赤紙貼り剥がし

購入してしまった、『ゴダール全評論・全発言』のⅠとⅡ。正直Ⅲも購入するつもりだったのだが、新品9000円中古8000円って! なめてんのかよ馬鹿じゃねえか、と腹が立ったので買わなかった(腹が立ったなら仕方がないよね!)、けど、後で買うと思う、というか、俺が読むべきなのは俺に必要なのは俺が向き合うべきなのは、Ⅲだと思っている。魅惑と苛立ちとが同居する後年の作品群について、俺は考えなければならない。


 きっと、この本は学生の内に読んでおくべき本だったのだ。だって、学生の頃の俺の方がまだ、映画を見て、映画について考えていたから。俺は毎日のように映画を見ていた時でも自分をシネフィルだなんて思ったことはなくて、贅沢な暇つぶし、だと当時からそんな態度ではあったのだけれど、それにしても学生の内に読むのが「たしなみ」なのではなかったろうか。

 極めて多くの、学生が為すべき「たしなみ」があるとするならば、俺はかなりその「たしなみ」をなしておらず、また、「たしなみ」を網羅している学生なんて存在しないのだから、学生は皆不誠実、と言うこともできるだろうし、また網羅したからって、所詮「たしなみ」であって大した意味も保証もないのは当然のことである、けれど「たしなみ」に対して恥じる感覚を、たまに思い出すことは悪くはないと思う。

 一番好きな映画監督という問いならば幾つかの名前の内の一つではあっても、一番刺激的な映画監督は、と考えるとやはり彼の名前が思い浮かぶ。JLG。JLG/JLG。彼の映画は三十本近く見た、けれど現在の日本でも「少し頑張れ」ば五十本近くの映画をみられるだろう。数が問題ではないのだけれど、負い目を感じるのは俺が「少し」も「頑張って」いなかったからだ。映画史だって見てないし。二、三万で見られるのに(しかし二、三万じゃあないか!)。俺にとってゴダールを見ることは、映画を感じることでもあり映画について考えることでもあった。それを放棄していたのだ。そう、輝かしいこと、全てのことには触れられないにしても、でも、踏み出すのは、為すべき「たしなみ」は簡単なことなのだ。「少し」頑張ってもいいじゃあないか。映画を見ること。

 少し前にⅠを読み終えⅡに取り掛かっているのだが、作品への自己言及の分量が多いせいか、Ⅱの方が刺激的だ。700ページという分量ではあるが、「読みにくい」ことは書かれていないので、割とすらすら読める。楽しい。この分だとⅢがすぐに読みたくなってしまうような気がしてきて(つまり関連した、登場する映画にも目を通さなければならない)心地よい不安に襲われるのだけれど、読むべき見るべきものは他にもあるという幸福、不実。

 しかし、俺もやっぱ映画好きなんだなーと思えることは幸福なのだと思う。遅くないと思えるならばいつでも遅くはない。彼は永遠に若い、意のままに取り戻す少年期、なんて形容を許してしまえるような、そんな瞬間はやはり幸福なんだと思う。うにせんべい、とかいう高カロリー(俺のおやつとしては)高コストの濃い味のせんべいを食べながら思うってか、うにせんべいおいしい。