はい、いえああ、ってばよ

数時間ごとに思いは乱れるのではあるけれど、ようやく決心がつき辞める、と切り出し、それから三回にわたって話し合いが行われてしかし、相手も頑固にされては引き留められるわけもなく、失礼しますと俺が席を外しイヤホンをはめふらふら歩きだすとすぐ、虚脱感に襲われ、いつものことだいつものことだと思いつつ歩き出す。

 革命、なんてロマンチックなことばだけれどその実用性、信頼性においては信用がならず、それならば予めフェイクの、ゲームの中の革命を消費する方がずっと効率的で、楽しめる、と思ってはいても有名な「名前」は本を読んでいれば何度も顔を出し、何度も目にすれば少しは学ぼうかなあ、と思いながらも、いつものように思うだけ。

 スガ秀実は「1968」に関する著作を何冊か出版していて、浅田彰のように金井美恵子のように蓮實重彦のように嫌味、いや、突っ込みが御上手なスガの本は一通り目を通しておきたいなあ、と暇人ならではの発想で、しかし彼の「1968」に関する本は途中で投げ出してしまい、唯一読みとおせた『革命的なあまりに革命的な』はその本の内容がとても豊潤だったから、革命に関心がない人間にも楽しめる内容だったからで、いつものように図書館で見知った名前で検索をかけて予約した『革命待望、1968がくれる未来』という本はスガ単独の本ではなく、五人による共著で、論文と鼎談で構成されておりお目当てのスガは鼎談に参加して年長者としてちょろりと言葉を喋るだけで、中心になっているのはたぶん、いや、ぜったいに「いいひと」の鈴木謙介と、似たような感じの(要するに良く知らない)人らで、お目当てのスガの言葉がなかったおかげで、とても読みやすい本だった。読み易くて、読んで損はない本だと思った(読んで損をする本って何のこと?)。

 理知的な、それなりに誠実な人が社会に言及する「軽めの」(しかし「重め」の本はあまり出版されないだろうし、俺自体それらの熱心な読者ではない)本の末尾や序文には大抵「この本は大きな力を持っているわけではない、しかしこういった思考の繰り返しが潮流を生む、呼び水になるのだ」という至極まっとうな主張が掲げられるもので、この本も似たようなことが書かれていて、既視感に襲われつつも、「社会」への言及とはそうするしかないような気がするのだ。絶え間ない投棄、止揚のしょぼいひと波になることが仕事であって、俺はそれ自体、俺が今口にした言葉自体には敬意を表するが自分でしようという気にはならない。だって、絶え間ない投棄、止揚のしょぼいひと波、といった「言葉」、そこに狂熱の無き愛着を覚えるから。これだって、社会へのコミットメントと言えるか? 言えない、だろう。

 この本を読みながら倉石信乃『スナップショット 写真の輝き』という本の文章を想起していた。題名で分かるだろうこの本で、平面作品(立体作品)について語る際の「批評家・評論家」という肩書きを持ち発言する人の作品に向き合うと「筆がすべって」作品そのものの現前よりも構築的言説を披露してしまう現象、以前本江邦夫の著作で、多くの美術い批評を目にして感じたことがやはりここでも起こっていて、それにしてもいわゆる美術のアーティストの発言よりは写真作家の発言の方が「批評家・評論家」の言葉よりも興味深いような気がするのは気のせいだろうか?

 とても個人的な直観と言うか、要するに偏見ではあるけれど、アーティストの発言は割と「哲学を学んでない人の哲学的詩的直観」といったものが多いように思えて(勿論それだけだとは思わないし、俺は彼らの思想思考にたいして関心がない。作品さえよければいいに決まっている)、それに比べると写真作家は撮る、提出する、という即物的といってもいい問題を扱っているのだから、もっと衒わずに、或いは肉迫した言葉を手にしやすい、ような気がしてくるのだ。
 
