きみのきわめてよいふうけい

 映画版も見たかったのだが、それは難しいので本で見る『きわめてよいふうけい』とは、回復後の中平卓馬を撮影したホンマタカシの薄っぺらいお手頃な定価のしかしアマゾン先生なら定価の三倍の値が付いてしまっている写真集。肩の力が抜けまくった中平との対話も、会話の断片、彼らの今の写真を見せるように収録されていて、楽しめた。本の題名は、中平が煙草「HOPE」にボールペンでなんとなく書いた言葉から。

 ホンマタカシの写真、というと、俺にはなんとも捉え難いような印象を受ける。それは様々な写真家や勿論素人写真、ではない、「○○(のようだけれど)ではない」と言う風に表現するのがぴったり、のような気がする。俺にとっては何だか掴みどころがないのだけれど、よいふうけいだと、そう思う。

 ゴダールヴィスコンティのことを「ばかでかい才能をもつ人にとっては、きわめてできのいい映画を作ることは、結局はきわめてできのいい趣味の問題で」あり「彼にとってはある意味では、きわめて出来のいい映画を作るというのは容易なことである」と続け、初期のネオ・レアリズモの影響下にある「危うさを孕んだ」ヴィスコンティの『白夜』を評価しながらも、自分はベルイマンの『夏の遊び』の方を愛すると結んでいる。

 文句が付けられない、ということに対して、清潔でシンプルなデザインの、身体にフィットする、それなりの値段がするシャツを身につけるような気分の良さと、密やかな居心地の悪さとを覚える、ことがある。俺は、居心地の良いシャツばかりを身にまとっている訳がないし、それに、居心地、なんてものに身体を任せてはいない。

 けれども『夏の遊び』は文句なしのみずみずしい傑作であって、出来のいいシャツだって、やはり、文句をつけようという「気分」でないならば、素直に消費できる物だ。文句を言い続けるのも沈黙を続けるのも難しい。

 ただ、俺は久しぶりにヴィスコンティのことを考える機会を得る。以前からゴダールの意見と「全く」同じ感想を抱いていた俺は(蛇足だけれどこのことは何も意味しない)、それでもヴィスコンティの映画を消費し続けていた。幸福なことに、カラーの、頭に思い浮かべるであろう趣味の良い「ヴィスコンティ」の映画は大体DVD化されているかレンタルが可能になっているのだ。趣味の良さ、贅沢な暇つぶし、それも、本物の貴族が作った映画! それを簡単に消費できるなんて! 質の高いメロドラマを目に映し続けるように惰性の最良の友だ、

 けれど、彼の出来すぎたメロドラマ映画は小津安二郎でもダグラス・サークでもフランソワ・トリュフォーでも成瀬巳喜男でも山中貞夫でも溝口健二でもない、つまり、繰り返すが「趣味の良い」映画だったのだ。ヴィスコンティの恐ろしい趣味の良さ! 必ず、美しい男が不幸になる映画ばかりを執拗に取り続け、その傍らにはしばしば『山猫』の野性味を身にまとったギリシア彫刻のような女性が、幕を引きに、剣をかざしにやってくるのだ。

 伝統的なファッション写真を撮る写真家達、クリフォード・コフィンやアドルフ・ド・メイヤー、つまり、女性を神話化する彼らの仕事は無邪気であって(後にファッション・広告写真、的な物との距離を置いた作品を撮るエドワード・スタイケンやアーヴィング・ペンらとは多少、違い)ヴィスコンティの、女性を悪斬の天使と代える手腕はそれらとは異なり、恐ろしい、女性が勝利する美しい映画『夏の嵐』『熊座の淡き星影』『イノセント』もっとも、彼女達に頌歌が相応しくない作品だとしても、勝手に男が自死を選ぶようになっているので、問題はない。

 何故俺は恐れているか。俺は現代小説を書いているし、現代に生きているが、生活を続けるならば、「演劇的」でも「映画的」でもない、捨て置くべき自死や供犠の連なりが、悩ましげに没する波頭のように、底の見えない海の上でちらちらと顔を見せ、底へと誘惑してくる常に傍らにはこの状況。に対してヴィスコンティの映画はあまりにも出来が良く、驚きが無く、男が負け続ける美しい男が。そして、女は決して傷つかない。ヴィスコンティは女を認めていない。「君はナイフを振るえばいいんだ、その、そう、その力強いストローク、そう、美しい」とでも言っているかのようだ。大皿の上には男、あまりにも美しい男、あまりにも趣味の良い、しかしそれはミニマル・ミュージックのような虚脱と快感とを与える。不安になる。

 俺は少年漫画、を書くような気分で小説を書いているのだけれど、「女の子」をアレゴリーにメタファーにシンボルにしてはいなかったか? と疑問が湧く、別にそれでも作品が成立しているならばそれが書きたいならばそれでいい、けれども俺はそれでは嫌だ、特権的なミニマルな超越的なものへのあこがれはあっても人間の方がいい、人間でなければならないと、そう思う。また、俺は自死を供犠を必要以上に愛してはいなかったか、と疑惑が湧く。絶え間ない結局の所意味をなさない自死の連なりの中に真に恥ずべき(!)嬌態を見出してはいなかったか?

 しかし『家族の肖像』のことを想起すると、少しはこの無駄に高揚した気分が収まってくる。ヴィスコンティのようでヴィスコンティではない教授と若き美しき男との触れ合い、が主題ではあっても俺にとって印象的なのは燕を手にした年老いブルジョア女、が主要な女として見出されている点であって、若き美しき「ヘルムート・バーガー」の自死に件の女は涙を流しつつも「悲しみなどあてにはならない」と告げる、その生き生きとした、醜さ! 『ヴェニスに死す』のラスト、化粧をされた作曲家の道化のようにしかみえないあの顔のように、醜く、趣味の良さを救っている。

 俺にとってのきわめてよいふうけいは、趣味の良さでも(効果的な/打ち捨てられるべき)自死(の総体)でもない。俺はそれらを好んでいるが、愛しているわけではない。ヴィスコンティの映画を好きだが、愛しているわけではない。「分かるか? そんなわけがないだろ! 誰が自死を好むんだこの馬鹿! 分かるか? 分からないだろ? いいや、言わなくてもいいんだ言わなくたって分かる! 黙れ! いいか? 俺は自死を愛してなんかいないんだちっとも! 全くだ! その名前を呼ぶのも汚らわしい! 汚らわしいものなんてちっとも好きじゃあない! なんてったって俺は人間なんだからな! お前とは違う!」

 といった方法ではなく俺は「趣味の良さも自死も、そこそこ好き」で、『夏の遊び』の方がもっと好き、なのだけれど、ベルイマンで最も美しい映画と言えば頭に思い浮かぶのがモノクロの『野いちご』か『夏の遊び』、蓮実がとても好意的に語った俺も大好きな輝かしい『夏の遊び』、であっても一番好きな気になる映画は蓮実がその年のワースト映画の中に選んだことがあるカラーの『さけびとささやき』であって、『さけびとささやき』の弛緩に居心地の悪さ、もっと言えば習作臭さを感じても、あの人間的な神々しさは川端康成の佳作と言うべきではない小品『花のワルツ』に通じる「心地よさ」があり、少年漫画的ゲーム脳的俺のきわめてよいふうけいは自死や趣味の良さよりも少女の友愛の方がずっと近いと感じまた、自分にとって大切なことは(こんな面倒な散漫な長文を拾い読みでも目にしてしまった方には多少、申し訳ないと思わないでもないのだけれど)勝手に了解されているのだ。