ていて、雑な絵を描きなぐって喧嘩腰で読者にサービスしてくれる彼女がとても好きだったのだ。

 俺があんまり好きではないリリーが「西原のまねっこ(後発)は下品なだけ」と発言していたことがあって、俺もそれはその通りだと思った。元ヤンで挑戦的な西原の漫画の根底には諦念のようなものを感じる。初期の作品にも稚拙(といっても仕方ない)で感傷的だけれど捨て置けない小品が幾つかあり、その結実が「ぼくんち」だと思うのだが、感傷は(好みさえ合えば)砂糖菓子のように甘く幾らでも口にしてしまうものの、過剰になるやいなやそれが吐き気に転化してしまう。最近の西原にたまに手を出しつつも離れていったのは、嫌いにはなりたくないからでもあった。

 しかし最近「黒西原」がとても薄い『毎日かあさん』の五巻を読み、死んだ元夫のことをギャグの一部にしている漫画を見て、やっぱり面白いなあと思った。「いやらしい大人の皆見てるかな?先生がんばるよ」と言って小学一年生のメカをぼこった(メカ相撲の回で)西原は見られないけれど、彼女が変わったわけではない。ただ消費する側の精神状態で、形は大きく変わるのだ。

 最近パソコンがヤバく、まとまった金の出費を考えると憂鬱で、他にも色々な問題が増え鬱々としていたのだけれど、ふとした拍子に「でも、大したことない」のだと理解できている、ような気分になれる瞬間があり、それは『ぼくんち』のラストシーンを想起させるような、晴れ晴れとしたもので、冬の青空の下で自分が自由なのだと、いきなり外界に放り出されしかし「自動」で歩き出しているこの身体への素朴な感嘆を覚える俺は幸福なのだと感じる。社会との親和力が弱くとも、身体があれば恒常性に甘えることができる。仕事と結婚によって人は幸福への足がかりを得るだろうし幸福は悪いことではない、と感じることができるだろう、が俺にそれは、やはり、似合わないような気がして、でも全く当てはまらないというわけでもなく折衷案のようなものを考え出すのも困難であるし「あのさ、くればとひるく○いむって超にてね?パクリ?これでもりすぺくと系なの?両方のファンはどう思ってるんだろ超ききたくね」とかそういった馬鹿な疑問が湧き続けることでどうにかなる、こともあるだろうし心配をかけている親に数年後でも「ていきっいーじー」とか「ねばーまいん」とか言えていればいいというか後ろめたさが消えることはないだろうから「元気に」演技をする位の余裕は持たねば、と