 というかそんなことを気にする人間はやはり読むべきではないようなするのだが、そんな個所ばかりでもないし、何より、写真の図版付きで作家を紹介してくれる、というこの本の性格だけで俺はとても感謝していてだって、写真は印刷されるものだから、他の作品形態に比べて楽しみやすいのだ金を渋る、というか渋らざるを得ない俺のような怠け者には。

「森山、中平が意図的に時には無意識に、人間そのものを真正面から把握することを主題化してこなかった批判として、例えば北島敬三の「portraits」というシリーズが存在しているかもしれない。森山、中平は「人間」を撮っていない、と北島さんが言われたのをよく覚えています。考えてみると、あの「portraits」というのは、したがって人間が移されなかったスナップショット、人間を主題にすることが不可能であったスナップショットを補完するような存在として考えることができるのではないか」

「森山、中平たち『プロヴォーク』の世代が抱えていたコードは、「疎外」によって比喩的に人間を表象することであった。つまり彼らは、「他者との対面の位置」を使い古された疑制的ヒューマニズムの構成要素として排し、「事物」への疑視に向かう(中略)北島を駆り立てるのは、注視と言う欲望のオブセッションではない。そうではなく、他者とのひたすらな遭遇、その反復への意志にほかならない」

 きっと、森山、中平(初期、中期)のアプローチは俺にとってなじみのいい、居心地の良いものだ。でもこの本に収録されていた北島の作品は概ねこの倉石の言葉が妥当しているような写真であって、それはつまり「1968」を再検討する「ひとのいい」鈴木謙介とか、そういった人にも通底する、つまり信頼に対する基盤の違いであり、信頼がない、かのようなしかし作品を作ると言うことはそれだけで何らかへの肯定が含まれているのだからす、っと、忍び込むその揺らぎが魅惑的だ、とか考えるような俺にとっては警戒するような代物ではあるのだが、それでもなお俺はそれらについて考えるべきだ、考えると面白いのだ、とそう思う。「彼らのように或いは彼らのように」生きられないからこそ、俺には雑多なものが硬質なものが必要なのだ。それにはやはり、「彼らの」言葉も必要なのだ。

 ここ数カ月は、漫画本等を除き、月に50冊程度は読んでいると思う。けれど本によって消費しなければならない労力や時間が著しく異なるのだからあくまで一日数時間読書にあてている、という程度の話で、しかもそれが血肉になっているとは限らずまた、そこそこ誠実な、つまり「普通の感覚」を持っている人は多くの事を「忘れてしまう」ことを知っている。

 ふと、50冊は多いような気がしないでもない、というかもっと一冊の本に向き合うべきではないか(俺は厚い本があまり好きじゃないし、めんどくせーと思いつつも読む)という思いがよぎるが、読まねばならないかのような本のリストは本を読む度に膨れ上がってくる。もし、俺に資金があるならば象牙の塔気どりもいいだろうけれど、実際には分厚いバトルロワイアルを読みながら古内東子の「私は女なの、ねえ、私は女、女は愛されないと生きている意味がないのねえ、なんで私に気付いてくれないの私を愛して私を、愛して、愛して、私を愛して」とかいう女女女の押し売りステキ歌謡曲をエンドレスリピートする(どっちも何の気なしに借りた、てか、古内東子好きです俺)とか、無職に陥る時にマルクスとか全共闘とか読むのか嫌だなーでもいつかは読むんだしなあ、とか思案するような滑稽さで、それよりも象牙の塔の方がずっと、いや、それよりもピチカート・ファイヴのキュートな「ルーム・サーヴィス」の歌詞、

「この夏はずっと ホテルのベッドで ぼんやりして過ごすの
 ルームサーヴィスが来るまで またしばらく眠り続ける」

 のが憧れなのだけれど、俺に似合いなのはやはり、本を読んだり本なんかを読まない事なのだろう。旅行したいとは思わないけれど、ホテルには泊まりたいと思う。段ボールとかじゃない、素敵なホテル。

 どちらも気分が滅入るような選択肢しかなくても、自分で選んでいるような、かのような、そういった気分であるべきだ。仕事から解放されても支払いからは解放されない、けれど、とにかく、お疲れ様疲れたよな頑張れよ!